「ミツキ、元気にしてた?」
向かい合わせに座った途端、そう言ってアスカは花のように微笑んだ。どこかよそよそしい感じに思わず言葉に詰まる。 会いたくて堪らなかったはずなのに、いざ目の前にするとどう振る舞えばいいのかわからなかった。
「ああ。アスカは?」
「元気だよ」
間髪を入れずに返事は来たけど、全然元気そうには見えなかった。哀しみを湛えた瞳も、妙に淋しげな雰囲気も。 その美しい瞳に囚われれば、容易く引き摺り込まれることを知ってる。だから俺は、自制心を保つことに必死だった。
「こんな形で会えるなんて思わなかった。すごい偶然だね」
「偶然なんかじゃない。ずっと捜してたよ」
俺がそう言うと、気まずそうに口を閉ざしてしまう。
「……アスカ、大学に来いよ」
俺の知ってるアスカは、純粋な瞳で屈託のない笑顔を見せる、キャンパスに降りた小さな陽だまりのような存在だった。今目の前にいるのは本当のアスカじゃない。
「休学の手続きはちゃんと取ってるんだ。でも多分、このままやめると思う。もう行きたくないんだ」
なぜだとは訊けなかった。俺はその理由を知っていたから。 アスカはまた少し黙ってから、はぐらかすように口を開いた。
「今、何かすることある? 家事とか」
「……ないな。全部済ませてるから」
アスカを家に招くために、俺は何日も前からこの1DKの部屋を必死に片付けていた。そもそも家事をさせるために呼んだわけじゃない。
「ミツキ、どうして契約したの」
アスカが澄んだ瞳で俺をじっと見つめてくる。俺はただアスカに会いたくて、その一心であのマスターと契約したに過ぎなかった。
「アスカのことが心配だった。気になってたし、ずっと会いたいと思ってたんだ」
ああ、これじゃあまるで愛の告白だ。馬鹿みたいな俺の言葉にアスカの視線が揺れ動く。
「……色々、聞いてるよね」
探るような言い方なのは、アスカも俺と同じようにどう接すればいいのか迷っているのかもしれない。
「本当のことを、ちゃんとアスカの口から聞きたい。だから、ずっと捜してたんだ」
今すぐにでも腕を伸ばして抱き寄せたくて堪らないのに、触れた途端に大切なものを滅茶苦茶に壊してしまいそうで怖かった。
始めて出逢った場所は、A館一階の教室だった。 大学に入学してそれほど日は経ってない。確か5月頃だったと思う。 二限目が英語の授業で、俺は寝坊してギリギリの時間に駆け込んだ。 間に合ったのはいいが、教科書を忘れたことに気づく。溜息をつきながら机の上にノートを出すと、隣に座っている誰かが、開いた教科書をこちらに寄せてきた。
『よかったら、一緒に』
その顔を見て俺は驚く。匂い立つような色気を漂わせながら、澄んだ瞳に俺を映すのはあの『アスカ』だったからだ。 アスカはこの大学では名の知れた有名人だった。学部が違うから直接話したことはなかったけれど、俺もその顔と名前は知っていた。 二限目が終われば昼休みで、周りは足早に食堂の方向へ流れていく。気もそぞろに受けた授業がようやく終わって、俺はアスカに礼を言った。
『助かったよ、ありがとう』
『却って迷惑じゃなかった? よかった』
花の開くような微笑みに、心臓が鷲掴みにされる。踵を返そうとするアスカを俺は思わず引き止めた。咄嗟に掴んだ腕は、びっくりするほど細かった。
『一緒に学食に行かないか。お礼にスペシャルランチ、奢るから』
スペシャルランチに絆されたわけではないだろうけど、アスカはしばらく考え込んだ後、『いいよ』と頷いた。 それが、俺とアスカとの出逢いだった。
「お昼ごはん、どうする? 何か作るから、買い出しに行くけど」
「じゃあ、もう少ししたら。一緒に行こうか」
俺がそう言うと、アスカは気まずさを取り繕うようにうっすらと微笑んだ。 なんだか、大人っぽくなったな。 俺の知ってるアスカはもっと元気で、どこかふわふわしたところがあった。今は妙に落ち着いていて、全然知らない人みたいだ。 ぽっかりと空いた二人の距離が、もどかしかった。
「……アスカ。俺、ずっと」
謝りたかったことがあるんだ。 そう口にしようとしたその時、玄関のインターフォンが鳴り響いた。
「ごめん、出てくる」
立ち上がってドアスコープを覗こうとすると、耳障りなドアを叩く音と共に聞き覚えのある甲高い声がした。
「光希、早く開けろよ!」
「……はあ?」
恐る恐る玄関のドアを開けた途端、小悪魔が隙間を擦り抜けて足下に飛び込んで来る。
「ただいまあ!」
「おい、ただいまじゃないぞ」
「ごめんねえ、光希」
小悪魔の後ろから、親玉の悪魔が現れた。きれいな満面の笑顔に嫌な予感がする。
「ちょっと、お願いがあるの」
「こっちが俺の姉で、こっちが姉の息子の歩」
悪魔がにっこり笑って、小悪魔がなぜかデレデレした。
「で、同じ大学の同級生」
そう紹介すれば、アスカは魅惑の微笑みを浮かべて二人を交互に見つめる。
「アスカです」
4人で円になって床に座り、何となくお互いの様子を探っている。何なんだ、この状況。
「大体、来る前に連絡ぐらいしろよ。俺が家にいなかったらどうするつもりだったんだ」
「連絡したら、断るでしょ」
「当たり前だ」
「光希のバイト先、ダイニングバーって言ってたから土曜日の朝なら家にいるかなと思って。押しかけてきちゃった。あはは」
はあ、と溜息が口からこぼれる。用件はもう察しがついていた。
「今日と明日で急に出張が入っちゃって。悪いけど、歩の面倒を見てくれない?」
笑顔を浮かべながら、全く悪びれずにそんなことを言う。歩は生意気で口も立つけどまだ5歳だ。一人で二日間留守番できる年齢じゃない。
「保育園は夜8時までだし」
「父さんと母さんは」
「今日から一泊旅行なんだって。朝から出発してるからね」
ああ、元気にしてるんだな。 長い間会っていない両親の顔を思い浮かべると、複雑な気持ちになった。
「だから、あんたにしか頼めないのよ。お願い」
目の前で両手を合わせられて、口ごもってしまう。 姉は子どもができたことがきっかけで結婚して、20歳で出産した。だけどその後すぐに離婚して、今は一人で仕事をしながら歩を育てている。もともといい加減な性格だった歩の父親は、当然のように養育費も支払わず、今どこにいるのかさえわからない。 歩の面倒を見るのは初めてじゃないし、これが他の日ならまだいい。だけど、どうしてこのタイミングなんだ。
「大丈夫です」
アスカが急に話に割って入ってきた。
「僕、今日はここに泊まらせてもらうんです。小さな子の面倒を見るのは慣れてないけど、ミツキと一緒だから何とかなると思います」
「……そう?」
好都合だと言わんばかりに、姉の顔が華やいだ。
「ありがとう。じゃあ、よろしくね。もう行かなくちゃいけないのよ。歩、いい子にしててね」
そう言って歩の頬にキスをした姉は、小さな旅行カバンを片手に提げて、足早に家を出て行ってしまった。 全く、なんて強引なんだ。突如置かれた状況に呆然とする俺の顔を、アスカが笑って見つめる。
「ミツキ、お姉さんと仲いいんだね」
「……よさそうに見えたか?」
アスカは頷くけど、俺には全然そうは思えなかった。
「ねえねえ」
歩が急にかわいらしい声をあげて、アスカに擦り寄ってくる。
「アスカ、だっこして」
言うや否や、歩はアスカにぴょこんと抱きついた。お前、いきなり呼び捨てか。しかもだっこって。
「わあ、いいにおい……」
歩はアスカに抱きついたまま鼻をふくふくと動かしている。小さな子は大人の顔色に敏感だ。アスカは自分のことを悪いようにはしないと本能で感じ取ったのかもしれない。
「こら、歩」
「アユムくん、かわいいね。今日と明日、よろしくね」
再会してから初めて見るアスカの嬉しそうな顔に、つい見惚れてしまう。 俺はすっかり歩に負けてしまっていた。
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