どこをどうやって来たのか、わからない。頭はひどくぼんやりしているのに、気がつけば僕はユウのマンションに辿り着いていた。こんな気持ちのまま、ここへ戻って来てもよかったのだろうか。心と身体が乖離しているような浮遊感の中、僕はエントランスの前で足を止める。真夜中のしんとした静寂が、僕を一層不安にさせる。もしここに入らなければ、一体僕はどこへ行けるのだろう。「アスカ」その場で立ち竦んでいると、聞き慣れた声が辺りの静けさを破った。「ユウ……どうして」声のする方へ目を向ければ、ラフな格好をしたユウが僕に向かって歩み寄ってくるのが見えた。「おかえり、アスカ」いつもと変わらない、優しくて穏やかな口調だ。ユウが真っ直ぐに伸ばしてきた右手を、僕は少しだけ迷ってから取った。きっと長い間、外で待っていたのだろう。その手はとても冷たかった。「ただいま」ふたつの体温が、掌の中でゆっくりと混じり合う。僕は手を繋いだままユウと一緒にエントランスを通り抜けて、エレベーターに乗り込んだ。天上に近い最上階まで辿り着いた箱を降りて、あの部屋へと向かう。玄関から部屋に入った途端、張り詰めていた糸が切れてしまった。じんわりと浮かんだ涙で視界が霞む。「ほら、アスカ」優しく抱き寄せられて、躊躇う隙もなく涙が溢れ出た。「ごめん、少しだけ……」ユウはやっぱり何もかもわかっているのだろう。しばらくの間、僕はそのまま泣き続けた。「僕、今まで誰が相手でも、心のどこかでサキを想い出しながら抱かれてきたんだ」ソファでユウの肩にもたれ掛かりながら、僕は胸の中に渦巻くものを少しずつ解して吐き出していく。「……ごめんなさい」顔を上げて様子を窺えば、サキと同じ鳶色の瞳には不安げな僕の顔が映し出されていた。「知ってるよ。謝らなくていい」だけど、ミツキだけは違ったんだ。互いの身体を求め合ったあの時間は、ミツキのことだけを考えて、ミツキだけを感じることができた。だからと言って僕はこれからどうすればいいのかも、自分がどうしたいのかもわからないんだ。ただ、ミツキと一緒にいられないのは確かだった。「アスカ」僕を抱き寄せるユウの腕は温かくて、ひとときの安らぎを与えてくれる。けれど、甘やかに熱く求められるあの時間を、僕は知ってしまったから。「もう、やめるか」その言葉に僕は目を閉じる。最初からユウはいつでもやめていいと言っていた。でも、まだ無理だということは僕自身がよくわかっていた。「……大丈夫」息をついてソファに座り直せば、ズボンの後ろポケットから紙の擦れる音がした。手を差し入れると、小さく折り畳まれたメモ用紙が出てくる。そこには携帯電話の番号が書かれていて、僕は息を呑む。――いつの間に。破り捨てる直前、僕はその11桁の羅列を脳裏に刻み込んでしまっていた。「ユウ。僕は弱くてずるい人間だ」止まっていた涙がまた溢れて流れ落ちた。親指で優しく頬を拭いながら、ユウは低く穏やかに響く声で僕を宥めてくれる。「アスカ。眠れば全て忘れるよ」僕を世界から遮断してくれる、ここは唯一の場所。哀しみも抱かれた想い出も全てを洗い流して、僕はユウのベッドに潜り込む。「一人にしないで……」眠るときは誰かが一緒じゃないと、不安で仕方ない。目が覚めたときに一人でいれば、閉ざされた闇の中に取り残されるあの喪失感に襲われるから。『光希、愛してる』ひとつに融けた瞬間、思わず口にしそうになった言葉。あの幸せを忘れるために、僕は夢の世界へと逃げ込もうとしている。僕には辿り着ける場所などなくて、水槽の中にいたあの儚げな生物のように、天と地の間を浮遊しながら長い夢を見続ける。――アスカ、愛してるよ。温かな腕の中で眠りに落ちる直前、深く響く声が耳元で聴こえた気がした。“Lost-time Kiss” end - 14 - bookmarkprev next ▼back