『アスカに会いたい会いたい会いたーい!』
甲高い声が耳元で響いて鼓膜をビリビリと刺激する。電話の向こうで駄々を捏ねている歩に、俺は心の中でこっそりと悪態をついた。 俺だって会いたいよ、バカ。
『アスカ、次はいつ来る?』
「さあな」
溜息混じりに答えれば、歩の拗ねた顔が脳裏に浮かんでくる。
『だって、アスカと約束したもん。また遊ぼうって』
「アスカは約束を破らないよ、歩」
そうやって、俺は自分自身に言い聞かせる。
「俺が絶対にまた会わせてやる。それまでいい子にして待っとけよ」
俺も歩も、いつかまたアスカに会えることを信じて、ただ待つしかないんだ。
もう何杯目になるかもわからないアルコールを頼んだはずが、目の前に水の入ったグラスを乱暴に置かれる。縁からこぼれそうに揺れる透明な液体を見ながらぼんやりとした頭で想い出すのは、アスカが最後に見せた涙の記憶だった。
「ここはお前みたいなガキが呑んだくれるような店じゃない。これを呑んで、とっとと帰れ」
俺を罵倒する深い響きの低音は、憎々しいぐらいに顔のいいこの店のマスターの声だった。
「感じ悪いな」
「お前の倍近く生きてるんだ。タメ口をきくな」
この男がアスカとひとつ屋根の下にいるのかと思うと、無性に腹立たしかった。 アスカに会えないことがわかっていても、どうして俺がこの店に足を運ぶのかと言えば答えは決まっている。ここがアスカに繋がる唯一の接点だからだ。
「……アスカを返せよ」
酔いに任せて言いたいことを口にすれば、マスターは冷たい眼差しで俺を見る。今更ながら俺は気づく。その淡い色をした双眸が、高尾沙生と同じものだということに。
「いいか、俺がアスカを閉じ込めてるわけじゃない。これが、アスカの意志だ」
そう言い切られては返す言葉もない。 そうだ。アスカが俺から離れていったのは、この男のせいじゃない。それでもやり切れないこの想いには、他に行き場がなかった。
「焦るな。アスカはまだ無理だ」
グラスを磨きながら諭すようにそう言うのは、案外俺に同情しているのかもしれない。 この男も、アスカを抱いているのだろうか。死んだ弟の、かつての恋人を。 想像しただけでじりじりと焼けつくような嫉妬が湧き起こって、頭がおかしくなりそうだった。
「おい、ちょっと黙ってろよ」
マスターが有無を言わさぬ口調で俺に言う。何だよと口にしかけてその顔を見れば、鋭い眼差しが真っ直ぐに一点へと向けられていた。そのただならぬ様子に、思わず同じ方向へと視線を走らせる。 入口の扉から、女の人が店へと入ってくるところだった。
歩く度にふわふわと長い髪が優雅に揺れる。お伽話から出てきた少女のように可憐な人だ。大きな瞳には勝気そうな強い光が宿る。桜色の唇は、俺が恋い焦がれる人のものにとてもよく似ていた。 一度しか会ったことはないが、間違いない。アスカのお姉さんだ。
「……瑠衣、無闇に店には来るなと言っただろ」
ルイと呼ばれたその人はカウンターまで歩み寄り、俺のふたつ隣の席に腰掛けた。
「いいでしょ。私だってたまにはこういうところで息抜きしたい」
拗ねたような言い方は、実年齢よりも幼く聞こえた。
「侑とはここじゃないと会えないし。家がどこか知らないもん」
「女がいるんだ。お前が急に押し掛けて来て、つまらない誤解をされると面倒だからな」
俺は固唾を呑みながら、横目で二人の様子を窺う。
「ねえ。飛鳥の居場所、本当に知らないの?」
どきりと心臓が大きな音を立てた。それが本題なんだろう。この人はアスカがこの男のところにいるとは知らずにここへ足を運んでるんだ。
「何度言ったらわかるんだ。俺も捜してる」
「侑が囲ってたりしてね」
「馬鹿を言うな」
マスターは顔色ひとつ変えずに受け流している。聞いている俺の方がヒヤヒヤしていた。
「早く帰れよ」
「つれないわね。せっかく来たのに」
そう言って、彼女はおもむろに携帯電話を取り出した。
「ねえ、見て見て。かわいいでしょ。二ヶ月になったのよ」
鈴の音のような澄んだ声は、十代の少女のようだ。 悪趣味だとわかっていながら、俺は気づかれないように携帯電話のディスプレイを覗き見る。そこに映っているのは、まだ生まれて間もないような赤ちゃんの写真だった。
「やっとよく寝るようになって、少し楽になったわ」
この人に、子どもがいるのか? なぜか嫌な予感がしてマスターを見れば、どことなく苛立っているようにも見えた。
「わかったから、もう帰れ」
その声には、さっきまでは見られなかった焦りが含まれている。
「ねえ、見て。この子の瞳……」
二人の醸し出す異様な空気に気圧された俺は、もはや傍観者になり切ることも忘れて写真に見入ってしまう。
「沙生と同じ、鳶色でしょう」
『僕、子どもは産めないんだ』
アスカが哀しい瞳でそう言っていた理由を、俺はようやく理解する。
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