「……眠い」
「早く寝ないからだよ」
欠伸をする俺に、アスカが呆れたように言う。結局夜通しアスカと戯れて、明け方に二人意識を失うように眠り、目が覚めた頃には既に昼が近づいていた。 慌ててカバンに荷物を詰め込んで家を出て、ようやく乗り込んだ電車の二人掛けシートに座ったところだった。繋いだ手を握りしめると、そっと握り返してくる。
「アスカのせいだ」
「僕、何もしてないよ」
そう言って肩に持たれかかる頭の重みが心地いい。
「月曜日なのに、授業に出なくていいの?」
「お前に言われたくないよ」
俺の言葉にアスカが少し笑う。すぐには無理でも、またいつかアスカとキャンパスで一緒に過ごせるようになりたかった。 昼下がりの強い陽射しが車窓から降り注ぐ。
「ここ、陽当たりがよくて気持ちいい……」
目を閉じてそう呟くアスカの頬は、光を浴びて煌めいている。そっと触れると擽ったそうに吐息を漏らした。 俺とアスカは二人だけの世界で幸せに微睡む。
目的地に着く頃には、夕方になっていた。 旅館でチェックインの手続きをして、部屋まで案内してくれた仲居さんが出て行った途端、アスカが嬉しそうに口を開いた。
「すごい。部屋に露天風呂が付いてるんだね」
「アスカと部屋に篭ろうと思って。食事も部屋出しだから、大浴場は行かなくていいよ」
アスカの身体を誰にも見せたくなくてそう言う俺に、素直に頷く。
「僕、こういうところって初めてだからドキドキする」
「え? そうなのか」
「うん……家族で旅行したこともないしね」
家族、と発音するとき、わずかに声が上擦った気がした。
「……アスカ。今、どこに住んでるのか訊いてもいいか?」
恐る恐る尋ねれば、アスカは少し目を伏せる。
「PLASTIC HEAVENのマスターの家にいる」
思っていたよりも容易く返事をしてくれたけれど、その答えは俺にとってはいいものじゃなかった。あの感じの悪いマスターの顔が頭にちらつく。
『覚悟はあるか』
あの時、挑むような瞳で俺を見ていた理由がわかった気がした。
「あの人……ユウは、サキのお兄さんなんだ。だから、僕の面倒を見てくれてる」
途端にアスカの表情が哀しげなものになっていく。
「そっか」
ゆっくりでいいよ。そう囁いて、俺はアスカの頭を抱き寄せる。
高尾沙生の話を聞きたかった。バーのマスターのこと、アスカがしてきた仕事のこと、家に帰っていない理由。俺の知らないアスカのことを、全て。 会えなかった間の空白を埋めていきたい。でも、アスカが自分から言いたくなるのを待たなければいけないと思う。だから俺は、逸る気持ちを必死に抑えて詰問しないようにする。
「アスカ、大好きだ」
そう言って軽くキスをすると、アスカに微笑みが戻ってきた。 ドアをノックする音が聞こえる。食事の時間が来たようだった。
アスカは食が細いわりにはよく食べていた。こうして食欲があることが、精神的に安定している証拠のような気がして嬉しかった。 食事の膳が下げれられて、布団を二組敷いてもらう。カップルだと思われたのか、布団が隙間なく敷かれているのが妙に気恥ずかしい。
「お風呂、一緒に入ろう」
匂うような色香を振りまきながら、アスカは腕を引いて甘えた口振りで俺を誘う。桜色の唇にキスをしながら、俺はアスカの肌を覆うシャツを脱がせていった。
月明かりの降り注ぐ、静かな夜だ。 二人でじゃれるように服を脱いでから外に出て、なみなみと張った湯舟に浸かる。掌で湯を掬えばちゃぷりと音を立てて水面が揺れた。
「身体が溶けてるみたい」
アスカが不思議そうな顔をして腕を擦る。ぬるい湯は重アルカリ性の温泉で、浸かると肌が溶けているような感じがした。
「気持ちいい。熱くないから、ずっと入っていられそう」
そう言ってアスカは夜空を仰ぐ。満月に近い形の月が浮かんでいた。外の冷たい空気は澄んでいて心地いい。
「アスカ、おいで」
遠慮がちに距離を空けて座っていたアスカがそっと近づいてくる。 湯の中で触れた手がぬるりと滑って、しっかりと繋ぎ直した。
「なんか、修学旅行みたいだね」
「そうか?」
俺にはそんな感じはしないけど、アスカにとっては旅行と言えば修学旅行なのかもしれない。
「修学旅行の夜って、楽しかったな。好きな子の名前を告白したり、怖い話をしてから肝試ししたり」
そっと肩を抱き寄せながらそう話すと、アスカのきれいな瞳に俺が映っていた。
「ミツキって、もっと淡白な人だと思ってた。女の子と付き合ってるのは知ってたけど、彼女の話をほとんど聞いたことがなかったし」
確かにそうだった。今思えばアスカのことが気になっていたからというのもあるが、俺には付き合っている彼女に入れ込むことができない理由があった。
「……アスカに話しておきたいことがあるんだ」
湯舟の中で握りしめた手にそっと力を込める。光から逃れるように月に背を向けて、俺は自分のことを語っていく。そうすることで、少しずつアスカが心を開いてくれることを願って。
「俺、高校生のときに同級生の彼女がいてさ。勉強なんて手に付かないぐらい本当に大好きだったんだ」
突然そんな話をする俺のことを、アスカは真剣な眼差しでじっと見つめる。
「ある日彼女が、不安そうな顔で生理が来ないと言い出した。検査したらやっぱり妊娠してたんだ。彼女のことが好きだったから、産んで欲しかった。俺が学校を辞めて働いて、彼女と子どもを養おうと思った。でも、彼女は堕ろすことしか考えてなかったんだ。こんなことで人生を無駄にしたくないって言われたよ」
『子どもは大人になってから作ればいいから』
リセットボタンを押したのは、彼女だった。堕ろすことで傷つくのは自分だと十分わかっていたのだろう。だから、俺の意見なんて初めから聞く耳を持たなかった。
「俺は土下座して頼み込んだ。絶対に産んで欲しかったんだ。いつかまた妊娠したとしても、堕ろしたその子は帰ってこない。それでも彼女の意志は固くて、中絶してしまった」
アスカが俺の手を強く握り返してくる。その顔色は空に浮かぶ月のように青みを帯びていた。
「彼女の妊娠がわかって、悩んだけど自分の親に話したよ。家の中はめちゃくちゃになった。父親には殴られるし、母親には泣かれるし。向こうの親に謝りに行ったら、もう二度と娘に会わないでくれと言われた。彼女の身体を傷つけたのは俺だから、責任を取ってこの先もずっと付き合っていきたかったし、結婚しなければいけないと思ってた。でも、そういう風に思い始めるともう駄目だった。そんな付き合い方は重いって、彼女に言われたよ。結局そのまま別れて、それっきりだ。俺は親ともギクシャクするようになって、姉が間に入ってくれようとしたんだけど、うまくいかなかった。大学入学をきっかけに、家を出たんだ」
アスカは何も言わなかった。風ひとつない静かな夜に、自分の声がやけに大きく響いている気がした。
「その彼女と別れてからも、何人かの女の子と付き合った。でも、全然入れ込むことができないし、距離を置いてしまう。彼女のことが忘れられないとか、そういうのじゃないんだ。生まれてくるはずだった生命を犠牲にした後ろめたさがあるのかもしれない。誰と一緒にいても、誰を抱いても心が動かない」
「どうして、僕にそんな話をするの」
ようやくアスカが口を開いた。感情を抑え込んだような、淡々とした口調だった。
「アスカに聞いてほしかったんだ」
俺は両腕を回してアスカを抱きしめる。こうして湯舟に浸かっていても、不思議と甘い匂いは消えることがない。
「俺にとってアスカは特別なんだ。もう真剣に誰かを好きになるのは無理だと思ってた。適当に付き合って、楽しく過ごせればそれでよかったんだ。なのにアスカだけはそうじゃない。今も、アスカが欲しくて堪らないよ。そのためなら何を犠牲にしてもいい」
アスカの瞳が切なげに揺れる。その全てが愛おしいと思った。
「愛してる……」
口づけて舌を絡めればゆっくりと熱が交わっていく。このままこの夜に融けてしまいそうだった。 重ねた唇を離せば、アスカは躊躇いがちに俺を見る。その瞳の哀しげな揺らめきに胸が痛んだ。
「僕、子どもは産めないんだ。それでもいいの?」
あまりにも唐突な言い方に驚く。アスカが男だとわかってて好きになっているのに、そんなことを言われるなんて思ってもいなかった。
「馬鹿なことを言うなよ、当たり前だろ。アスカじゃなきゃ駄目なんだ」
俺はこのとき、まだ何も知らなかった。
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