the 2nd day[1/3]

朝起きてからアスカの作ってくれた朝食をしっかりと平らげて、家の中で散々歩との遊びに付き合わされた。少し早めの昼食を終えたところで、歩が退屈を訴え出した。

「お出かけしたい! お出かけしたい! お出かけしたーい!」

駄々を捏ねる声にうんざりしていると、歩が電車の玩具を片手に近づいてきた。

「電車に乗りたい! 光希、連れてけよ」

「こら。連れて行って下さい、だろ」

生意気な口を叩くチビを懲らしめるために、俺は小さな鼻を摘まみ上げる。更に頭のてっぺんをげんこつでグリグリすると、歩は逃げ出してベランダにいるアスカの元へと駆けて行った。

「アスカ、光希が痛いことする!」

「大丈夫?」

洗濯物を干す手を止めて、屈み込んで優しく頭を撫でるアスカに歩はじゃれついている。デレデレした顔が見ていられない。

「アスカ、一緒にお出かけしようよ。お魚とか見たい」

スーパーの鮮魚コーナーにでも行けよ。俺は憎々しくそう思うが、アスカは優しかった。

「水族館? いいよ、行こう」

「わあ、やった!」

跳び跳ねる歩を抱きしめて、アスカは俺を振り返る。

「ミツキ、いいよね」

そんなにきれいな顔で言われては、駄目だと言えるわけがなかった。





三人で電車に乗って、一番近くの水族館へ向かう。電車を乗り継いで一時間ぐらいのところだ。
歩はどうしても水族館に行きたいと言って聞かなかった。

「日曜だから混んでるぞ、絶対」

「いいの!」

電車に乗り込んで、二人掛けのシートに座る。歩は当然のようにアスカの膝の上に乗っていた。

「アスカが重いだろ、こっちに来い」

「いやだ!」

「僕、平気だよ」

ここぞとばかりにべったりと抱きつく歩の身体にアスカが優しく腕を回す。俺はだんだん歩のことが心配になりつつあった。
いくら懐いたところで、お前はアスカとずっと一緒にいられるわけじゃないんだからな。





水族館に着くと予想どおり人は多かった。俺はチケット売場に一人で並び、大人二枚と幼児一枚のチケットを買う。離れたところで手を繋いで待っているアスカと歩は、年の離れた微笑ましい兄弟のように見えた。
人の波に流されながら館内に入ると、目の前に大きなパノラマ水槽が広がっていた。青い水の中を色とりどりの魚が悠々と泳いでいる。

「うわあ!」

歩は歓声をあげながらアスカの手を握りしめて水槽を見上げる。サメやエイが伸びやかに泳ぐ姿に、目をキラキラさせながら見入っていた。
それにしても、よく人が入っている。混雑した薄暗い館内を順路に沿って歩いていると、後方から声が聞こえてきた。

「ミツキ、待って」

振り返れば、離れたところでアスカと歩が人混みに揉まれているのが見えた。こちらに追いつくまで待ってから、俺は勇気を出してアスカの手を取る。

「混んでるから、はぐれるなよ」

初めて繋いだアスカの手は、少し冷たかった。
揺れる眼差しが俺を捕らえる。その視線をかわしながら俺は前に向き直った。

「ありがとう」

後ろからアスカの小さな声が聞こえた。





海獣コーナーで水を被ってしまいそうなほど近くの席から観たイルカショーは圧巻だった。アシカの餌やり体験では、歩は物怖じせずに小さなアジを食べさせてやっていた。
すっかり水族館を堪能できて、歩はとても楽しそうだった。その笑顔に連れて来てやってよかったなと思えた。

「ペンギンほしいなあ。一緒に帰りたいなあ」

オウサマペンギンが行列を作って歩く姿に、歩はうっとりと見惚れている。
どうやらペンギンが一番のお気に入りらしく、べったりと水槽に貼りついてはしきりにペンギンへの熱い愛を口にしていた。
順路の最後はクラゲのコーナーだった。色とりどりにライトアップされたクラゲが、仄暗い水槽の中をゆったりと泳いでいる。
それを見た途端、アスカは子どものように目を輝かせた。

「きれいだね。気持ちよさそう」

傘から伸びた長い足がふわふわと水中を漂う。虹色に輝く姿は確かに繊細で美しくて、こんな狭いところに閉じ込められているのが不憫に思えた。

「ミツキ、見て。ギヤマンクラゲだって。硝子細工みたい」

俺はアスカの手を握りしめながら、水槽には目もくれずにその横顔を見つめ続けた。





帰路につく頃には、すっかり日も暮れてしまっていた。

「楽しかったね」

家に入った途端、歩が満足げにそう言った。その胸にはアスカに買ってもらったペンギンのぬいぐるみをしっかりと抱きしめている。

「お魚のところ、二番目に行きたかったんだ」

「なんで一番を言わないんだ。中途半端に遠慮するなよ」

どうせなら一番行きたいところを言えばよかったんだ。おかしな奴だなと思っていると、歩は少し淋しそうな顔をした。

「一番のところへは、行けないんだって。ママが言ってた」

「どこに行きたいの?」

アスカが尋ねれば、歩は少し黙ってから口を開く。

「天国。おれのパパ、天国にいるんだって」

その答えを聞いた途端、返す言葉が見つからなかった。
それは嘘だ。今、歩の父親がどうしているのかも知らないが、自分の子どもに対して責任も取らずに行方を眩ますような男だ。仮に死んでいたとしても断じて天国にはいないだろう。

「おれ、パパが生きてたときに行きたいんだ。テレビでやってた。時計がグルグル反対に回ったら、天国にいる人に会えるんだって」

テレビドラマか何かを観たんだろうか。だから歩は、部屋の掛時計を触りたがっていたんだ。あの時計の針を回せば、過去に戻れると思って。
歩の健気な気持ちを思うと、胸が詰まった。

「……そう」

しんみりとした顔で黙り込んでしまった歩の頭をアスカが優しく撫でる。屈み込んで目線を合わせながら、哀しげな瞳で俯く顔を覗き込んだ。

「僕も探してるんだ。天国にいる人に会う方法」





「本当に助かったわ。ありがとう」

歩を迎えに来た姉は、礼のつもりなのか手土産の菓子折りを何箱も買ってきていた。

「ママ、アスカがすごく優しかったよ! ごはんもおいしくて、いっぱいだっこしてもらって、ペンギンも買ってくれた」

「歩、よかったね。すみません、本当にお世話になって」

いつもは調子のいい姉が、しおらしくアスカに頭を下げている。

「いえ。僕の方こそ、アユムくんと過ごせてすごく楽しかったです」

アスカの微笑みは本当に淋しそうだった。それはきっと社交辞令じゃないんだろう。

「じゃあ、お家に帰ろうか」

差し伸ばされた手を払って、歩はアスカの元へと駆け寄っていく。

「いやだ、アスカとバイバイしたくない! アスカと帰る」

アスカにしがみつきながら泣きじゃくる姿は本当に悲しそうで、見ていると胸が締めつけられた。

「歩、ダメよ」

「もっと、アスカと、いたい」

大粒の涙をこぼしながらしゃくり上げる歩を、アスカは優しく抱きしめる。

「僕ももっと一緒に遊びたかったよ。でも、もう帰らなくちゃ」

「アスカ、また遊んでくれる?」

目をうるうるさせてそう言う歩を神妙な顔で見つめて、アスカはこくりと頷いた。
歩はアスカにきつく抱きついて、そのまま頬にチュッと音を立ててキスをする。

「約束だからね」

アスカはびっくりした顔で歩を見て、顔を綻ばせながら小さな頭をそっと撫でた。その眼差しが翳りを帯びていることに、俺は気づいていた。
姉と歩が帰っていくと、俺はアスカと二人きりになった。急に静かになったことが妙に淋しかった。

「ごはんにしようか。何か作るね」

立ち上がってキッチンに向かうアスカの華奢な後ろ姿は、歩がいたときよりも小さく見えた。





飛鳥が再び姿を消してから、俺は嫌な話を聞いた。
高尾沙生が死んだという噂だ。
けれど死因や状況は誰も知らないようだった。ただ、母親から研究室に連絡が入ったことでわかったらしく、その時にはとうに葬儀も終わっていたという。
どうしてあの時、飛鳥を突き放してしまったんだろう。俺は自分を責めた。飛鳥の様子がおかしかったのは、ただの痴話喧嘩のせいじゃなかったんだ。
飛鳥は今どんな気持ちで、どこで何をしているんだろう。想像するだけで居た堪れなくて、何とかして連絡を取りたかった。飛鳥の携帯に電話を架けたけれど、その番号は既に解約されていた。

俺は飛鳥の家を知らなかった。でも高尾沙生の自宅がわかれば、その隣に住んでいるのだから、容易く辿り着けるだろう。
俺は高尾沙生が在籍していた理工学部の研究室に赴いた。そこで飛鳥と連絡がつかず心配していることを説明すれば、家を知っているという人が住所を教えてくれた。それを頼りに俺は飛鳥の家へと向かう。
閑静な住宅街の中で、飛鳥の名字が刻まれた表札の家を見つけた。意を決してインターフォンを押すと、若い女の人の声が応答した。

『はい』

『突然すみません。飛鳥の同級生です』

プツリと音が切れて、玄関から女の人が出て来る。大きな目が印象的なかわいらしい女の人だった。
飛鳥から何度か話を聞いたことがあった。気が強くて我儘で、けれど憎めない姉がいると。飛鳥と顔はあまり似ていないけれど、この人がそのお姉さんに違いなかった。
彼女は体調が優れないのか、ひどく顔色が悪かった。

『飛鳥はここにはいないわ。どこにいるのかわからない。私たちもずっと探してるの』

眉根を寄せながらそう言う彼女は具合が悪そうで、時折お腹をゆっくりとさすっていた。
この家にいないなら、飛鳥は一体どこにいるんだ。
俺は完全に行き詰まってしまった。





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