真壁さんとの立ち話を終えて官邸に入ると、正面からスーツ姿の男性が歩いてくるのが見えた。
その人は数週間前に初めて顔を合わせた───
石神さんと後藤さんに紹介してもらった、公安部に配属されたばかりだという男性だった。
「First nameさん、こんにちは」
「こんにちは。えっと…」
失礼にも言い淀んでしまった私。
黒澤です、と男性は微笑んだ。
「ごめんなさい!」
「はは、全然いいですよ! 登場人物が多くて困っちゃいますよねー」
彼は嫌な顔ひとつせず、人好きのする笑顔を浮かべた。
「今日は総理に?」
「はい、お菓子を焼いたので持ってきたんです。SPの皆さんにも」
紙袋を見せながら答えると、黒澤さんは目を細めた。
「それはいいですね。皆さんきっと喜びます」
「あんまり上手じゃないので、昴さんにはダメ出しされちゃうかもですけど」
「まさか! そんなことありませんよ、絶対に美味しいはずです」
私は紙袋に手を入れて、不器用にラッピングされたマフィンを一つ取り出した。
「もしよければ黒澤さんも召し上がってください」
差し出されたお菓子を見て、黒澤さんは軽く目を見開く。
そしてちょっと大げさに喜んだ。
「えー、本当ですか! 嬉しいなぁ!」
満面の笑みで大事そうに受け取ってくれる。
「あ、でも大丈夫ですか? 数足りなくなりませんか?」
「大丈夫です。ただ石神さんと後藤さんの分は無いので…」
全部言わないうちに、その笑顔がより楽しげなものに変わる。
「わかりました。二人には秘密、ですね」
唇に人差し指を当て、悪戯っぽい表情で。
子供のように明るくはしゃいでみせながらも、どこか余裕を感じさせるその姿が、私の目にはとても印象的に映った。
「ありがとうございます、First nameさん。今度何かお礼しますね」
「そんな大したものじゃないですよ?」
「いやいや家宝にしたいくらいで! …っと」
黒澤さんは何かに気付いた様子で言葉を切った。
「それじゃ俺はこれで。大事にいただきますね」
そう言って笑顔を見せ、私の横を通り過ぎた。
その直後、前方にあるSPルームの扉が開いた。
中から出てきたのは昴さんで、彼はすぐに私に気がついた。
「First name、来てたのか」
「あ… はい」
「そんな所で何やってんだ?」
振り返るとそこにはもう誰もいなかった。
不思議そうに私を見る昴さんに、何でもないと告げた。
SPの人達と違って、公安の人達との接点はそう多くはない。
だから彼と次に会うのがいつなのかはわからない。
ただ、なんとなく。
次に彼の笑顔に会える日がそう遠くなければいいと、そう思った。