制圧せし氷の覇王様と紅色の薔薇
「もし俺様が本当に、制圧せし氷の覇王だと言ったら――貴様は信じるか?」
二人きりの、放課後の教室。
何気ない日常会話を交わしていた筈なのに、急に田中がそんなことを言ってきて――俺は反応に困ってしまった。
「――制圧せし、氷の覇王?」
「ああ」
確かそれは――ただの設定だった筈だ。なのにどうして、こんなに真剣な表情で俺に言うのだろうか。
何かの比喩なのだろうか。それとも――冗談?
「へえ。じゃあ何かやってみてくれよ」
田中の意図が解らず、冗談と決め付けることにした俺は、茶化すようにそう言った。すると田中は、真剣な表情を変えることなく懐から――真っ赤な一輪の薔薇を取り出した。
何でそんなものを持っているんだよ――と突っ込もうかと思ったが、無粋な気がして口を閉じた。
「見るが良い」
そう言って田中が薔薇を俺に差し出すと――ひやりと、異常に冷たい風が俺の頬を撫でた。
冷てえ――そう思った時には、あんなに瑞々しかった薔薇が、目の前で凍り付いていた。
「――へえ、手品か?」
そう言うのがやっとだった。あまりにも非現実的過ぎて、そうやって茶化すことしか出来なかったのだ。
だけど、そんなことをしても――事実は変わらない。
「手品ではない」
そう言いながら田中が、俺の手に薔薇を持たせる。冷たい。芯まで凍った、そんな冷たさだ。
花弁をそっと摘んでみる。すると花弁は、ぱりぱりという音を立てて砕け落ちた。
「――ははっ、マジで凍ってやがる」
「言っただろう。制圧せし氷の覇王だと」
俺様は、圧を制する覇王なのだ――と、田中は言った。
「圧?」
「人の言葉で言う気圧などのことだ」
へえ、だから薔薇を凍らせることが出来たのか――と、この非日常を、何処か他人事のように認識している自分が居て――思わず笑ってしまった。
「信じていないのか?」
笑った意味を悪く捉えたのか、田中が眉を顰めて俺を睨んだ。
「いや、信じたよ。信じちまったから、つい笑っちまった」
だってこんな非現実的なことを、普通に信じちまうなんて可笑しいだろ――と言えば、田中はそうかと言って、俺と同じように笑ってみせた。
「――ところでさ、何で俺にそんなことを教えたんだよ」
一頻り笑い合い、薔薇をばらばら――洒落ではない――にしながら、俺は田中に尋ねてみた。
こんな非現実的で重大な秘密を、何故俺なんかに――と、そう思ったからだ。
特別仲が良い訳でもなく、毎日のように口喧嘩をしている相手――この俺に、何で打ち明けたのか。その理由が知りたくなったのだ。
「――知りたいか?」
いつもと違う、悪戯好きの子供のような――そんな表情で、田中が俺に尋ね返した。
「ああ、知りたいね」
俺も同じ表情を浮かべ、そう返事をした。すると田中は、俺がばらばらにした薔薇を指差し――。
「その薔薇が答えだ」
ばらばらにされてしまったがな――と言って田中は、困ったように苦笑いを浮かべた。
薔薇が答え?
「この、真っ赤な薔薇が?」
「紅色だ」
態々そんな訂正をする必要があるのか? 赤でも紅でも変わらないだろうに。
そう思いながら俺は、ばらばらに砕けた花弁を一枚摘んだ。俺の体温が移り、花弁は少しだけ瑞々しさを取り戻した。
「この――紅色の薔薇が?」
「ああ」
まじまじと花弁を観察してみる。何かの細工がされている訳ではなさそうだ。
もう一枚摘み、それもよく見てみる。これも違うようだ。
「あ、あの」
俺が花弁を一枚々々確認していると、田中が気拙そうに声を掛けてきた。
「どうした」
「いや、その――」
花弁には、何の答えもないです――と、田中はか細い声で言った。
花弁ではない。とすると――。
「いや、茎でもないです」
俺の行動を先読みしたらしき田中が、薔薇の茎へと伸びた俺の手を掴み、動きを止めた。
「じゃあ、何処に答えがあるんだよ」
「えっ、と」
ぎゅっと、俺の手が握り締められる。少し汗ばんだ田中の手は、先程薔薇を凍らせた氷の覇王とは思えないくらい――人間らしい手をしていた。
「あの、だな――花言葉を、知っているか?」
「花言葉?」
花言葉。確か――植物の花や実などに与えられた、象徴的な意味を持つ言葉――だった筈だ。
つまり、この薔薇の花言葉とやらが答えということか。
だがしかし――。
「――すまん田中。俺、花言葉とか解んねえ」
そう。生憎俺には、そういった知識がまるでなく――この薔薇に込められた花言葉とやらが、全く解らなかった。
俺が花言葉に疎いと思わなかったのか、田中はどうしたものかと慌てふためいている。
ああ、どうしようか。田中もあわあわしているし。ううん――。
「――あの、さ。ちょっと調べてくるから、待っててくれねえか?」
俺の導き出した答えは、至極単純明快――自分で花言葉を調べる、だった。
あわあわしている本人の口から引き出すのも酷であるし、このまま解りませんで終わらせるのも後味が悪い。
というか、無知なまま終わるのが嫌なのだ。勉強好きな身としては、知らないことを知らないまま放置するのは酷く気持ちが悪い訳で――つまり、そういうことなのだ。
「図書室なら花言葉が載った本もあるだろ、ちょっと行ってくるわ」
そう言って俺は図書室へ行こうとした――のだが、俺の手を掴む田中の手が離れない。
「田中、離してくんねえと行けねえんだけど」
そう言ってみるも、田中は無言で俺の手を――先程よりも強く握り締めた。
はて、これは如何なる事態なりや。
「どうしたんだよ。このままじゃあ俺、答えが解んねえじゃん」
そう言っても、田中は何も言わず――じっとりと汗ばんだ田中の手が、返事代わりに俺の手を握り締める。
「――田中、俺は読心術とか嗜んでねえんだよ。何か言ってくんねえと、お前が何をしてえのか解んねえよ」
返事がくることを期待せず、とりあえず自分の意思を伝えてみる。会話のキャッチボールがどうのというのは、今問題ではない。
投げなければ、相手に伝わらないのだから。
相手が投げ返してきたらラッキーぐらいの余裕を持って相手に投げなければ、いつまで経ってもキャッチボールは出来やしない。
「――左右田」
ああ、ラッキー。
「何だよ」
「答えを、教えてやる」
ぎゅっと、痛いくらいにまた手を握り締められる。じっとりと湿っているが、不思議と不快ではなかった。
「お前の口から言うの?」
ああ――と返事をした田中の声は、緊張しているのかとても震えていた。
そんなに緊張するのなら、そんなに怖いのなら、態々自分で言おうとしなくて良いのに――なんて、少し同情してしまう。
でも、言うと田中が決めた以上――俺はそれを止めたりしない。それは田中の覚悟に泥を塗る行為だからだ。
だから俺も、覚悟する。田中の覚悟に、覚悟するのだ。
「左右田」
「ああ」
暫時、静寂が俺達を包む。
教室外の喧騒が、別次元から聞こえてくるもののような――そんな錯覚に陥り始めた時、田中が意を決して口を開いた。
「そ、左右田」
「お、おう」
「俺様は、貴様に――」
死ぬ程、恋い、焦がれています――と言って田中は顔を真っ赤にし、首に巻いたストールで顔を隠した。
死ぬ程、恋い、焦がれている?
「――俺に?」
そう尋ねれば、田中は無言で何度も頭を縦に振った。
そうか、俺にか。へえ――って、えっ?
「俺に恋い、焦がれてる? 死ぬ程?」
こくこくと、田中が何度も頷く。いや、今のは独り言で――ああ――。
――何てこったい。
確かに覚悟はした。覚悟はしたけど――告白される覚悟はしていないぞ。
どうしよう。予想外だ。何となく良い意味の花言葉かなあ――とは思っていたが、まさかのである。
まさかの愛の告白である。
しかも同性から。
まさかのである。
まさかの展開である。
――なんて、ふざけている場合じゃない。
俺は一体、どうしたら良いのだろうか。
今の今まで友人だと思っていた人間が――まさか自分に惚れているなんて!
冗談かもと一瞬思ったが、田中の様子――顔を真っ赤にしてぷるぷる震えている――を見る限り、冗談である可能性は限りなく零に近い。
つまり、奴は本気だ。本気で恋い焦がれている、しかも死ぬ程。
――どうしよう。
自分を好いてくれている友人を突き放す程、俺は非情な人間ではない。
かと言って受け入れるのかと言われれば、それはまた違う話だ。俺は女性が好きなのだ。同性愛者じゃあない。
でも、此奴に告白されたのは悪い気がしなくって――ああっ! 自分で自分が解らない!
実は男もいけてしまうのだろうか――なんて考えまで浮かんでくる始末。混乱の極みである。
「そ、左右田よ。今すぐに返事をしろとは言っておらんぞ」
俺の心境を悟ったのか、田中は慌てて俺を窘めた。ああそうか、今すぐじゃなくて良いのか。良かっ――いや、駄目だ。
それでは駄目だ。そうやって先延ばしにすると、俺という人間は――逃げる。絶対逃げる。自分のことだからよく解る。絶対に、逃げる。
田中に告白されたことを有耶無耶にして、日常生活に戻ろうとする。此奴が見せた非日常も、告白も。全てなかったことにして――確実に逃げる。
それでは駄目だ。それでは駄目なのだ左右田和一よ。
友人の一大決心から逃げるような――そんな、最低最悪のことをしたら絶対に駄目だ!
考えろ左右田和一、今すぐに考えろ。無駄に回る頭を今使わないでいつ使う。
どうすれば良い。田中が幸せになるには――。
――田中が幸せに?
一瞬頭を過ぎった、その考え。
打算や妥協ではなく、純粋に田中の幸せを願った、その事実に気付いてしまって――。
――ああ、何だ。答えはもう、出ているじゃないか。
「田中」
「は、はい」
「お前のこと、幸せにしてやるよ」
「――ふぇっ?」
それ、告白が成功した時に、俺様が言おうと思っていた台詞なんだけど――と言って、凄いのか凄くないのか解らない氷の覇王様は、ずっと握りっぱなしだった俺の手を改めて握り直した。
じっとりとして、でも不快じゃないその手を、俺は――先程のお返しとばかりに、思い切り握り返してやる。
ばらばらになった薔薇は溶け、瑞々しい紅色の輝きを放っていた。
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