聖人君子とは名ばかりの

 さも善人であると云わんばかりの、へらへらと笑ったその顔が嫌いだ。
 自分の身を顧みずに人を助ける、その偽善的行為が嫌いだ。
 病を患っている癖に、衰えを見せないその強さが嫌いだ。
 全てが、大嫌いだ。
 そう吐き捨てるように云ってやれば、

「そうか、そんなに私のことが大好きか」

 などと、この聖人君子様は抜かしやがった。どうやらこいつの耳はどうしようもないくらい馬鹿になっているらしい。

「難聴か? 耳の病だったとは知らなかった」
「私の耳は正常だぞ」
「そうか。なら駄目なのは脳の方だな」
「ふむ。確かに脳は駄目かも知れんな」

 意外だ、自分の愚を認めるとは。と少し感心していると、いきなり距離を詰めてきて、勝手に俺の髪を撫でやがった。
 不愉快だ。反射的に手を払うと、この馬鹿は俺の嫌いな笑みを浮かべて、楽しそうにこう云いやがった。

「私の脳は、お前のことばかり考えているからな」

 馬鹿か。やはり馬鹿なのか。

「気色悪い。そういうのは女を口説く時に使え」
「口説いているんだが」
「俺は男だ」
「解っている」

 解っていない。こいつは絶対に解っていない。
 こんな馬鹿だったとは思わなかった。ただの偽善者野郎だと思っていたのに、まさか変態野郎だっただなんて。
 これなら俺がこいつの偽善者面を引き剥がすまでもなく、勝手に自滅するんじゃないのか?
 気に食わないが、これ以上相手にするのは良くない気がする。もう二度と会うこともないだろう。
 よし、帰ろう。

「待て、何処へ行く」
「お前の居ないところだ」
「何故だ」

 そう云うとこいつは、突然俺の腕を掴んできやがった。振り解こうにも、無駄に握力が強くて振り解けなかった。

「放せ」
「放せば逃げるだろう」

 ぞっとするほどに低い声。先程までの笑みは消え失せ、無表情で俺を見つめている。殺気すら感じるこいつの眼に、俺は何故か恐怖よりも歓喜を覚えた。

「何を笑っている」
「貴様でも、そういう面をするのかと思ってな」

 そう云ってくつくつと笑っていると、いきなりこの馬鹿が俺を押し倒しやがった。
 不意打ちすぎて受け身も糞も無く倒され、頭を少し打ってしまった。畜生。

「何しやがるッ」

 そう怒鳴っても、この馬鹿は平然としていて俺の上から退こうとしない。

「おい、退け。重い」
「断る」
「退け」
「断る」
「退けッ」
「こーとーわーるッ」

 まるで餓鬼の口喧嘩のようだ、と思った。本当はすぐにでも殴り飛ばしてやりたかったが、いつの間にか両手を掴まれていて、お互い手が出せない状態だ。

「ならこの手を放せ」
「それも断る」
「何故だ」
「殴るだろう」
「何故バレたし」
「そりゃあねえ」

 いつものへらへらとした善人面の笑いとは違う、悪戯好きな餓鬼のような憎たらしい笑みを浮かべ、この馬鹿は俺の顔に自分のそれを近付けてきやがった。

「ちょっ、おい! 顔ッ、顔が近い!」

 俺が抗議を訴えても、こいつは楽しそうに俺のことを見つめるだけ。畜生、ふざけやがって。

「早く離れろッ、この変態ッ」
「嫌なら顔を背けたらどうだ?」

 変態野郎が、にやにやと嫌らしい笑顔でほざきやがった。確かにそうだ。だがしかし、ここで背けたら何だか負けな気がする。こんな馬鹿に臆するなど、天才の名が廃る。気がする。

「俺は逃げん。貴様如きに――」
「そうか」

 ――逃げる訳がない。
 と、全て云い終わる前に、口が何かで塞がれた。何か柔らかい。何だこれ。よく解らんがさっきより馬鹿の顔が近い。目と鼻の先――いや、それより近い。
 ぬるり。
 えっ、何か口の中に入ってきたんだが。何これ海鼠? 食ったことないが。そうか、これが海鼠かー。そーなのかー。

「……」

 いや、現実を見ろ俺。本当は解っているだろ。何をされているのかを。解りたくないが、信じたくないが――この馬鹿にキスされてる。しかも舌入り。
 嘘だろ。誰か嘘だと云え。
 うああっ、粘着質な水音が嫌でも耳に入ってくる。現実だ。これが、現実。

「……っふう……」

 人の口内を勝手に犯しまくった変態野郎が、頬を紅潮させながら俺の口を解放した。
 俺とこいつの唾液が糸を――うええっ、見たくなかった。

「どうだ? 良かっただろう」

「何が良かっただろう、だ。変態野郎」
「嫌なら私の舌を噛めば良かったじゃないか」

 確かにそうだ。しかしそうしたらまるで、俺がこいつ如きに流されそうになったのを認めるようなものでだな。それは負けな気がする。天才の名が廃る。気がするのだ。

「俺はお前に屈しない。何故なら天――」
「そうか」

 あれ、これデジャヴ? また口塞がれているんだが。海鼠入ってきてるんだが。
 あ、違う。今回は服脱がされてる。違うな。デジャヴじゃない。
 ――ん?

「んーッ! んーッ!」

 服まで脱がされてたまるか!
 これ以上この馬鹿の好きにさせられんと、服を脱がしてくる変態の手を掴み上げ、動きを止め――られない。何故だ。力が上手く入らん。まるでこいつの手に縋り付いてるみたいになってしまった。

「どうした? 誘っているのか?」

 唾液でぬらぬらと光る唇を俺の耳元に寄せて、有り得ないことを囁いてきやがった。ほざけ。この俺が貴様なんぞ誘う訳が――。

「涙目で睨まないでくれ。理性が飛びそうだ」

 ――ない筈なんだがなー。どうやらこのおめでたい阿呆には、俺の行動全てが誘惑に見えるようだ。眼科行け。もしくは脳外科。

「お前は本当に素直じゃないな。これがあれか、ツンデレというやつか」
「ち、違うッ。いつ俺がデレたッ」
「んー……今、かな」

 一体何をデレたと認識してんだこいつは。

「ほら、こんなことしても拒絶してこない」

 いや、しているんだが。というか服を勝手に捲るな。胸触るな。

「拒絶しないということは、嫌ではないということだろう?」

 おいふざけるな、拒絶しているだろうが。

「無言は肯定ととるぞ?」

 勝手に決めるな。今ちょっと声が出せないだけなんだ。肯定じゃないんだ。本当に。

「無言、か。本当に素直じゃないな。そこがまた可愛いが」

 おい進めるな。これ以上俺に何をする気だ。あ、おい下は止めろ。

「大丈夫。激流に身を任せて同化するだけだ」

 おい。同化って、一体どういう意味の同化だ。何が大丈夫なんだ。それより下を脱がすな。ちょっと、おい。

「天国を見せてやろう」

 先生、俺は地獄で良いです。






「何つーか、お前、兄者のこと好きなのか?」
「……はぁ?」

 突然、悪友兼相棒が信じられないことを口走った。驚きのあまり変な声が出てしまった。

「ジャギ。俺がトキなんぞ好きな訳ないだろ」

 極めて冷静に否定をする。当たり前だ。あんな変態を好きになる筈がない。

「……でもよぉ、お前、兄者とヤったんだろ?」
「……ふぁっ!?」

 な、何故お前が知っているんだ! 云ってないぞ、俺は云ってないぞ!
 あまりの衝撃に言葉も出ないでいるとジャギが、

「……兄者が云ってた」

 と、ヘルメット越しからでも解る気拙そうな表情で呟いた。
 成る程。あの白髪頭殺す。ジャギに何を吹き込んでやがる。

「……あの馬鹿は、他に何か云っていたか?」
「えっ、あー……」

 質問を投げかけると、ジャギはあからさまに目を逸らした。
 何か聞いたな。

「云え」
「……」
「おい」
「……」
「云わんと木人形にするぞ」
「わ、解った。解ったからその手を下げろ」
「解れば良いんだ。さあ云え」
「……」
「木人形」
「ああもう、解ったよ」

 云い渋るジャギにもう一度脅しをかけると、漸くその重たい口を開いた。

「えっとだな。その、キスをした時の顔が凄くエロかった……とか」
「他は」
「……」
「ほ、か、は?」
「初めてとは思えないくらい反応が良くて理性飛びそうだった……とか」
「とか?」
「……アミバは私のものだから、手を出したら地獄の苦しみを味わって死ぬことになる、って釘刺された」
「それだけか?」
「それだけだ。他は何も聞いてねえ」

 成る程。あの変態め、ろくでもないことを吹き込みやがったな。

「ジャギ。俺はエロくないし、反応も良くないし、ましてやあの馬鹿のものなんかじゃない」
「……そうか?」

 何だ。その微妙な返事は。
 最後が何故疑問符なんだ。

「何つーか、お前……あれか? ツンデレなのか?」
「……はぁっ!?」

 よりにもよってあの馬鹿と同じことを!

「ふ、ふざけるな! 誰がいつデレた!」
「えー……今?」

 今だと? 一体どこがデレだと云うんだ。

「どこがっ!」
「否定したり貶したりしてる割には……」
「割にはなんだ!」
「顔が真っ赤だぞ」

 なん、だと?

「……そ、それは憤慨しているからでだな」
「兄者のこと話す時、いつもにやけてたぞ。因みに今も」

 ゑ?

「にやけて……る?」
「ああ」

 ゑ?

「……そ、それは……その、怒りを通り越し、て……」
「……いくら何でも無理あるぞ」
「……」
「……」

 畜生。無理なんてないだろ。認めないからな。俺はあいつのことが嫌いなんだ。

「……まあ、何だ。良かったじゃねーか、相思相愛で」
「相思相愛じゃないッ」
「素直じゃねえな」
「素直じゃなくて結構だ!」

 畜生。ジャギまで馬鹿になりやがって。素直ってなんだよ。俺はいつでも自分に正直だ。

「必死に否定してると、照れ隠しにしか見えねーぞ」
「うっさい! もう黙れ阿呆!」
「それが照れ隠しだってーの」
「黙れって云ってんだろッ!」
「おーおー怖い怖い」

 何なんだよ糞ッ、人のことを馬鹿にしやがって。俺だってな、俺だって――。

「――本当は好きだって云いてーよッ!」

 耳が痛い程の静寂。ジャギが阿呆みたいに口を開けてこちらを見ている。
 やってしまった。

「……ジャギ、今のは幻聴だ」
「私の耳には聞こえたのだが」
「だから幻聴――」

 ――ゑっ?
 今一番聞きたくない声が後ろから聞こえた。気がする。
 よく見たらジャギの視線がさっきから俺の後ろに向いている。気がする。

「そうかそうか。やはりお前は私が好きなんだな」

 何かに頭を撫でられてる。振り払いたいが、身体が動かない。声も出ない。

「兄者、いつ此処に来たんだ?」
「トキなんぞ好きな訳ない、とアミバが云っていた辺りだな」
「ほぼ最初の方じゃねーか。何で今まで隠れてたんだよ」
「お前達の会話が面白くてな。出てくるタイミングが見つからなかった」
「そうか……おいアミバ。本人登場の上に、云いたいことも伝わったみたいだぞ。良かったな」

 良くないわ馬鹿。
 そう怒鳴りつけてやりたかったが、心臓が爆発寸前で声が出なかった。

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