蟷螂
好きだからこそ、食べたくなる。
人はその感情を隠し、目を背け、考えないようにしているだけだ。人間は皆、生物は皆、食べたいと思っているのだ。そうに決まっている。いや、そうなのだ。そうに違いない。
蟷螂を見ろ。雄を食らいながら交尾する雌を、食われながら交尾する雄を。あれこそが究極の愛だ、情だ、芸術だ!
自らの身を相手に捧げる自己犠牲的愛情!
相手を自らの血肉とするとこで一心同体になれる、その幸福感!
想像するだけで心が躍り、絶頂しそうになる!
「そう、思うだろ?」
私は云った。身動きすらしない彼は、こちらを睨むように見つめてくるだけだ。解っている、解っているから待て。待ちなさい。もうすぐ食べてあげるから。
――ああ、とても美味しそうだ。その腕、とても美味しそうだ。
「――っあああああ!」
彼は突然絶叫した。ああしまった、思わず彼の右腕をもいでしまった。血が大量に出ている。勿体ない。あれは私が飲むべきもので、垂れ流すためのものではないのに。うん、右腕はとても美味しい。やはり彼は私に食べられるためにいるのだな。ちょっと待っていろ、この桶に血を入れるから。ちゃんと飲むから心配するなよ。そうだ、失血死してしまわないように止血をしなくては。
彼は涎を垂らしながら、私を睨んでいる。何かを云っているが、よく聞こえない。恐らく、早く食べてくれと云っているのだろう。そんなに急かさなくても、ちゃんと食べてやるというのに。
「量が多いからな。今日は、この右腕を頂くよ」
「 」
彼はまた、何かを云っていた。
一昨日は左腕。
昨日は右足。
そして今日は、左足を食べた。
彼の身体にはもう、手足がない。あんなに逞しく美しかった手足は、私の血肉となって生きている。
彼はまだ、生きている。私を睨むように見つめて、何かを云っている。相変わらず何を云っているのか、私には解らない。解らない。何故だろう。彼の言葉が解らない。おかしいな。おかしい。愛する人の言葉が解らないなんて。
ああ、でも大丈夫。きっと大丈夫。いや、絶対大丈夫。こうして彼を食べていけば、解り合える。
だって、一心同体になるのだから。
「 」
彼がまた、何かを云っている。聞こえない。解らない。きっと喜んでいるのだろう。何故なら今日は、記念すべき日なのだから!
漸く、漸くだ。私はこの日を待ち望んでいた。いや、彼も待ち望んでいた。そうに違いない。だってほら、彼はこんなに喜んで泣いている。
私達は、蟷螂だ。蟷螂のように、蟷螂のような愛を育むのだ。あの美しくも儚い、至高の愛を。この日のために慣らしておいたのだ、自分の穴を。私は残念なことに男だからな、ここしかなかったのだ。大丈夫、ちゃんと入るようにしてあるから。
彼の陰茎を扱き、舐め、吸って勃たせる。ああ、これが私の中に入っていくのか。感動的だ。これこそが究極の愛を彩るための絵の具の一つ。私の吐血も絵の具の一つだ。彼の陰茎が真っ赤に染まる。芸術的で、退廃的で、神々しい。ぬめぬめとした血の赤黒い色が美しい。
私は彼にのしかかった。私の陰茎は既に勃起している。弄ってもいないのに、この愚息は。彼もこれを見つめて、口をぱくぱくと開け閉めしている。そんなに見られると少し恥ずかしい。でも、この程度で恥ずかしいなどと云っていられない。いや、恥ずかしい筈がない。これは神聖で崇高な行為なのだ。恥ずべきことなど、何もない。
ゆっくりと腰を下ろす。彼の陰茎が中へ、ああっ、中へ入っていく! この感動をどう言葉で表せば良いのか。私には無理だ、私では表現できない。この素晴らしい感覚は体験しなければ解らない!
彼は泣いていた。首を左右に振りながら、無い手足を蠢かせて。何て可愛いのだろうか。達磨状態の彼はとても可愛い。自分では何もできないのがとても可愛い。焦らなくても食べてあげるから、心配しなくても良いのに。可愛い。
「 」
彼はまた何かを云った。解らない。でももうすぐ解る。解り合える。だって私達は、一心同体になるのだから。
腰を動かす。彼が一向に動いてくれないので、仕方なく私が動くことにしたのだ。とても気持ち良い。心が満たされるようだ。すぐにでも達してしまいそうだったが、私は我慢した。一人で達するのは美しくない。二人一緒に達することこそが至高の愛であり究極の美なのだ。
私は噛み付いた。彼の左胸に。甘噛みなどではない。肉を引き千切るための、咀嚼のための噛み付きだ。彼は目を見開いて叫んでいる。芋虫のように蠢く彼を容易く押さえ込み、彼の肉を食らう。溢れ出る血を舐め啜り、露わになる骨に接吻する。興奮のあまりに達してしまいそうだ。右の胸も食った。彼の叫び声は一層強まり、私の鼓膜に心地良い振動を届ける。私は食った。腹も肩も脇も。
彼と交尾をしながら、彼の肉を食らう。まさに蟷螂だ。私達は漸く、蟷螂となったのだ。血塗れの彼は、私を見ている。私だけを。顔以外は私に食い破られて、全身血塗れだ。骨がところどころ剥き出しになっていて、血も大量に溢れ出ている。それでもまだ彼は生きている。そうだ、まだ生きている。死んでいない。死んで貰っては困る。まだ絶頂に達していないのに、死んでは駄目だ。
私は腰を振った。彼を見ながら。彼は虚ろな目でこちらを見ていた。ゆっくりと、口が動いた。
「殺してやる」
――えっ?
私達は、同時に達した。
どういう、ことなのだろうか。
殺してやるとは、一体どういうことなのだろうか。
漸く聞けた彼の言葉が、殺してやる。どういう意味なのだろうか。
真意を問おうにも、彼は食べてしまったので聞けない。どうしたものか。
――いや、大丈夫だ。私達は一心同体になったのだから。
そうだ。彼は私の中に居る。何も心配することはない。それに――彼もここに居る。
彼の頭部。これだけはどうしても食べられなかった。彼の象徴でもあり、彼そのものだったから。だから中身だけ食べて、死蝋にした。時間も手間もかかったが、何の苦にもならなかった。彼がずっと傍に居られるなら、苦労なんて感じる筈がない。
「殺してやるとは、どういうことなのだ?」
私は彼に問いかける。彼は目を閉じたまま、何も語らない。
「私を殺したかったのか?」
私は彼に問いかける。彼は目を閉じたまま、何も語らない。
「お前が雌に成りたかったのか?」
私は彼に問いかける。彼は目を閉じたまま、何も語らない。
彼の髪を優しく撫でながら、私は考える。私は何か間違ってしまったのだろうか。解らない。
一心同体になった筈なのに、胸に穴が空いたような、この空虚な感覚は何なのだろうか。解らない。
彼はここに居るのに、居ないような気がしてしまう。解らない。
解らない。解らない解らない解らない解らない解らない解らない解らない解らない解らない解らない解らない解らない解らない解らない解らない解らない解らない解らない解らない解らない解らない解らない解らない解らない解らない解らない解らない解らない解らない解らない解らない。
私はきっと、蟷螂に成れなかったのだろう。もう、疲れた。私は彼と一緒に眠ることにした。彼もきっと待っている。私を待っているのだ。
だから私は、ゆっくりと、手を振り上げて――。
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