ぐっと噛み締めた奥歯が痛い。奥歯だけじゃなくて胸の奥、こころにあたる場所も痛い。つんとした感覚がやってきた鼻も痛い。これは涙が出る前によくある痛みだ。何度も泣いてきたからよく分かる。
 ここで泣くのはまずいなあ、と、頭のどこかにいる冷静な私は考えた。今この瞬間はひとりきりだけれど、この部屋を抜け出して階下に降りれば、リビングにはあの人がいるのだ。
 和泉三月。私の家の隣にある、ケーキ屋さんの息子さん。小学校に上がる前から友達だった、いわゆる幼なじみ。私の、好きな人。
 三月は、アイドルになるのが夢だった。何度も話してくれたゼロというアイドルのこと、それ以外にもたくさん、そのときのヒットチャートに上がっているアイドルからあまり花開いていないアイドルまで、彼は自分の夢ゆえにたくさんのことを知っていた。そして自分もその世界に飛び込みたいと、夢見ていた。私は「応援してる」なんて言いながら、そんな三月を隣で見守っているだけ。

“ナマエ! ナマエに一番に聞いてほしかったんだけどさ”
“オレ、やっと……”
“やっと、夢が叶うんだ!”

 さっき聞いたばかりの三月の話をリフレイン。スゲー嬉しい、とまぶしく笑う三月の姿が、何度も何度も瞼の裏で繰り返し投影される。私はただ曖昧に笑って、よかったね、なんて思ってもいない言葉を吐く。嬉しいなんて私には微塵も思えなかった。だってアイドルになんてなったら、三月は自分の手の届かないところへ行ってしまう。それがどうしても嫌で、心のどこかで夢なんか捨ててくれたらいいのになんて最低なことを考えていた。けれどついに、三月の夢が叶う瞬間がやってきてしまった。
 ついさっきの私は、大好きなはずの三月の笑顔に耐えられなくて、適当な言い訳をして階段を駆け上がり、自分の部屋に逃げ込んだのだ。
 しばらくしたら戻ろうと思っていたのに、急に潤みはじめた視界に焦る。今泣いたら、戻れなくなるじゃないか。三月の前でひどい顔は晒せない。
 タンタンタン、と階段を上がる足音が部屋の外から聞こえてきて、私は下を向いていた顔を勢いよく上げた。今この家には私と三月しかいなくて、だから必然的にあの足音の主はただ一人しかいなくなる。振り返って見つめた扉が、三度叩かれた。

「おーい、ナマエ? どうしたんだよ」
「みつ、き……」

 扉は開かない。三月は、私が出てくるのを待っている。
 出て行こうとして、また頭の中でさっきの三月の嬉しそうな声が反響する。立ち止まる。急に目元が、全身の血液が一気に集まったみたいに熱くなる。強く噛んでいた奥歯を解放する。震えながら息を吸い込む。頬に生温いものが伝う。
 私は泣いていた。それを証明するのは、薄暗い中で床を濡らしたいくつかの水滴。

「ナマエ? もしかして体調悪い? おばさんに連絡した方がよかったらオレが……、っわ、ナマエ」

 突然開いた扉に、三月の言葉は遮られた。きっと今、三月は目を丸くしているだろうけれど、視界が歪んでいてよく見えなかった。
 三月に泣いている顔を見られたくなかったのもある。三月の温度にずっと焦がれていたのもある。勢いよく飛び出して、私が向かった先は三月の胸元だった。私は三月に飛び込んで、腕を三月の背に回す。三月の両手は時折私の肩に触れながら、行き場を求めてさまよっていたけれど、やがて私がしたのと同じように、私の背中へと回された。思い切り肩が震えて、嗚咽も漏れる。

「なんで泣くんだよ。もしかして、オレと離れるのが寂しいとか? ……けどさ、もう二度と会えないわけじゃないし、ほら泣くなって」
「……ごめ、ね」
「えっ?」

 震えてしまって言葉になりそこねたそれは、しかししっかりと言葉としての意味を果たしたようだった。三月の声音が困惑に濡れる。
 ぎゅっと腕に力を込めた。もしかしたら痛いかもしれない。女の力なんて高が知れているかもしれない。それでもありったけの力で三月に縋りつく。三月の体温は暖かくて、それは私がどれだけこの人を好きなのか改めて気づかされる程で、三月に触れているところから胸に向かってじくじくと痛みが貫くような、そんな錯覚に陥った。

「……ごめんなさい」

 みっともなく泣きつくようなことをして、困らせてごめんなさい。

「ごめんなさい」

 三月の夢を応援すると言ったのに、その言葉を嘘にしてごめんなさい。

「……っ、ぁ、う、ごめ、なさ、い」

 ――三月を好きになってごめんなさい。
 いくつも“ごめんなさい”を並べる私に、三月はやはり困っているようだった。ゆっくり規則正しく私の背をぽんぽんと叩くそれは、まるで母親が駄々をこねる自分の子をあやすかのようで。

「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんね、三月、ごめんなさい」
「ナマエ……」

 三月は私にかける言葉が見つからないのか、ただ優しく背中を叩き続けるだけ。私もただ謝り続けるだけ。この“ごめんなさい”の意味はきっと三月に伝わっていないけれど、それでもごめんなさいを繰り返す。三月はそれを受け止めながら、どうしていいか分からずに曖昧に私を慰め続ける。三月に触れているところが、ずっと痛い。
 こころを責めたてるようなこの痛みは、いくつごめんなさいを吐き出してもちっとも良くなりはしなかった。痛み続ける胸の奥は、三月への気持ちが綺麗に無くなるまで、きっとこれからも変わらないままだ。それを悟りながら、大好きな人の腕のなかで私はもう一つ、ごめんなさいをこぼした。

×
「#寸止め」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -