目の前の光景をうまく処理することを放棄した脳は、それでも変わらず警鐘を鳴らしている。この危機的状況に心臓はときめくなんて可愛いものを通り越してバクバクしていた。
焦る私と対照的に冷静な表情をしている九条くん、たったの二人だけが今この部屋の中で呼吸をしている。服越しに触れ合う肌の温度、身じろぐたびに鼓膜をおかす衣摺れの音、ちょうど腹部のあたりに感じる重み。私の持っている全ての感覚が、現状はさすがにやばいと告げている。
――九条くんは、今どうして私の上にいるんだ。
「ね、ねえ九条くん」
「なあに、ナマエさん」
「あの、さ……」
「退かないよ」
「………」
九条くんは余裕の笑みを浮かべながら私の言葉をぶった切る。九条くんに転がされている現実を私が飲み込めていないことも理解して、私がどんな反応を見せるかも全てを先読みして。
二人きりになった時にはまずいと思わなかった。いつも通りの九条くんといつも通りに接していて、状況に変化が起きたのはほんの一瞬のこと。何がどうなったのか分からないまま、九条くんが私の上に跨ってどれくらいの時間が過ぎただろう。
「……ナマエさんを見下ろすって初めてだけど、思ったよりいい眺め」
「九条くん……」
「顔真っ赤にしちゃって。可愛いね」
「……からかうのはやめてよ……」
「からかってないよ。ナマエさんは可愛い」
高いところから私を見下ろしている九条くんが真顔で言い切る。私なんかより余程整った顔をしている人にそんなことを言われてしまえば、目を合わせることなんかできなくなるのは当然のことで。しかし外した視線は、九条くんの「逸らさないで」という言葉とともに強制的に戻された。
顎に添えられた九条くんの細長い指。それが名残惜しそうに離れたと思ったら、私の顔のすぐ横へと向かった。もとより用意などされていない退路を断つように、九条くんは私の顔のすぐ側に両手をつく。
九条くんは私をどうするつもりなんだろう。年下のかわいい男の子くらいに思っていた九条くんは今、到底そうは思えない色っぽい顔をしている。
「九条くん、さ。今日はどうしちゃったのかなあ……」
「その呼び方だけど」
「えっ?」
「ナマエさんにそう呼ばれるのも飽きたから、変えてよ」
「そう言われましても……」
「どうして? ボクの名前、ちゃんと知ってるでしょう?」
「それは、知ってるけど」
「なら、それでいいじゃない」
「……天くん」、と絞り出した声を聞いて、九条くんは満足そうにそうそうと頷いた。
「よくできました」
「……じゃあさ、ほら、そろそろ私の上から……」
「退かないよ。まさか、これで終わりにするわけないでしょう」
「………」
「どう、年下に見下ろされてる気持ちは。可愛い後輩だと思ってた顔が自分の上にあるって、どんな気分? 教えてよ」
「と……っ、年上をからかうのは……」
「さっきも言ったでしょ。からかってなんかないよ」
あ、と気がついた時には遅かった。教えてあげるとつぶやいた九条くんの顔が段々と近づいてきて、息を呑んだ瞬間に私と九条くんの距離がゼロになる。
嘘、と思う余裕はない。目を閉じることができなかった私は、ほんの数秒して離れていった九条くんの長い睫毛をばっちり捉えてしまった。
「……なん、で……」
「ナマエさん、ボクも男だってこと忘れかけてるみたいだったから」
また九条くんの顔が降ってくる。熱感のこもった瞳が、ぎらぎらと光って色っぽい。今度は唇ではなくて私の耳元へと向かった九条くんは、たった二人しかいないこの空間で、わざわざ声をひそめた。
「ナマエさんのこと、ナナメ上から奪いにきたんだよ」
鼓膜を揺らす熱のせいで、九条くんの声が妙に艶めいているせいで。私はいよいよ、もう逃げられないことを観念するしかなくなるのだった。