四葉環くんはプリンが好きだ。王様プリンという、プリンの中のプリンみたいな名前を冠したプリンが彼の大好物だ。わたしは生憎、食べたことがないけれど、とにかく彼に言わせれば「王様プリンは何よりうまい。最高」らしい。
そんな彼のプリン愛は、今日も遺憾なく発揮されている。放課後の教室にたった二人のわたしたちが向き合う机の上に、突如として降臨した缶飲料。目を輝かせながらそれを顕現させたのは、他でもない四葉くんだった。
「……飲む王様プリン?」
「そ。めっっっちゃ、うまい」
普段は気の抜けた声で話す四葉くんが、珍しく力強い声を出している。それだけで彼がいかに本気で王様プリンを好きなのか、分かってしまうくらいだった。
授業が終わったあと、人の減った教室で向かい合って座り、二人して数学の教科書を開いたのは一時間ほど前のことだ。以前は頻繁に集まっていたけれど、四葉くんの仕事の都合でそれも難しくなった。そんな中で四葉くんに「テストヤバい。勉強教えて」などと頼まれたものだから、わたしは張り切っていた。
わたしは試験前にやっておかなければいけない問題を一通り解き終わって、苦戦する四葉くんを眺めて楽しんでいた――もちろん、助けを求められた時は、きちんと教えてあげている。
そんな平和な放課後のある時間に、四葉くんが得意でないと公言する勉強で疲れた脳みそを回復するために取り出したのが、件の『飲む王様プリン』というわけだ。
四葉くんが時折見せてくれるおかげでわたしにもすっかりお馴染みになったプリンのキャラクターが、いつもと同じく可愛らしい無表情で缶を飾っていた。どういったコンセプトの商品なのか、詳しいことは理解しかねるが、商品名の下には百パーセントという表記があった。プリン百パーセントで出来ているということだろうか。しかしそれは『飲む』も何も、普通のプリンなのではないだろうか。
疑問をそのまま口に出すと、四葉くんは首を傾げた。こてん、という効果音が聞こえてきそうなそのリアクションに、王様プリンのことなら何でも答えてくれるだろうと踏んでいたわたしの肩の力が抜けていく。
「頭いいやつって、みんなそーゆー、めんどいこと考えてんの?」
「えっ?」
「あー……、この前、いおりんが言ってたのと、同じだから」
そう言って四葉くんは、机の上の缶を手に取る。そのままプルタブを起こすのかと思えば、四葉くんはプリンの入った缶を縦に振り始めた。
「……こーやって、しゃばしゃばすると、だんだん固まんの。俺は、こんくらいでいつもやめる」
四葉くんの言う『こんくらい』がどの程度なのか、それは実際に缶を振ったわけでも握ったわけでもないわたしには分からない。分からないから、「そうなんだ」と答えるほかはなかった。
「へへ」、と漏らした四葉くんは、本当に、本当に嬉しそうに、缶を開けた。飲み口が開く音がパキッと鳴る。
「いただきます」
開封された缶の前で手を合わせ、四葉くんは食事の前のお決まりの挨拶をした。以前「そーちゃんがその辺に厳しい」とぼやいていた通り、彼の周囲には礼儀に関する教育をしっかりしてくれる人がいるようだった。実際彼の性格も、彼がアイドルを始めるまでよりずっと丸くなってきている。四葉くんに何かを教えるというのは結構骨の折れることだと思うけれど、こうして実を結ぶならばとても良いことだと思う。
そんなことを考えながら缶を煽る四葉くんを眺めていたら、幸せそうな表情の彼と目が合う。四葉くんは缶を口から離して、口内のプリンをごくりと飲み込んだ。
「……欲しい?」
「えっ、いや、そういうわけじゃ」
「気になんなら、一口飲む?」
「……、えっ!?」
四葉くんは缶をずい、とこちらへ差し出してきた。その缶は、つい数十秒前まで四葉くんが口をつけていたものだ。四葉くんは気にしていなさそう、いや本当に気にしていないのだろうけど、わたしにはそうはいかなかった。
わざわざ放課後の時間を使って勉強を教えるのも、その時間が待ち遠しくてそわそわしてしまうのも、四葉くんと目が合うだけで背筋が伸びてしまうのも、それは偏にわたしに四葉くんへの気持ちがあるからだ。
「いや、悪いよ……。四葉くん、王様プリン大好きなんでしょ? 四葉くんが全部飲んだ方がいいよ」
「……もしかして、いらない?」
「そ、そういうわけじゃないけど……」
「じゃ、いいよ」
四葉くんの手が伸びてきて、わたしの手を王様プリンの缶へと強引に導く。缶を握らされたわたしは、缶の飲み口と四葉くんとを交互に見て、「飲め」と促す四葉くんの視線に耐えかね、ついにそこへ口をつけた。
もうどうにでもなれ、と傾けた缶の中身がどろりと、重力に従ってわたしの口の中へと降りてくる。意外と柔らかめだ、と、四葉くんの好みを冷静に分析しようとするわたしが自分のどこかにいることに若干呆れた。口の中に広がる甘さは心地よいような、そんな気がする。わたしは結構、好きな味だ。
「うまいっしょ」
四葉くんはものすごく得意げな顔をしていた。自分が口をつけたものに他人が口をつけたということには何も思うところはないらしい。それは四葉くんらしいと言えば四葉くんらしいけれども、それだけにここまで内心慌てふためいていた自分が恥ずかしくなる。
ありがとう、と缶を返す。「おう」と四葉くんはいい笑顔でそれを受け取り、またそれを煽った。
「……四葉くん」
「んー?」
「どうしてわたしにプリン、くれたの?」
「んー……」
王様プリンというのは、四葉くんにとって譲れない大切なものだ。彼は仮にお給料が全て王様プリンだったとしても、文句は言わないらしい。「それ、めっちゃ幸せ」と過去に聞いたことがあった。それから、彼の王様プリンを一口くすねようとした子が返り討ちにあったというエピソードも耳に入っている。それくらい、四葉くんは王様プリンが好きだ。
そんな四葉くんがわたしにプリンを譲るだなんて、一体何があったというのか。ただの一口だろうと、四葉くんは自分の好物を他人にあげるなどしたがらないタイプだと思っていたから、本当に謎だ。
「そーちゃんが、言ってた」
「うん」
「人にお世話になったら、お礼しろー……って。俺、勉強教えてもらってっから、それで」
「それで、プリン?」
「今、他になんも持ってない……。プリン、嫌い? 怒った?」
「いや、怒ってはないけど……」
わたしの返事を聞いて、四葉くんは「よかったー」と安心した表情をした。四葉くんは一挙一動面白くて、見ていて飽きない。
「俺、すっげー勉強見てもらってんのに、何もお礼しなかったら、嫌われるかもって……」
「別に、そんなことじゃ嫌わないよ」
「ほんと? 超やさしー。そーちゃんもこんくらい、優しくなってくれたら、文句とかぜってー言わねーのに……」
「あはは……。プリンね、おいしかったよ。ありがとう」
「ん」
不意に四葉くんの腕が伸びる。わたしのものより一回り大きい四葉くんの手のひらが着地したのは、わたしの頭の上だった。唐突な事態に変な声が出そうになる。
「いい子、いい子ー」
「あ、あの、四葉くん……」
「王様プリンの良さが分かるやつは、みんないいやつ」
「………」
「また、次の勉強んとき、一緒にプリン、食べよ」
わたしの顔を覗き込むようにして四葉くんが言うから、わたしは「うん」と頷くほかはなかった。
――なんだろう、口の中に残るプリンの後味がその存在を主張しているような。妙な甘ったるさを、わたしは感じていた。何となく恥ずかしくて、この時間が早く過ぎ去って欲しいような、ずっと続いて欲しいような。
けれど、四葉くんの言った「また次」という言葉は純粋に嬉しかった。それがたとえ、次の試験を見据えた上での彼の打算だったとしても、わたしと四葉くんの時間がもう少し先の未来まで用意されていることが、わたしにとっては喜びなのだ。やはりわたしは、ものすごく手のかかる、ものすごく甘党な、目の前の四葉くんを好きだから、そう思うのだ。
ようやく四葉くんが、わたしの頭から手を離す。そこでやっと赤くなったわたしの頬に気がついたのか、「どしたん?」などと問うてみせる。それは他でもない、四葉くんのせいなのだけれども、わたしは言いたかったそれをぐっと飲み込んだ。「きみのせい」なんて言っても四葉くんはきっと分からないし、それに、今はこの時間を、もう少し楽しんでいたいのだ。