背中についた爪の痕が、痛いのか熱いのかわからない。
じんじんと熱を持っているような、ひりひりと痛むような。わからないけれど、どちらにしたって、背中の痕が愛おしくてうれしくて幸福なことに変わりはなかった。
「ね、巳波、くん」
「はい」
「……いたかった?」
とろり、溶けて落ちてしまいそうなふたつの瞳をこちらに向けて、横たわるなまえさんは私に問う。その掠れた声が、ふわふわした口調が、胸元に散った赤い痕が。ふたりで分け合った温度を思い起こさせて、心臓をきゅんと摘まれたような気分になった。
大丈夫ですよ、そう答えたけれど私の背中はやっぱり熱を持っていて。それを見透かしたように、なまえさんはちいさな声で謝った。
「ごめんね」
「謝らないでください。私がお願いしたんですから」
「でも……」
「いいんです」
なまえさんの髪を梳く。指通りの良い髪が心地よくて、何度も髪の房を掬いあげては指先で遊ばせた。するすると髪が指の間を通り抜けていく音も、ぱさりとシーツの上に落ちる音も、夜の静寂が支配する部屋にわずかに響いて消えていく。
なまえさんと夜を伴にした回数は決して少なくないはずだけれど、今日まで一度だって、なまえさんが私の身体に痕を残したことはなかった。唇でも爪でも、私はどちらでも良かったのだけれど、痕をつけてほしいとお願いすると、なまえさんは「アイドルの身体にそんなことできないよ」と困ったように笑うのだ。
そんなの、私だってわかっていることだ。アイドルは頭のてっぺんから爪の先までが商品。仕事で服を脱ぐことだって無いわけではない。本当なら、なまえさんが私の仕事のことを理解してくれていることに感謝しなければならないくらいだ。
だけど、見えないところに痕をつけることだってできるはずだから、やっぱりどうしても納得がいかなくて。私と身体を重ねている時に、なまえさんがそんな理性を残していることにも苛立った。
思わず爪を立ててしまうくらい、私に溺れてほしい。思わず肌を吸いたくなるくらい、私を愛してくれたらいい。そんな願い事を燻らせながら幾つもの夜を通り過ぎて、なまえさんの身体に赤い印をつけては、綺麗なままの自分の身体にがっかりした。
「私はね、なまえさん。こうして痕をつけてもらえて、うれしいんです。それがどんなに痛くても」
「……、かわってる、ね。痛いのがうれしい、なんて」
「なまえさんだから、うれしいんですよ」
「そう、なんだ」
汗で張りついていたなまえさんの前髪をどけて、額に唇を寄せた。唇を離して、ねえ、そう話しかけるけれど、なまえさんの受け答えがだんだんぼんやりしてきている。もう眠いのだろう。そのはずだ、窓の外に広がる空が白み始めている。
「ん……」
「疲れているでしょうし、もう眠ってはいかがですか」
「ん」
なまえさんは短く答えるとゆっくりと目を閉じた。何かを探すようになまえさんの右手がシーツの上を彷徨って、私の手にたどり着くと、そっと手のひらを重ねられる。そして聞こえてくる、規則正しい寝息。
――かわいらしいことをして、ああ、もう。自分の心臓が早鐘を打つのを聞きながら、重ねられた手を眺めることしかできないでいた。正確には、その手に収まっている銀色を。
薬指に嵌められた、すこし前に私が贈った指輪。それは彼女が私の恋人だという宣言であり、証明だった。背中の痕とは違う、消えることのないしるし。そう、私、これがあるのに不安になって、爪痕を刻んでほしいなんてお願いをして。
なまえさんを信じていないわけではないけれど、この人の『好き』はあまりにもわかりにくいから。子どもが言うようなわがままを聞いてくれたから、きっと彼女は、私が思っているより私のことを好きでいるのだろう。そう思うと、背中についた爪の痕にはあまりにも大きな意味があって。うれしくて、それなのに泣きそうになってしまう。
少しずつ、すこしずつ、世界は太陽の時間になっていく。夜が明けますね、眠りの底にいるなまえさんの代わりに答えるように、銀色の指輪が朝日を反射して眩しかった。