なまえさんという人は、お付き合いを始めた今になってもよくわからないままだ。
なまえさん。年齢・職業不明、性格は優しいけれど時々突き放すような態度を取ることがあって、結局のところ私には彼女を「こんな人」と表現することができない。完璧と言うには抜けているところがあるし、笑顔が素敵と言うには彼女の笑みは時々寂しすぎる。そもそも個人情報だってろくに知らない。
私が知っているのは、彼女の家と彼女が了さんの友人であること、電話番号とラビチャのID、思っていることが態度に出にくいことと、それから、彼女が私を好きだということくらいだ。
世間一般でいう『恋人』はもっと相手のパーソナルな情報を知っているものだとは思うけれど、私となまえさんの場合はすこし事情が違うらしい。私は彼女のことを知らなさすぎて、たとえばクリスマスをどう過ごすか考えるなら、まず彼女がそういうイベントに興味があるかどうかを探らなければいけないような有様だった。
「………」
十二月二十四日を迎えて、私はその問題の答え合わせをしたわけだけれど。開いた冷蔵庫の中の解答は私の思っていたものとは違っていた。
あの人、クリスマスのことなんて何も言っていなかったのに。そう思いながらキッチンに立つなまえさんを見る。鍋で紅茶を煮出している彼女は、私の視線を感じたのか顔をこちらに向けて「もう少し待ってて」と笑った。
クリスマスのことを何も言っていなかったから、きっと興味なんてないのだろうと思っていた。ついでに広告チラシの類を見ていたりだとか、インターネットで調べている様子もなかったのをその裏づけにしていた。
それで、諦めたというのはすこし違うけれども、なまえさんにはただ「二十四日は家に行きます」とだけ伝えて、手土産にケーキを用意したらいいかと考えたのだ。私だけがそういう『いかにも恋人同士で盛り上がるようなイベント』に本気だと思われたら引かれてしまいそうで、それはとても嫌で、だからそういう方向に舵を切った、のだけれど。
――ねえ、まさかなまえさんがケーキを用意しているだなんて、思わないじゃないですか。
「できたよ」
「あ……、ありがとうございます」
冷蔵庫の中にはほとんど食材は入っていなくて、真ん中の段に箱がひとつ置かれているだけだった。白地に銀色の雪の結晶が散らされたデザインの箱は、どこからどう見てもこの日のために用意されたものだろう。
自分の手にある、赤いリボンがかけられたそれと冷蔵庫の中の箱を交互に見る。箱の大きさは同じくらいだ。私は四号サイズを買ったから、なまえさんが用意したのも恐らくそうだろう。ふたりで食べるに適したサイズではある。ふたつあったら、多いけれど。
「巳波くん、ケーキ買ってきてくれたんだね」
「……!」
後ろから声をかけられて振り返ると、なまえさんはにっこり笑って「ありがとう」と続けた。
「……すみません、なまえさんが用意してくださっていたこと、知らなくて」
「いいよ、そんなこと」
そんなことで済ませていいのだろうか、心の中でちらりと思う。だって、なまえさんのことを、クリスマスに興味がないのだろうと決めつけたような形になっている。
なまえさんは何も気にしていないように微笑んで「巳波くんの買ってきた方食べよう」と言っているけれど、そうですねなんて、簡単には返せなかった。なまえさんは顔に出にくい人だから、もし本当は気にしていたら。
「……なまえさんの方を食べましょう」
「私は巳波くんの方がいいな」
「………」
「………」
ややあって、沈黙を破ったのはなまえさんだった。細い指先で口元を押さえて、笑っている。
「ふふ、じゃあ、両方食べちゃおうか」
そこでようやく、彼女は本当に何も気にしていないのだと理解した。良かった、なんて思った私は、彼女のことではずいぶんと臆病になっている。
以前に私が持ち込んだ折り畳み式のテーブルを広げて、ふたつのケーキ箱を並べる。マグカップのミルクティーからは湯気が立ちのぼっていて、冷えたフローリングの温度に慣れた私には、見ているだけで暖かかった。
ケーキ箱のテープをそうっと剥がして、中のケーキを取り出す。私が用意したのはいちごがたっぷり乗ったショートケーキだ。なまえさんが「おいしそう」と声を上げる。
もうひとつの、なまえさんの方はチョコレートケーキだった。土台部分を覆うチョコレートはツヤ出しが綺麗にされていて、その美しさを活かすようにデコレーションは控えめだ。何となく、なまえさんに似合う。
「味、被らなくて良かったけど、気が合うんだか合わないんだかわからないね」
「まったく同じだと飽きてしまいますし、味が違う方が色々と楽しめますから。きっとこれで、気が合っているんですよ」
「そっか。そうだね」
いただきます。そう言って、なまえさんが手にしたフォークでショートケーキをすくう。ひとくち食べて「おいしい」と頷いて、なまえさんはもう一度ショートケーキの方に手を伸ばした。
「お口に合ったようで、良かったです」
「甘いけどくどくなくて、うん。おいしい」
「では、なまえさんの方をいただきますね」
つやつやしているケーキにフォークを刺して、ひとくち分を口に運んだ。ビターなチョコレートの味には奥行きがあって、深い。スポンジの間のクリームにはナッツが練り込まれている。「おいしいです」と言うと、私を見ていたなまえさんは「なら良かった」と笑んだ。
「……なんだか、こういうのも良いですね」
なまえさんがケーキを買っていたと知ったとき、やってしまった、と思ったけれど。ふたつのケーキを並べて、食べて、おいしいですねと笑って。すこしおかしいけれど私たちらしい、そんな時間を過ごせることは幸せに違いなくて。
――ああ、でも、もうすこしだけ恋人らしいこともしたい、なんて。
「ねえ、なまえさん」
「うん」
「……メリー、クリスマス」
言い終わると同時に唇を重ねる。柔らかな唇に自分のそれを押し当てて、離れて、もう一度触れ合わせた。舌を絡めているわけでもないのに無性にどきどきして、きゅっと私のシャツを握ったなまえさんも同じだったらいいと願って。なまえさんの唇をひと舐めしてから離れると、伏せられていたふたつの瞳が私を見た。
「甘い、ですね」
「……ケーキ、食べてた、から」
「ええ」
あなたの唇が甘いのは、きっとそれだけのせいではないですけれど。言葉の代わりになまえさんの身体を引き寄せて抱きしめる。ゆったりと間を置いて背中に回された腕が、どうしようもなくうれしかった。
ねえ、来年はどんな風に過ごしたいか、きちんと聞きますから。何を食べるか、何をするか、きちんと事前に決めて、ふたりで用意しましょうね。
そんなことを言ったら「気が早いよ」と笑われてしまうだろうか。何しろ、まだ今年のクリスマスプレゼントすら渡せていない。鞄に忍ばせたちいさな箱を渡すのは、もっと夜が更けてからになるだろうな。だって今は、腕の中の恋人を抱きしめるのに忙しいので。