ひとりきり、楽屋で椅子に座ってほうっと息をついた。
まだ私以外には誰も来ていない。亥清さんと狗丸さんは雑誌のインタビューの仕事を済ませてからこちらに来るという話で、御堂さんは相変わらず時間にルーズだ。私と一緒に局に入った了さんは局の上層部の方々のところへ顔出しに行き、私はひとりで時間を潰すしかないというわけである。四人ではすこし窮屈な空間は、ひとりだと静まり返っていて広く感じる。
自宅以外ではひとりの時間というものがあまりない。仕事の時はもちろんメンバーもスタッフも共演者もいるし、事務所でもメンバーや了さんがいたり、たいていなまえさんが現れて絡まれるから、ひとりきりでいる時間はひどく久しぶりだった。
――なまえさん。今日も、つい先程顔を合わせたばかりだ。
つい一時間ほど前の、事務所で話をした時のことを思い返す。今日は名前の漢字のことを聞いた。知り合ってからずいぶんと経つのに自己紹介をされたような、そんなやり取り。
ずっと知りたかったことだというのに、聞くのにはなぜか勇気がいって。あの時、実はけっこう緊張していた。なまえさんが答えてくれるまで、自分の心臓の動く音を聞いているような有様だったのだ。
そうやって知った彼女の名前の書き方。彼女のラビチャも知らない私は、実生活で彼女の名前を書いたり打ち込んだりすることはないのだけれど。
「………」
ちらりと顔を上げて見た机の上には、週刊誌と新聞と、メモ帳が置いてある。百円ショップで売っているものだろうか、白いシンプルな紙の束をそっと引き寄せる。鞄の中のペンケースから一本、ボールペンを取り出してノック部分を押し出した。
白い紙にペン先を立てて、短い横棒を引く。横棒に重ねて短い縦棒、次はその下に四角を。書き心地の良さを売り文句にしたペンがカリカリと音を立てて、それが静かな室内によく響く。
ほんの出来心だ。せっかく名前を聞いたのに、呼ぶだけでは聞かなかったのと同じになってしまうから。誰も見ていないのに言い訳を作り出すのはなぜ。私は、誰にこの行為を知られたくないのだろう。
つい先程知ったばかりの二十九画。白いメモに彼女の名前が現れるのを、心のどこかにいる私がきわめて冷静に眺めている。なまえ、最後のはらいを抜き終えて、できた、と達成感のようなものを感じて。ペンを置いて指先で彼女の名前をなぞって、そこではたと我に返る。
「……。私、何してるんでしょう」
誰に向けたのかわからないその言葉を拾う人はいない。急に恥ずかしくなって、メモ用紙の束から一番上をぺり、とめくった。よく知った自分の筆跡の、見慣れていない文字列を内側にして折り畳む。
証拠隠滅を図っていると、楽屋の外から話し声が聞こえてきた。足音を伴って近づいてきたそれは、会話の内容がわかる程度にまで近づくとぴたりと止まって、代わりにドアノブが捻られる。
「ほら、やっぱり巳波が先に来てた。お疲れ、巳波」
「お疲れミナ。やっぱトラはまだ来てねーか……」
四つ折りにしたそれを鞄の内側のポケットにしまって、ふたりにお疲れ様です、と声をかける。
よかった、人が来てくれて。内心で安堵する。ひとりきりだとまた、妙な暇つぶしをしてしまいそうだから。ひとりじゃ暇だっただろ、と狗丸さんが聞いてきたけれど、それには「いいえ、そうでもないですよ」と答えておいた。