小さなベッドに横たわる、哀れな少女の手を握る。――彼女の実年齢はとうに少女とは呼べないが、それでも外見上は出会ったあの日から変わらず、細く脆く、非力な少女のままであった。
こうやって手を握ってやるのは、共に居た百年間で一体何度目になるだろう。ナーヴ教会の薄暗い廊下で、差し出した手をちいさな手のひらが握り返したのが始まりだった。この地上の端から端まで、その小さな手を引いて歩き続けた。海を眺めて、星を数えて、草木の感触をそっと確かめて。どこに行っても、いかなる時でも、なまえは俺の手をきゅっと握っていた。
よく知った手のひらの温度は今日も変わらず、しかし違うのは、もうなまえには俺の手を握り返す力も残されていないということだった。弱々しく指先を折って、そっと。吹き抜ける風よりも弱く、なまえはただ俺に手を握られて、死の瞬間が――終わりの時が訪れるのを待っている。
「……なまえ」
わずかに開いている瞼の隙間から、桜色が俺を見る。なあに、と問う声は柔らかく、それでいて力なく、今にも眠りに沈み込んでいきそうな静けさを纏っていた。
「もう、あまり時間がないようだ。……最期に言いたいことがあれば、話せるうちに言うといい」
「うん……」
そっと、なまえが目を閉じる。なまえの言葉を待つ間にできることは、手を握ることと、ゆっくりと上下する胸を見つめることだけだった。
「……、あのね。リーベル、アルム。いろいろ、ありがと」
再び目を開いて、順番に俺とアルムとを見たなまえは、そう言った後に口許を緩めた。
「たくさんの場所に、連れて行ってくれて……、字も、おしえてくれて、いっぱいたのしかった、から」
「ああ。……時間が許すなら、もっと多くのことを教えてやれただろう。百年、長いようで、決して永遠ではなかったな」
「なまえ……。私やリーベルと一緒で姿が老いることはないから、なまえも永遠に生きるのだと錯覚してしまうな。けれどなまえは、死んで、しまうのだな……」
なかないで、アルム。絞り出したようななまえの声は、アルムのそれと同じように震えていた。空いている方の手を伸ばして、けれど届かず、なまえの指先は空中でアルムの輪郭を描いた。
「死は、ねむりだって。いつか本で読んだから。私、寝るだけなの。さみしくない、だいじょうぶよ」
「なまえ……」
死に、無に向かっていきながら、少女はあまりに穏やかに笑った。呼吸の音が小さく、静かになっていく。ゆるりと下ろされた瞼、隠された瞳ではもう、この世の光をみることは叶わないのだろう。握った手の温もりだけが、なまえがまだ生きていることを証明している。それもじきに指先から失われていって、なまえはヒトからモノになっていく。眠るように、溶けるように。
「……、ひとつ、だけ」
おねがいがあるの。消え入りそうな声に、それでも耳を傾ける。
「私のこと、たまには、おもいだして。私がいたこと、……わすれない、で」
必死にかき集めてやらなければ消えて無くなってしまいそうな、小さな少女のささやかな願い。握っていた手に力を込めて、それで答えは伝わるだろうか。
「……ああ。忘れない。なまえの墓標を建てて、必ずなまえに会いに行こう」
「わ、私も忘れないぞ。それが、なまえが生きていたことの証明になる気がするから。ちゃんと覚えているからな。ずっと、ずっと」
「……よかった。そうしたら、ふたりも……ふたりぼっちじゃなくなる、から……約束、よ」
なまえは満足げに笑い声を漏らす。そして、“おやすみなさい”の言葉を最後に、なまえは何も言わなくなった。呼吸をしなくなった。睫毛が揺れることは二度となく、緩く弧を描いたまま閉じられた唇が開くことも、なかった。
なまえは長い長い、覚めることのない眠りに就いた。それは俺の知る限り、おそらく最も穏やかな、死だった。
***
砂埃の向こう、崖沿いに何かを見て、アルムがあっと声を上げた。
もはや地図も役に立たないほど砂漠化しているこの一帯を、随分と長い間歩いている気がする。人は誰ひとりとしておらず、草木の一本も生えず、かつて集落の一部だったかもしれない建物の基礎の跡がところどころに剥き出しになっているだけの砂の地面。どこまでも変化のない景色はそれでも美しかった。錆びていても、朽ちていても、寂しさはあれど地上は変わらず綺麗で愛おしい。
「リーベル。何かを見つけたぞ」
「ああ。今行こう」
それは誰かの墓と思われた。何か文字が彫られていたが、風雨に晒されたせいで読むことはできなかった。昔はここに他の何かもあったのかもしれない。今はただ、乾いた土にぽつんと、石が突き立てられているだけになっている。これが一体誰のものか、思い出せる限り記憶を遡ってみても、思い当たるところはなかった。
アルムと旅に出て何年経ったか、百五十年ほどで数えるのをやめてしまったが、その三倍はゆうに経っているだろう。最後にアルム以外の人間を見たのはいつだったか。いつか関わりを持った誰かが眠っているのかもしれないが、長すぎる人生の初めの方の出来事は、思い出すことが難しい。
「……墓か。珍しいな。集落だったところに墓地はあったが、こうやってひとつだけ建てられているのは、珍しい」
「ああ……、そうだな。誰のものかはわからないが、ひとりきりで眠るのは寂しいだろうな……」
「祈ろう」
膝を折り、手を合わせようとして――無意識に、右手が空気を握る。
「……?」
いくつかの砂粒を掴んだ拳。その手を思わず凝視する。俺は一体なぜ、一体なにを、掴んだのだろう。
「どうしたんだ? リーベル」
「いや……、何でもない。祈ろう」
「ああ」
今度こそ膝をつく。目を閉じて、名も知らぬ誰かの安らかな眠りを祈りながら。脳裏にふと“約束よ”と声が過る。
誰だろう。誰だったのだろう。いつか俺は、約束をしたのだろうか。何の約束だったのだろうか。思い出の向こう側へいってしまったものは、きっともう俺の中へ戻ることはないだろう。朽ちていく世界と同じで。見送ってきた、無へと旅立っていったいくつもの命と同じように。握っていた砂の粒子は、俺が手を開くと同時、風に攫われて遠くへ飛んで、見えなくなった。