割れた窓から吹き込む風に揺らされる、細くて柔らかな、まるで糸のような銀の髪が印象的だった。あちこちに乾いた血の跡を作ってぼろぼろの衣服を纏って、だというのに彼はたぶん――今にして思えば、きれいだった。
私と初めて会った日のこと、おぼえてる?
訊ねるとリーベルは「ああ」とだけ答えて、僅かに首を縦に振る。あとには波の押し寄せては引き返す音だけが残った。
ざざ、ざあ。数日前に行った海とは違う音のような気がするけれど、どこがどう違うのか、具体的に説明はできない。この世界はむずかしくて、理解するには人間の寿命では到底足らないのだろうと思う。リーベルは私の知らないことをたくさん知っているけれど、それでも彼にだってこの世界のすべてを知ることはきっと不可能だ。この世界は変わり続けるから。私とリーベルが出会ってから今日までだって、少なからず世界は変わり続けている。砂漠は広がったし廃墟が増えた。夜空に浮かぶ星だって、幾らか増えた。それらが良いことなのか悪いことなのか、自分なりの結論を出すことだって容易くはない。
海は遠くどこまでも広がっていて、空との境界すら曖昧になってしまうのに、私たちの歩く地平とは線が引かれているの。とてもふしぎね。リーベルが黙ってしまったからそんなことを言おうとしたとき、リーベルがすう、と息を吸った。ちらり、彼を見上げる。表情は見えない。
「あの日、俺はなまえを、……哀れだと思った」
ひと呼吸置いて、そうなの、と返す。そう、やっぱりそう思ったのね。おかあさんと同じ、私のことをかわいそうだと思っていたの。
あの日、空に浮かぶ街の教会でリーベルに「ここにいたら危ない」と言われて、私は「おかあさん、どこ?」と聞いた。まるで昨日のことみたいに思い返す、あの日の記憶の中で、リーベルは私の言葉を聞いて眉を下げた。吹きつける風に長い前髪を揺らして、擦り切れたぼろぼろのグローブを嵌めた手を私に差し出して。あの時のリーベルは、私をかわいそうだと思っていたんだ、すとんと胸の中に落ちたみたいに納得する。
別に、悲しいわけではなかった。かわいそうって、よくわからなかったから。
「……それは、おかあさんを探していたから?」
「ああ」
「そう」
きゅっと自分の手を握りこんだのを、リーベルは私が悲しんだと思ったのだろうか。なまえ、と名を呼ばれて、だいじょうぶよと答える。
顔が見えないから、リーベルがどんなことを考えているか読み取るのはむずかしい。たとえ顔が見えていたってリーベルは何を考えているのかよくわからないのだけど、おぶってもらっている時はもっとよくわからなくて、声や息づかいだけで気持ちや考えを読み取らなければいけないことは背負われて移動する時のたったひとつの難点だ。
「……あのね、リーベル」
一歩進むごとに揺れるのが心地よくて、まるで言葉がぽろぽろとこぼれていくみたい。今だからこうやって、こっそり教えるの。リーベルの背に揺られるのが好きだから言ってしまったのよ、だから、アルムには内緒。
「ほんとうはね、もうずっと前に、おかあさんに会えないこと知ってたの」
きっとリーベルは知らなかったでしょう。そうなのか、と意外そうな声が上がって、私の考えを肯定してみせた。
「九十五年くらい前にはね、わかってたのよ。ほんとうは、私におかあさんはいないって」
ずっとずっと、いもしない人を探していたわけじゃない。いくら私だって、さすがにそこまでばかでも愚直でもないの。百年一緒にいて、きっとリーベルは初めて知ったでしょう。なんだかおかしくて、ふふ、と笑みが漏れる。
ねえ、だけど、ここからがほんとうの内緒話よ。
「私はね、あの日、リーベルをきれいだと思ったの」
服はぼろぼろで、あちこちに血の跡があって。靴だって擦り切れて銀の髪はところどころ乾いた血でくっついて束のようになってしまっていたけど、それでもふたつの瞳で一生懸命に前を見つめていたから。その目の奥底に静かに煌めいていた光は、きっとこの世で唯一無二のものだったろうと思う。
「きれいなものを何も知らなかったけど、リーベルがたくさんのことを教えてくれたでしょ。それでね、色々なものを自分の目で見たけれど……結局、私の心をいちばん強くゆさぶったのは、リーベルだった。言ったでしょ、きれいなものを見ると心を動かされるって」
「そうか。……もし、なまえに俺やアルムと同じだけの時間があったら、もっと綺麗なものを見つけられたかもしれないな」
「うん……」
やっぱりリーベルは私をかわいそうだと思う? リーベルが歩くたびに背が揺れて、それはとても心地いいけれど、それよりずっと弱い自分の心臓の音がもう時間切れだと告げている。
だけどね、リーベル。私、自分の時間をめいっぱい使ってこの結論を出したこと、決して後悔していない。自分の心で決めたから、きっと間違いではないはずだもの。
「……ね、リーベル」
「ああ」
「お散歩はもう、終わりにして……そろそろ戻って、休みたいの」
「……そうだな。宿でアルムも待っている」
「うん」
方向転換をして、前に進むごとに遠ざかる波の音をじっと聞いた。いつだって波の音は違っていて、訪れるたびに最初で最後の音を奏でていた。それを聞き込むのもきっとこれで最後になるのだろう。
近頃はよく、目を閉じていると初めて会った日のことを思い出す。歳を取ると人間は昔を懐かしむことが増えるというけれど、兵器として生まれた私にもそんな日が来るのは、すこしだけうれしい。
さくさく、細かい砂を踏む音がやがて固い砂利を踏む音に変わる。いま借りている宿はもうすこし先だったかな。あとどのくらいで着くだろう。目を閉じて、リーベルの背にすべてを預けながら、間に合うといいななんてぼんやりと思う。さいごに見るなら、この世界でいちばんきれいな、リーベルの顔がいい。
#ダンマカ深夜の1本勝負 に参加したものです