飲みに行こう。そう言ってきたのはそちらなのになあ。そう思いながらグラスを傾ける。グラスの中の氷が崩れる音が、後ろで鳴る心地の良いピアノの音と混ざり合って消えていった。
隣で寝ているこの人は、私がついたため息の意味なんて知らないのだろう。そもそも聞こえていやしない。無防備に晒された寝顔と白い腕を横目にしながら、そろそろ腹立たしさを覚えてしまいそうだった。だって、もし彼女の隣にいるのが私でなくて御堂さんだったなら、彼女は最後まで気を張っているだろうから。――例えばの話だ。
「彼女さん、寝ちゃいましたねえ」
「……、彼女ではないですよ」
カウンターの中で苦笑いを浮かべているマスターは、たまに来る程度の私にもよく話しかけてくる。彼女、なんて言われてすこし心臓が驚いた。
成人してしばらく経った初夏の日、いつもの告白とともに今度飲みにでも行こうと誘われた。成人祝いに奢るからと。告白はいつも通りにお断りしたけれど、お誘いの方はほぼ二つ返事で了承した。それなりに楽しみにしていた。今日だって、仕事が終わったらすぐに事務所を出てきたのだけれど。
「……ふふ、みなみく、……」
「……、はぁ」
まさか酔いつぶれるなんて、思わなかった。何せ誘ってきたのは向こうだ。幸せそうな寝顔をして、一体何の夢を見ているのか人の名前なんて寝言で呼んで。手持ち無沙汰にちびちびグラスの中身を減らすしかない私のことも、すこしでいいから考えてほしい。
もう帰った方がよさそうだ、お互いに明日もある。携帯で時間を確認してから、彼女の肩を揺すった。
「ほら、起きてください。帰りますよ」
「んん……」
「ねえ。ちょっと……」
ゆっくり瞼を上げたその人は、とろりとした目で私を見る。瞳が潤んで揺れているのは酒のせいだ。彼女、たいして飲んでいないけど。
「もう帰りますよ。送ります。タクシーを呼びますから、後で住所を言って」
「かながわけん……なんだっけ」
「今言わなくていいですから。ほら、荷物を持って」
自分の財布を取り出しながら言う。ぼけっとした様子で、彼女はカーディガンを羽織ることもできなさそうだった。というか何が「奢るから」だ。結局私が払っている。いや、それは一向に構わないけれど、何なんだろうか、絶妙に苛立つのだ。
会計を済ませて、タクシーを呼んで、気がつくと再び寝こけていた彼女に呆れて。鞄を漁るなんてしたくはなかったけれど、仕方がないから彼女の免許証を探す。
「……全然神奈川県じゃないじゃないですか」
運転手に見せる用の免許証を片手にして、どうしようもない酔っ払いにカーディガンを着せてやって、右腕を持ち上げて自分の肩に回した。ほら歩いて、と空いている手で軽く叩くと、彼女は気の抜けた声で「はぁい」と返事をする。
「家まで送りますから、帰ったらきちんと布団に入って寝てくださいね。床で寝たら風邪を引きますよ」
「え、みなみくん……おくってくれるの? わたし?」
「そうですよ。送って差し上げますから、歩いて」
「……、ふふ、みなみくんがおくりおおかみになる、やば」
「は?」
ここで捨てていきますよ、そう返すと彼女は「だめぇ」と笑った。大概にしてほしい。私は全く楽しくない。
そんなことを言って、本当に送り狼になんてなったらどうするつもりなのだろうか、彼女は。私が安全だと思っているから勝手に潰れて、勝手なことを言ってへらへら笑っているのだ。こんな酔っ払い、あまりにも質が悪すぎる。
階段を上がりながら「今夜が満月でなくて良かったですね」と呟いた。どういう意味、と声を上げた彼女の身体を到着していたタクシーの中に放り込んで、自分も乗り込む。そのままの意味ですよ、返した言葉の意味も、どうやら今の彼女にはよくわからないらしかった。
* ダンマカ幕間のわずか数時間の幻と消えた成人済み巳波(酒豪)