(これを踏まえてます)


 誕生日は、取り立てて楽しみにするようなイベントでも何でもなかった。一年に一度、何もせずともやってくるただの一日。私が生まれたというだけの日。何も間違っていないだろう。私の誕生日を除いた残りの三百六十四日――三百六十五日の年もあるか、それだって、私の知らない誰かの生まれた日だ。
 私のものだろうと他人のものだろうと、大して興味もない。ただ単に、大人にひとつ近づくだけのステップでしかないから。階段を一段上がったくらいで喜ばれるのは、幼稚園児か小学校低学年くらいまでのものだろう。成長期も声変わりも済んで、今さら年齢をひとつ重ねたくらいで何が変わるのか。劇的に背が伸びるわけでも、筋肉質になるわけでも、人格が変わるわけでもない。大人びた子供がよりそれらしくなるだけ。過ぎ去っていった日を思えば、誕生日に重大な意味などないことなんて、簡単にわかりそうなものだ。
 ――と、思っていたのだけれど。
 二十になる年の誕生日を一週間後に控えて、柄にもなく、浮ついている自分を自覚してしまった。もうすぐだ、なんて。いや、自分の誕生日を心待ちにしていたのは、もっとずっと前からか。

「巳波くんは、誕生日に何か欲しいものある?」

 ベッドにもたれかかって、私の髪を指先で遊ばせながら、なまえさんは「来週でしょ」と続ける。その質問に私の心臓はどきりと音を立てたこと、なまえさんは気にする素振りもない。もしかしたら、知っているかどうかも怪しかった。
 肩に預けていた頭を上げて、なまえさんを見上げる。蜂蜜に似た色の瞳は普段と変わらず柔らかな色をしていて、静かに、私の返事を待っているようだった。
 私の毛先が好きらしい指先を自分の手で絡めとって、てのひらをきゅっと握る。なまえさんはわざとらしく小首を傾げて、とぼけているのだろうか。それとも、自分でくれると言ったもののこと、忘れてしまったのだろうか?

「なまえさんが、欲しいです」
「………」

 ぱちぱち、数度瞬きをしたなまえさんに、まさか本当に覚えていないのかと不安になる。あの日、私が成人するまではだめだと言ったでしょう。私、なまえさんの言う通りずっと待っていたのに。
 するり、指と指を絡めながら、なまえさんは口を開く。

「……。それはちゃんとあげるから、他にないの?」
「えっ……」
「欲しいもの」
「………」

 なまえさんはきちんといただけるとして、他に。その前に、なまえさんはきちんといただけるとして。なまえさんはきちんと、いただけるとして。深く考えてはいけないと気づいたのは、既に言葉をそのまま受け止めてしまったあとのことだった。
 他には、ちょっと考えていませんでしたね。やっとのことで絞り出した声は震えていやしなかっただろうか。ふふ、と笑ったなまえさんに思わず、肩が跳ねる。

「そんなに楽しみだった?」
「……、ええ、それは、まあ……」
「そう」

 子供じみていると思われたり、しただろうか。これでも私、大人びているとかしっかりしているとか、そういう子供だったのだけれど。――あと一週間もすれば大人になるのだし、なまえさんはそんなことに構いはしないのかもしれない、きっと。
 もうすぐだね、言いながらなまえさんが私を引き寄せる。ああ、またそうやって。私の身体を受け止めた身体の柔らかさも鼻腔をくすぐる花のような香りも、もっと深くあなたと触れ合いたい私にとっては毒だというのに。

「私もずっと、待ってたから」
「なまえさん……」
「欲しいもの、私以外で、考えておいて」

 囁いたその声のせいで、余計にあなたが欲しくなってしまうのですけれど。わかってやっているのか無意識なのか、判断に困るところ、たちが悪いと思いませんか。

***

 月の光がそそぐ中を、ふたり、歩く。
 レストランに入った時にはまだ明るかった空はすっかり夜の色が支配して、あと少しで満月になりそうな円に近い月と、いくつかの星が散らばるだけになっていた。
 タクシーは、あえて呼ばなかった。普段であればタクシーを呼ぶことが多いけれど、今日だけはふたりで手を繋いで、なまえさんの部屋に向かうことにしたのだ。たいした距離ではなかったし、ちょうどなまえさんも歩きたい気分だったのだと言う。ゆっくり、ゆっくり。静かに部屋で待っている“その時”に向かって、私たちは歩いていた。残り、二時間ほどになる。

「なまえさん」
「なに?」
「プレゼント、ありがとうございました」
「ああ……どういたしまして。恥ずかしいから、私が帰ってから開けてね」
「……私がお願いしたものが入っているんでしょう?」
「そうだけど……、何となく」

 左手はなまえさんの手を取り、右手にはいただいた紙袋を提げて。欲しいものを聞かれた翌々日にリクエストすると「うん、わかった」と言っていたなまえさんは、しっかりそれを用意してくれたようだ。
 あといただくのは、なまえさんということになるけれど。そのことについて考えると心臓がうるさくなりそうで、人も車も少ない静かな通りではなまえさんに伝わってしまいそうだから、それは頭の隅に押しやった。別に、初めてでも何でもないのに。変に意識をしてしまうのは、きっと今日までそれなりの時間を置いたからなのだろう。そういうことにして、それ以上は深く考えないことにした。

「……すみません。私の都合で、誕生日の当日ではなく今日になってしまって」

 コンビニの前を通り過ぎた頃、口を開く。なまえさんは何でもないことのように、いいよ、と言った。
 明日は、グループのみなさんに食事に連れて行っていただけるという話になっている。私は誕生日には興味はさほどなかったのだけれど、なまえさんといいみなさんといい、成人というタイミングは周りが放っておかないらしい。やれ祝いだ、やれ初めての酒だ、そんな調子で私のスケジュールはしばらく先まで埋まっていた。星影の方、番組のプロデューサー、過去の共演相手、エトセトラエトセトラ。

「巳波くんはアイドルだし、仕事関係の知り合いも多いでしょ。私は今日をもらったから大丈夫」
「けれどやはり、当日は特別でしょう。そちらが良かったかと思いまして……」
「特別だから、メンバーが放っておかなかったんだよ。それに前日もじゅうぶん特別だから、いいの」
「特別ですか?」
「うん。巳波くんの十九歳の最後の日、私がひとりじめにしたでしょ。あと、いちばん最初にお祝いできるし。ね、すごく、特別」

 ――今日のなまえさんはよく話す。普段、言葉は少なめな人だから、もしかするとなまえさんも今日は気持ちが浮ついているのかと思うと、うれしくて心臓のあたりがむず痒くなるようだった。
 普段に比べれば口数の多いなまえさんだったけれど、目的地が近づくにつれて、会話は控えめになっていく。すごく静かな夜だね、歩くと意外と距離がありましたね、足は疲れませんでしたか、なにか飲み物とかお酒とかいるかな。短い会話を数パターン重ねたところで、なまえさんの家が見えてきた。歩いたのは三十分くらいだろうか。階段を上がって扉を開けてしまえば、あとはシャワーを浴びて日付が変わるのを待つだけになってしまう。

「どうぞ」

 鍵を開けて、なまえさんが私を部屋に招き入れる。何度もしたやり取りなのに何かが違うように感じるのは、なまえさんの言う通り、この夜が特別だからなのだろうか。

***

「もう日付、変わりそうだね」
「そうですね、あと、三十秒ほどで」

 話している間に二十七、二十六とカウントダウンは進んでいく。この部屋には時計がないから、携帯で確認する。ベッドの上で向かい合って日付変更まで何秒か数えるだなんてなんだかおかしくて、けれどなまえさんが真面目に画面を見ているものだから、私もじっと数字の動きを見てしまう。

「二十、十九、十八……」

 なまえさんが私の首に腕を回して、ぎゅ、と抱きついてくる。時間はいいんですか、そんなことを聞くのは野暮な気がした。それに耳許のごく近い距離で、数える声は変わらず聞こえてくる。

「十、九、八、七」

 ああ、今日が、子供だった日々が終わりそうだ。夜道を歩いていた時には直接言葉にできなかったけれど、私が大人になる瞬間をこうしてなまえさんと触れ合って迎えられること、こんなにも幸福感に満ち溢れているんですね。私の生まれた日、人生で心待ちにしたのもこれほど特別なのもこれまでで初めてだったから、知らなかった。

「三、二、一、……巳波くん」
「はい」
「お誕生日、おめでとう」

 なまえさんが言い終わって、唇を寄せてくる。柔らかい感触が何度も触れては離れてを繰り返して、開いた唇の隙間から舌が口内に入り込んできた。なまえさんからキスをしてもらうのは珍しいから、わざとされるがままでいる。

「ん、ふ……」
「ん……、んっ」

 ちらり、薄目を開けて確認した私の携帯は、立て続けにラビチャの通知を受信してぴかぴかと光り続けていた。朝になったら、きちんと確認して全員にお返ししますから、あとで。手に取った板状のそれはベッドの下へ。その直後、なまえさんが私から名残惜しそうに離れる。ふたりの間に繋がった銀の糸はぷつりと切れたけれど、そう、今日はもうここから先に進んでも、大丈夫なのですね。

「……ね、巳波くん。今からはもう、好きにしていいよ」

 ぷつり、いちばん上のボタンを外したなまえさんは、私の左手を取って胸元へと導く。指先を留まったままのボタンに触れさせて、もう片方の手は滑りの良い太腿へ。そんな誘い方、ずるくないですか。

「ええ。優しく、しますから」

 頷いたなまえさんのボタンをひとつひとつ、外していく。とろける蜂蜜のような目の色に、シャワーの後の肌から立つしっとりとしながらも甘やかな匂いに、触れた素肌のあたたかみに。頭の芯は痺れそうで、――巳波くん、好きだよ。そう囁く色艶のある声がぴりりとした音を伴って、私にやさしく、とどめを刺した。
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