ふわり、ふわり。夢の海から意識を引き上げる直前というのは、どうも自分のすべてが覚束ない頼りなさがある。空を流れる雲のような、水面に浮かぶ木の葉のような。意識を取り戻してしまえば、そんな感覚はどこかに消えてしまうのだけれど。
もう朝だと思って瞼を押し上げようとしたのを思い留まったのは、頭にあたたかい何かが触れては離れを繰り返していたからだ。おそらくは手。繰り返し繰り返し、手のひらで髪を撫でては名残惜しそうに指先で毛先を攫って、離れていく。
その戯れは心地の良いものではあったけれど、手の主に思い当たるのはなまえさんしかいなくて、どうしたのだろうと思ってしまう。私から求めない限り、なかなかなまえさんの方から触れてはもらえないから。
「……巳波くん」
手から伝わる温もりを繰り返し与えながら、静かに、つとめて、静かに、なまえさんは私の名を呼んだ。平坦に、けれど大切そうに、それでいてひどく苦しそうに。
耳に馴染んだ声で知らない呼び方をするものだから、今すぐにでも目を開けてなまえさんの顔を見たくなってしまった。もしかしたら私の知らない表情をしているかもしれない。弱いところを見せたがらない人だから、私が目を開けたなら顔を逸らされてしまうだろうけど。私はなまえさんのすべてを知りたい、なまえさんは私に何も教えてくれないし、私の何も知りたがらない。関係性に名前がついても、結局私たちはただの他人だった。
ちくちくと刺すような痛みを胸の奥に感じながら、私は眠るふりをする。耳をそばだてて、けれどすやすやと寝息をたてて。演技ができて良かったなんてこんなことで思いたくはないけれど、助かったのは事実だった。なまえさんが何も教えてくれないなら、こうやって自分から知ろうとするしかない。
「ねえ、巳波くんも、……」
やさしく頭に触れた手が、不意に止まる。息を詰まらせるなまえさんは、その先を声に出すのを躊躇っているようで、らしくなかった。いや、らしくないだなんて言えるほど、私はなまえさんを知らないのかもしれない。だって、私の前では凪いだ海のように振る舞って、ただ穏やかに笑うだけのなまえさんは、もしかしなくても私に何かを隠している。
頭の丸みを確かめる手つきが、そっと私の毛先を指に絡めた。その手をつかまえてしまいたい。つかまえて、逃げようとする視線もとらえて、なまえさんの心を暴いてしまいたい。けれど、じっと言葉の続きを待つ。なまえさんを知るためのヒントは、私が眠っていなければ、きっと失われてしまうから。
「……巳波くんもいつか、おかしくなるのかな」
眠っている私にぽつぽつと語りかけて、なまえさんは笑い声を漏らした。いつもと似た、けれど全く違う、自嘲を含んだような笑み。私のことでしょうけど、ねえ、あなた一体何の話をしているんですか。私“も”おかしくなるって、なんですか。
「ごめんね。好きなだけじゃだめだって、わかってるのに」
するり、絡めていた髪をほどいて、寄せられていた手が離れていった。待って。なまえさんがそのままどこかに消えてしまいそうで、急に不安が押し寄せる。よくわからないなまえさんのことが余計にわからなくなって、けれど、いつかいなくなってしまうのではないかという不安はより存在感を増して。引き留めたいのに、眠っている私には何もできない。
「……。好きだよ、巳波くん」
――不意に、柔らかいものが頬に触れる。目を閉じていてもわかる、なまえさんの唇に思わず身を堅くしてしまった。
「……!」
そうしたらなまえさんはすぐに離れて、じっと、息をひそめているみたいだった。わざと短く呻いて身じろいで、またすうすう寝息をたてると、途端にほっと息を吐くのが聞こえるから、胸の内側にはもやついたものが渦を巻いたりして。
「寝てる相手になら、ちゃんと、言えるんだけど」
もう一度、なまえさんは「好きだよ」とささやく。たった四文字を、一文字ずつ噛み締めるように。大切なものを呼ぶみたいに。それが本当のなまえさんの気持ちなのだとしたら、どうか、私にきちんと教えてほしい。
やがて訪れる静寂。目は閉じているけれど眠れる気は到底しなくて、朝が来るのを、じっと待っている。
夜は、まだ明けない。