「もう会えない。」
ごめんね。そう続く文字列を指先でそっとなぞりながら、そういえばあの人の手書きの文字を見る機会なんてほとんどなかったなあと思う。何かあればラビチャをすれば事足りるし、あの人は記念日にメッセージカードを用意するタイプでもなかったから。
線が細くてバランスの取れた、なまえさんらしい丁寧な字だった。字と同じように丁寧にふたつに折り畳まれた手紙は、空っぽの部屋の真ん中にぽつんと置かれていて。元から何も無い部屋だったけれど、ベッドも冷蔵庫も、私が持ち込んだ折り畳み式のテーブルも、何もかもが無くなって、あの人がここで暮らしていた事実すら煙のように消えてしまったようだった。
「会えなくなる理由は言えません。でも、巳波くんのことを嫌いになったわけじゃないよ。それだけは信じて。ちゃんと、好きだよ。」
電話は解約されていて繋がらなかった。ラビチャのトークルームは、相手のアカウントが削除されたことを理由に新しいメッセージを送ることができなくなっていた。まるで追いかけて来るなとでも言うように、なまえさんへの繋がりはすべて絶たれてしまっていた。前にも似たようなことがあったけれど、前と決定的に違うのは、なまえさんの意思でこうなったことだ。
どうしてだとか、ひどいだとか。そういうことを思うより前に、どこか納得している自分がいる。なまえさんはいつかいなくなってしまうだろうと知っていて、だからこそ繋ぎ止めようと必死になっていたから。その日が来た、ただそれだけのこと。薄情だろうか。
好きですと言ったら、うんと返ってくる。ぎゅっと抱きしめたら、痛いよと咎められて優しく背中に腕を回される。朝を迎えたら、先に起きた方が相手の寝顔を眺めて髪を梳く。特別なことはあまりしなかったけれど、この部屋で過ごしたなんてことのない日々を、それでも宝物だと思っていた。それも綺麗さっぱり整頓されて、懐かしんだり悲しんだりする暇もなくて。穴があいたみたいに色々な感情が生まれては落ちていく。
例えばこの手紙に涙の跡でも残っていたら、私はすぐにここを飛び出してあの人を追いかけただろう。字が震えていたならあの人を探し出して抱きとめただろう。現実にはそんなものあるわけもなくて、はじめから用意されていた別れの言葉が行儀よく並んでいるだけだ。
「私は大丈夫だから、私のことは忘れて、巳波くんも幸せに過ごしてくれたら嬉しいな。」
私のことなんて考えもしないで、あの人はきっとこれを書いたのだろう。今までありがとう、それに続く文章で手紙は締めくくられていた。白い紙に落ちたのは、俯いた私の影だけではない。水滴は弾けたあとにじわじわと紙に吸い込まれていく。
巳波くんのことを思うだけで幸せだよ、そうは言うけれど、それならずっと傍にいてくれたら良かったのに。ねえ、でも私には、あなたを責められない。こんな手紙、あなたが残していくからですよ。
――こんなに暖かで優しい感情を、巳波くんが教えてくれたんだよ。