背中に回された腕に力が籠められて、それがいつもよりずっと痛くてはっとした。祈るにしても縋るにしても強すぎて、そんな時はいつも、どうしたらいいのかわからなくなる。わからなくて、悩んで、結局曖昧に抱きしめ返すだけ。それが正解なのかすらわからないまま、ただ巳波くんの気が済むのを待っている。
私と巳波くんの関係に恋人という名前がついて、巳波くんはよく笑うようになって、同時によく辛そうな顔をするようになった。
初めて私の部屋に来た時。身体の関係を結びたいと求められて、それを断った時。――今はもう断る理由もなくなって、その件は解決しているけれど。あとは、知られたくないことを詮索されて、嫌だと言った時。眉間に皺を寄せて唇を強く噛んで、泣くのを堪えるような表情をされると、胸の奥を細い針で刺されているような気持ちになる。そんな顔をさせたくて一緒にいるわけではないのに。
でも、それはきっと私のせいなのだろう。私が隣にいるせいでそんな顔をさせている。私に手を上げた人も私を縛りつけようとした人も、私のそばにいた人は決まって最後には「お前のせいだ」と言った。そして、巳波くんが時折見せる表情は、彼らがそうなる前にしていたそれとよく似ている。
「……。ねえ、痛いよ、巳波くん」
こんな時、どういう言葉をかけたら良いんだろう。巳波くんは私に、何をしてほしいんだろう。
巳波くんと付き合うことになって、今度こそ失敗しないようにしようと決めたはいいけれど、そのためにはどうするのが正解なのか、ちっともわからない。わからないことは、とても苦しい。こうして強すぎる力で抱きしめられることも。
離して。そんな私のお願いを聞いて、巳波くんが僅かに呼吸を震わせた。息遣いがわかるほど近くにいるのに彼についてはわからないことばかりで、本当は恐ろしく遠いところにいるんじゃないかと思ってしまう。
「嫌です。……離してしまったら、なまえさんは、いなくなってしまうでしょう」
ぎゅ、と回された腕の力が強まる。不安に潰されでもしそうな弱々しい声。それはきっと、また選択を間違えたことの証左なんだろう。過去と同じ失敗を繰り返したくなくて、私にできることは何でもした。でも、私を全部あげたとしても、もう手遅れなのかもしれない。
お前のせいだ。聞き覚えのあるセリフが耳の奥で聞こえる気がする。いつか巳波くんもその言葉を言うようになるなら、その時が来る前に離れなきゃ。本当はね、離れたくなんてないけれど。
「……大丈夫、だよ」
離れたくない。いなくなったりしないと言いたい。でも、いつかどこかでどうにかなって、終わってしまう関係なら、できない約束をするのは不誠実なことだと思うから。――大丈夫って、いったい何が大丈夫なんだろう。
不安です。肩口に顔を埋めて、巳波くんはそう零した。
「いつか、なまえさんがいなくなる気がして。こうしてつかまえておかないと」
「巳波くん……」
「大丈夫だと言うなら、約束してください。ずっと一緒にいると、ねえ、なまえさん……」
真っ暗な部屋の中、わずかな月明かりを反射する瞳の中心で、私が弱々しく揺れていた。まっすぐに見つめられて、それなのに応えてあげられない自分がとても悪い人間に思えてくる。
曖昧にやり過ごしてごまかそうとする私は、そんな風にして繋ぎ止める価値のある女じゃないよ。そのことに巳波くんが気づいた時、私は悲しくなるのだろうか。それとも、安心するのかな。ダメ押しのように名前を呼ばれて、巳波くんの背をそっと撫でる。こんな風に接するのは良くないと、わかっているのに。
「……、いつまでも、信用されないね」
言いながら、きっとこういうところが『ずるい』んだろうなと思ったりして。自分には応えられないから話を逸らして終わらせようとしていること、巳波くんにはたぶん伝わっている。それで不安にさせてしまっているんだろうから。
触れ合ったところから伝わってくる、このあたたかさが大好きだよ。私を呼ぶ柔い声も、宝物に向けるみたいな視線も、きちんと大切にしたいと思ってるよ。思ってるのに、どうすれば大切にできるのかわからなくて、口にしてくれたお願いすら聞いてあげられなくて、うまくできなくてごめんね。
「違う、違うんです。信用していないのではなくて……」
「うん」
「好きなんです、なまえさん」
「うん」
私もだよ。そう言って髪を梳いてあげると、彼が落ち着くことを知っている。大丈夫だよ。巳波くんがどうにかなってしまう前に、ちゃんと私が終わらせるから。
大丈夫、気づいてるよ。巳波くんが本気で私を好きでいてくれること。いつか巳波くんが私に手を上げると思っている私の方が、よっぽど巳波くんを信用していないこと。だから、巳波くんはなにも心配しなくていいよ。
暗闇の中で身を寄せ合う私たちの歪さを、月の光が暴いていく。きっと恋人と呼ぶには遠すぎて、他人に戻るには近づきすぎた。それでも伏せられた睫毛はきれいで、この距離を許されていることはとてもうれしくて、どうしようもないところまで来てしまったな。そう思うのに未だに覚悟を決められないでいる私のこと、許さないでいてくれる方がたぶん、ずっと良い。