ふと見上げた満月が綺麗で、思わず足を止めた。歩道橋で立ち止まるなんてそうそうしないけれど、そうしたくなるくらい、綺麗な月だった。歩道橋の下の忙しない車の往来と静まり返った夜空に浮かぶ月のさやけさの対比で、より美しく感じるのかもしれない。
それにしても、アイラブユーの和訳に“月が綺麗ですね”とあてた文豪は人の感性を柔和に、けれど的確に表現したものだなあ――なんて、コンパスで描いたような円い月を見て思う。高いところに浮かんだあの月を一目見て、なまえさんに会いたい、と感じたから。好きな人と空を見てその一言をささやけば、飾りのないそのままの言葉よりずっと、愛を伝えられるような気がするのだ。
あの人は今、何をしているだろうか。そろそろ眠る準備をしているのかな。鞄から取り出した携帯で確認した時間は夜の十時を回った頃で、連絡するくらいなら大丈夫だろうと思ってラビチャを開く。
仕事、頑張ってというメッセージで途切れたトークに、終わりましたと返事をしようと打ち込んだところで、いや、と手を止める。こんな夜にテキストだけだなんて味気ない、どうせなら声が聞きたい。
ホーム画面に戻って電話のアイコンをタップして、なまえさんの名前を探した。いや、探すまでもなく指が慣れているから、電話をしようと思ってしまえば実際に呼び出し音が耳に届くまでは数十秒もかからないのだけれど。すぐに途切れたそれに、あ、と逸る声が漏れそうになる。
“はい”
「もしもし、なまえさん。今はお家ですか?」
“そう。どうしたの?”
「先程仕事が終わって、今は外にいるんですけれど。今夜の月がとても綺麗で」
“月?”
「ええ。なまえさんの部屋から、見えますか?」
“待ってね”
電話の向こうから聞こえる、ごそごそという音の後に、窓の開く音。彼女の部屋に行った数が増えたからか、寝室のあの窓を開けたのかな、なんて想像ができてしまう。すっかり覚えてしまっているのだ、あの部屋を。
“うん。見えたよ”
「……ねえ。今夜の月、とても、綺麗ですね」
ああ、あの逸話を知っていたら、これではまるで口説いているかのよう。口説いていると思ってもらって構わないけれど――電話で繋がって、同じ月を見て、だけど愛をささやくなら、本当は隣にいる時がいい。声が聞こえても隣にいなかったら、お互いの心音まではわからないでしょう。今の私、こんなにどきどきしているのに。
そうだね、とだけ呟いたなまえさんは、今どんな顔をしているだろう。月光を浴びながら微笑んでいるかもしれないし、私の言葉に頬をわずかに赤らめているかもしれない。もしかしたら、言葉を額面通りに受け取って終わってしまっているかも。
ほんのすこし話しただけなのに会いたくてたまらなくて。なまえさんも同じ気持ちでいてくれているかな。もしもそうだったら、うれしい。
あの、と絞り出した声に、電話の向こうから聞こえた“ねえ”が重なる。
「あ……、なまえさんからどうぞ」
“いいよ。巳波くんから言って”
なまえさんは、一体何を言おうとしたのだろう。気になるけれど、あとで教えてもらえるだろうから、私の気持ちを言わないと。
「……、なまえさん。今から、会えませんか」
“………”
返事を待つ私に、なまえさんはくすくす笑う。えっ、と漏れた情けない声は私のものだった。
「な、なんですか。私、変なことを言いました?」
“違うよ。同じだなって思って”
「同じ、ですか?」
“私も、会いたいって言おうとしたの。ね、どこにいるの? 今から行くから、待ってて”
*
通話を切ってからも、ずっと心臓がうるさく騒いでいる。今夜は雲がなくて、月が燦然と輝いたまま私を見下ろしていた。
振り返ってみれば私たちが待ち合わせることはあまりなくて、あったとしてもお互いに時間より早く到着するから、まだかなと思いながらなまえさんを待つことなんてそうそうあることではなかった。
家の方向からして、なまえさんが来るとしたら右手側の階段から現れるはずだ。だから歩道橋の下の信号が変わる度、右手側ばかりを見てしまう。暗がりに紛れてやってくるだろう彼女をきちんと見つけられるように。
「あ……」
何度目か、もう数えてはいない頃。知っている人影が姿を現した。巳波くん、と手を振るなまえさんにうれしくなって、名前を呼びながら駆け寄る。
「なまえさん。会いたかったです」
「ふふ、私も」
どちらからともなく手を繋いで、なんだかそれが運命で結ばれた男女みたいだ。そんなことを思ってしまうのはきっと、私たちに月の光が注ぐせい。
「すみません、夜に外を歩かせてしまって」
「いいよ。巳波くんに会えたから。……ねえ、それより」
繋いだ手をきゅっと握られる。もったいぶって、なまえさんは「さっきの、私のこと口説いてた?」と問うた。“さっきの”が指すのはひとつしかないだろう。こくり、頷いた。
「ええ。なまえさん、どうか私に口説かれて」
「じゃあ、もう一回言って」
「……月が、とても綺麗ですね」
「うん。……手を伸ばしたら、届くよ」
上目遣いはずるい。そんなことを思っている間に、唇どうしが触れていた。突然なまえさんが顔を近づけてくるから、私は何の用意もできていなくて。今更目を閉じたら、睫毛と睫毛が触れ合ってしまいそうだ。
すこし背伸びしているのも、首に回された腕も、ものすごくぐっとくる。だって、なまえさんからキスされるなんて絶対に、滅多にない。
満足げに唇を離したなまえさんの細い腰に左腕を回して、右手で後頭部を押さえつける。今度はこちらからキスをして、唇の隙間から舌を捩じ込んだ。ふたりの間から漏れる吐息を混ぜ合って、飲み込んで。外で深い方のキスをするのは初めてかもしれない。人通りがほとんどなくて良かった。もし誰かがいたら、なまえさんからキスなんてしてもらえなかっただろうから。
離れると、ふたりして息を乱しているのがなんだか面白くて、でも幸せで。心臓をぎゅうと縮こまらせながら、ふふ、と笑ってしまった。華奢な身体をそのまま抱きしめる。なまえさんが私の腕の中で、「巳波くん」と呼んだ。
「……行こうか」
はい、と頷いて、指どうしを絡めた手をしっかり繋いで。そうやって夜の闇に消えていく私たちを、きっとあの月だけが知っている。