窓に打ちつける雨の音が、ふたりの息遣いさえかき消すかのように響く。今夜ばかりは、外を走る車の音も飲み会帰りの陽気な声も、警戒心の強い犬の鳴き声だって、街からすっかり姿を消していた。
ざあざあと降りしきる雨と、建物の隙間を通り抜けていく弱い風の音。それらはうるさいはずなのに不思議と暗い部屋によく馴染んで、この空間を表すなら静謐という言葉が似合うだなんて思わされる。下手な劇伴よりずっと心地良いのは、自然に生まれくる音だからだろうか。
なまえさんは何も言わず、ただ雨粒に濡れる窓ガラスを見つめていた。そんななまえさんを私も黙って見つめるだけ。ベッドの上で、壁に身体を預けたなまえさんに腰を引き寄せられたまま、服越しに温もりを分け合うようにして。きっと、今この瞬間に時間を止められてしまっても、気づくことはないだろう。
指先どうしを触れ合わせて、何をするわけでもなく、眠るわけでもなく。私となまえさんは、ただ暗闇を流れる静けさに身を委ねていた。
窓に叩きつけられた雨粒が滑り落ちていって、また雨が吹きつける。街の灯りをわずかに反射する水滴が、私には弱々しいネオンのように見えた。
「……静かだね」
雨音が支配するこの夜の下では、好きな人の声すら聞き漏らしてしまいそうで。独り言なのか話しかけられているのか曖昧なささやきに顔を上げるけれど、暗がりでは見えづらくて、表情がうまく読み取れない。
「……、そうですね」
「本当に、静か」
なまえさんが空いている方の手で私の爪を撫でて、そのあとに指を絡められた。かと思ったら離れて、第二関節から第一関節、爪の先までをゆっくりとなぞられて。手持ち無沙汰なのを紛らわせるように遊ぶなまえさんの指先、きゅっと縮まる心臓。それなのに、自分の心が締めつけられる音より、雨の降る音の方がよほど耳についた。
「……。雨の音以外なくて、これじゃあ、世界にふたりだけしかいないみたいだね」
私の手を遊ぶのはやめて、なまえさんは窓の外を眺めてそんなことを言う。思わず口から漏れた「え」なんて言葉のなり損ないに、なまえさんが何かを返すことはなかった。それで気がつく。ああ、これはただそう思っただけの、特に深い意味のないつぶやきでしかないのだと。
それでも、まるで口説かれたみたいだと一度思ってしまうと、どうにも胸がときめいてしまうのは抑えられなくて。“世界にふたりだけ”という甘い響きがうれしくて、どうしたって信じたくなる。
今夜だけでいい。雨が夜を切り取って、屋根のあるこの場所が、今だけは私たちだけの世界にならないかな。有り得ないことわかっていても、なまえさんの声で聞かされたら本当のことみたいに感じてしまう。なまえさんはきっとそんなこと、ほんのすこしも考えていないだろうけど。
ああ、もう。どうしたらいいだろう? 何でもない一言に思考は揺り動かされて、頬は緩みすぎて壊れそうだ。好きだな、その気持ちがちっとも落ち着かない。いや、別に落ち着かなくてもいいけれど、どうにかしないと身が持たなさそうで。
なまえさんの胸に顔を埋める。細い身体をぎゅうと抱きしめると、頭上から「巳波くん?」と声が降ってきた。
「甘えたいの?」
「……こう、したくて」
「そう」
短く答えたなまえさんも私の身体に腕を回す。抱き合う以外に何をするわけでもなく、私たちはただ身を寄せ合って、ただ胸を高鳴らせるだけ。でもそれでいい。ふたりだけの世界なら互いを咎めるのは互いしかいなくて、私の行為はもう、背に回された腕に許されている。
外には雨が降る。ばらばらと、ざあざあと、この夜を少しずつ満たしていくように。ゆっくりと流れる時間の中をふたりきりで、なんていい夜なんだろうと思ったりして。
はたして幸せと光のイメージを結びつけたのが一体誰なのかは知らないけれど、光源のない真っ暗な部屋でも――真っ暗な世界にも、抱えきれないほどの幸福、ありましたよ。あんまりにも幸せで、どうにかなってしまいそう。いつまでもこうしていたって良いと思う頭の片隅で、明け方には雨が止むという天気予報を思い出した。