重ねていた唇を離す。舌と舌とを繋いでいた糸が切れるのを見るのは、何だかすこし切ない気持ちにさせられて、捕まえていたなまえさんの手をきゅっと握った。
巳波くん、と名を呼んで、なまえさんがゆっくりと目を開いて私を見る。普段よりも潤んだ、ほんのりと熱の乗った瞳。透き通るふたつのガラス玉には私の姿が揺らめいていて。なまえさんが甘い色で私を見つめるから、私も同じくらいの甘やかな響きで、彼女の名を呼んだ。
「……なまえさん」
「ふふ、好きだよ」
「ええ。私も」
――そろそろいいかな、なんて。フローリングの床に転がしてしまったら痛いかもしれないけれど、なまえさんの身体をそっと寝かせて口づける。心の中ですみませんと謝りながら。
なまえさんとお付き合いを始めてからしばらく経つ。キスは数え切れないほどしているし、なまえさんの家に泊まった回数だってそれなりに増えてきた。けれど私たちの間に、身体の関係は未だに結ばれていない。何となく良い雰囲気にはなるのだけれど、彼女はいつもさっさと寝てしまうのだ。ベッドに私を招き入れて。
この部屋のシングルベッドでふたりが眠るとなると必然的に密着することになって、私にはそれは生殺しだった。寝つくまでにやたら時間のかかる私とは違って、なまえさんはいつもすやすやと眠っているけれど。
いつしますか、だなんて真正面からはさすがに訊きづらくて、けれど何も言わず待ち続けるにはそろそろ辛くて。触れるだけのキスを数回したあと、左手をなまえさんのシャツの中へ忍ばせた。お腹の辺りを軽く撫でさする。
すべすべした手触りと暖かい温度、細くて頼りない腰周り。好きな人の身体にじかに触れて、うわ、なんて思ってしまって。心臓がどきりと音を立てる。
けれど、その先を望んで上の方に向かおうとした手を止めたのは、なまえさんの声だった。
「……っ、巳波、くん」
困ったように眉を下げて、なまえさんは「だめ」と続けた。「えっ」なんて情けない声を漏らした私に、念押しのようにもう一度「だめだよ」とお咎めが浴びせられる。
肩を押し返されて仕方なく、彼女の素肌を這っていた手をシャツの中から引き抜いた。手にあった温かみが部屋のすこし冷えた空気に触れて、立ち消えになっていく。
なんだろう、寂しいのか苛立っているのか、自分のことだというのによくわからない。ただ、とにかく不満そうにしているのがわかったのか、なまえさんがちいさな声で「ごめんね」と謝った。
「どうしてですか。もうお付き合いを始めてそれなりに経ちますし、そろそろ……」
「巳波くん、まだ成人してないでしょ。だから、キスはいいけどそれ以上はしない。ごめんね」
「………」
いや、それ今言いますか? もっと早く言いませんか? 具体的には、深い方のキスをする前だとか、遅くても押し倒した時くらいに言っておいてもらえませんか? 手を出されそうになるまで待っていたのだろうか。
文句というわけではない。だからそれを言うことはできずに、ただ唇を尖らせてなまえさんを見つめるしかできないでいた。そんな私の目をじっと見据えて、なまえさんが口を開く。
「……したいの? そういうこと」
「したいに決まってるじゃないですか。恋人ですよ、私たち」
「じゃあ、そういうことがしたくて私と付き合ってるの?」
「そんなわけ、ないじゃないですか」
「そう。なら……」
なら、なんですか。言葉の続きを黙って待つ私の首に、なまえさんの腕が回される。ぐっと引き寄せられて、唇と唇が軽く触れ合ったあと、ぎゅっと抱きしめられた。
「いまは、これで我慢して。ね?」
「……。なまえさんって、止めたいのか煽りたいのかわからない時がありますよね」
「そう……?」
「ええ。今なんて、まさにそうですよ」
吐息まで感じるほどの近い距離で囁いて、この人は。実はサディストなのではないかと疑った方がいいのか、うっかり検討しそうになってしまう。だって、服越しの体温だとか身体の感触だとか、甘やかな香りまでがあまりに近すぎるところにあるのだ。なまえさんは、これで我慢しろという方が無茶な話だとは思わないのだろうか。きっと思っていないのだろうな。
けれど無理に先に進んでやろうという気持ちにはならなくて、むしろそんなことはしたくなくて。だからこそ、なまえさんはずるいと思ってしまうのだけれど。
「ねえ、私、男ですから。無理にでもしたいと思ったら、力勝負で勝ててしまいますけれど」
「巳波くんはそんなことしないでしょ。信じてるし、待ってるよ」
「……約束、ですよ」
「うん」
満足げに笑って私の髪を撫でるなまえさんはずいぶんと楽しそうで、一方の私はというとなまえさんの首筋に顔を埋めるくらいしかできることがなくて。思わず漏らした「勝てませんね」という呟きに「え?」と聞き返すなまえさんは余裕たっぷりで。惚れた方が負けとは本当によく言ったものだなんて思わされてしまう。
二十を迎えるまでの数ヶ月は過ぎてみれば短いのかもしれないけれど今の私には遠く感じてしまうから、ずっと信じて待っていてくださいね、なんて。甘えるように顔を擦りつけると、なまえさんは楽しそうに「ふふ」と笑った。