突然肩にかかった重みにはっとする。この部屋には私となまえさんしかいないから、その主が誰かなんて確かめるまでもなく明らかだった。
珍しい、そう思って隣のなまえさんをちらりと窺うけれど、額を私の肩に寄せている彼女の表情は見えなかった。顔を見せないあたりが余計に気になって、何かあったのかな、なんて勘ぐってしまう。
「……なまえさん?」
「うん」
「どうかしましたか?」
「なんでもないよ」
顔も上げずに、ちょっとこうしたくなっただけ、とすこし早口で続けて、なまえさんはそれきり黙ってしまった。「そうですか」と答えればもう会話は続かなくなって、私は彼女の髪を撫でるしかない。艶やかで指通りの良い髪の束を遊ばせる指先を、彼女は咎めることもせず、受け入れることもしなかった。いや、そもそも見ていやしない。
あなたがこんな風に甘える時点で、なんでもないわけがないでしょう。そう言ってやりたかったけれど、きっとなまえさんはそれすら許してくれないだろうと思ってやめた。彼女の言葉で「なんでもない」は「聞くな」と同義だからだ。聞いてしまえばやんわりと、けれど強く拒否されるのだろう。
そうやってなまえさんと他人との間に引かれた線は、彼女とのどんな名前の関係だって無力にしてしまう。なまえさんが恋人に許すのは、隣にいることと甘えること、触れ合うことくらいで、心の内側に立ち入ることは認めてくれない。私はとっくに彼女に踏み込まれているのに、心にかけた鍵をくれないなまえさんはずるかった。
私はとうの昔に彼女に私のすべてを明かしていて、同じように彼女のすべてを知りたくて。けれどなまえさんは自分のことを打ち明けてはくれない。私が背負っていたものを請け負ったくせに、自分の抱えているものは絶対に手放さない。なまえさんはいつだって自分勝手だ。
手を取って一緒に歩いているはずなのに、私たちのつま先が向いている方向はきっと違っているのだろう。私の心を半分抱えてどこにいくの、そう問えばきっと「一緒にいるよ」と答えるのに、いつか遠い未来で、あるべき場所にあなたはいない。そして私は預けたままの心の半分を埋められないままなのだ。あなたの心を半分くれたらできたのに。そんな嘆きが聞こえてくるようで、ただの想像に過ぎないはずなのになぜか笑い飛ばせなくて、ねえ、泣きたくなりますよ。
恋人なんて聞こえは良いけれど、そのラベルが貼られたビンの中身ははじめからぐちゃぐちゃで。恋心、愛情。不定形のそれにどうにかわかりやすい形を持たせたくて、けれど上手くいかなくて。
――それでも好きだから離れがたいなんて、笑えてしまうだろう。なんでもないと突っぱねながら隣にいることは許してくれるのだから、私はその余白にしがみつくしかない。今だって、腰に回した腕は咎められたりしなかった。
「……どうしたの?」
好き。いかないで。一緒にいたい。不安。助けたい。ずるい。そばにいて。愛してる。寂しい。
なんでもなくない感情がいくつも混ざって煮込まれて、どろどろになって積み重なって。私は何と言ったらいいのかわからなくて、次に出てきた言葉はなまえさんが言ったのと同じだった。
「……すこし、こうしたくなっただけ」
そう、とだけ返ってくるところまで同じだ。それきり部屋を包んだ静寂に任せて、ぎゅっと腕に力を込める。好きです、そばにいて、どこにもいかないで。それが抱きしめるだけで伝わるなら、私たちはもっと気楽に隣合えただろうな。
そうしてしばらく経った頃に、不意になまえさんが「ありがとう」と漏らしたけれど、決して彼女と同じではない私には、それが何に対しての感謝なのか、ほんの少しもわからなかった。