頬を滑っていった風には、注ぐ陽射しの温度が満ちていた。ふわりと優しく包むように、極めて穏やかに、あたたかな空気が流れゆく。こんなに有機的な風を、私は知らなかった。
風に乗って、花びらが舞い上がる。足下を見ると、色とりどりの花が敷き詰められたように咲いていた。風に吹かれて、揺れて、惜しみなく欠片を散らしている。何の花なのかは分からなかった。ただ、いくつもの色が散らばって、綺麗だとぼんやり思う。
ここはどこだろう。私の知らない場所に、私はいた。
壁はどこにもなくて、際限なく続く花の絨毯と、雲に汚されない透明な青空が広がって、その中を無数の風が駆けていく。それ以外には何も無い。どんな本にも、テレビにも、こんな場所は出てこなかった。触れ方さえわからない、美しい景色。
「やあ。こんなところに、迷子かな。珍しいね」
突然後ろからかけられた声に驚いて、振り返る。男の人が立っていた。
「突然声をかけてごめんね。びっくりしただろう。ナンパと間違われたかな」
「いえ……あの、ここは」
「さあ。どこだと思う?」
「……わからないから聞いたんです」
「はは、そうだね。ごめん、俺にも、ここがどこかはわからないんだ。行くべきところは知っているから、迷子ではないけどね」
「そう、ですか……」
その人はゆったりと笑いながら私を見る。またひとつ花びらが流れていくと、彼は弧を描いていた唇を開いた。
「時間はあるかい? すこし話をしよう。君の話がしたいんだ」
「……帰り方がわからないから……。でも、帰らなきゃ」
「パパやママが心配する?」
「うん」
「それはいけない。どっちに歩いたらいいか、一緒に考えよう。それなら、俺に付き合ってくれるかい?」
「……わかりました」
「ありがとう。じゃあ、ここに座ろうか」
花の上に彼が腰を下ろす。お父さんより細身の彼でも、私でも、ここに座ったら花が潰れてしまうのではないだろうか。そう思いながら恐る恐る腰を下ろしたけれど、花の死ぬ感触はしなかった。代わりに、ふわりと花びらが舞う。
「綺麗なところだろう。風が気持ちいいし、空は澄んでいるし、花もたくさん咲いている。穏やかな春の日に似ているね。楽園みたいだ」
「うん。初めて来た。……花はね、鉢植えで咲いてるのしか知らないの。壁がないところも久しぶり」
「壁がないところ?」
「……入院してるの。小さい時からずっと。時々お見舞いでもらう花と、お母さんが花瓶に挿してくれる花しか見たことない。外もずっと昔に数えられるくらいしか出たことないよ。ここ何年かは、白い壁と窓の向こうの空しか見られなかった」
「そうか。大変だったね。治りそう?」
「どうかな。だってもう、ずっと悪いから。私はずっとこのままなのかなって……。こうなる運命、って言うのかな」
「運命だって、諦めたのかい?」
穏やかに微笑みながら、彼は私に問う。細められた目は、私を見定めるように、見透かしたように、淡く光っていた。
そんな目をされても、私が白い部屋から出られなかったのは仕方のないことなのに。
「……だって、何もできないもん」
「そうかな。俺も病気を抱えていたけど、諦めなかった。余命を告げられても、身体が苦しくても、運命だからの一言で片付けたりはしなかった」
「じゃあ、治ったの? 諦めないで、結果はついてきた?」
「うん、治らなかった。諦めなかったのは病気を治すことじゃない。治らないのは、余命を知らされた時に受け入れたことだからね。俺が諦めなかったのは、幸せでいることだ。俺はずっと、幸せだったよ」
「ふうん……。だけど、それも私にはできないよ」
「どうして? 幸せになるのは、誰にでも与えられる平等な権利だ。どんな理由であれ、手放してしまうなんて勿体ない」
「私は、幸せが何なのか知らない……ベッドの中には、何もないから」
「なら、探せばいいじゃないか。君は今、ベッドを飛び出しているんだからね。君は君の人生をかけて、幸せが何なのかを見つけて、そしてそれを手に入れるんだ。それが、君の行くべきところになるよ」
「幸せ……」
幸せ、とだけ言っても、やっぱり頭には何も浮かばない。私は何も知らなさすぎるから。
空は絵画みたいに、窓枠の中だけに広がるものだ。風は私から遠くを流れて、音だけで存在を示すものだ。学校は病院の中にあって、点滴と一緒に通うところだ。花の色は大抵決まっていて、私が見ることができるのは、いつも壁の色に似た白い花だ。私の世界は、それだけだ。病院の床しか踏んだことのない私が、幸福の手ざわりなんて知るはずがない。想像だって、できないだろう。
そう言うと、彼はにっこりと笑った。不愉快ではない、微笑みだった。
「じゃあ、外に出たらいい。身体の調子がいい時に、お気に入りの靴を履いて、外を歩いてみたらいいよ。芝生の上でも、砂地でも、雨上がりの公園だっていい。靴をどろんこにしたって、ママは怒らないよ。それが君の幸福を知ることに繋がるのならね」
「……治ると思う?」
「さあ、どうだろう。でも、完璧に治さなくったって幸せが何かは見つけられるし、幸せにもなれる。俺がそうだったようにね」
「そっか……」
私がそう呟くと、彼は上を見る。つられて上を見た時、私の名前を呼ぶ声が空から聞こえた。お母さんの声?
「行くべきところが見つかったみたいだね。足の向くままに歩いていくといい。そうしたら帰れるよ。俺の話に付き合ってくれてありがとう」
「あなたにも、声が聞こえる?」
「ううん。俺には歌が聞こえるんだ。とびきり甘くて、優しくて、綺麗な歌。いつか君にまた会ったら、聞かせてあげよう。俺が歌うよ」
「また会えるの?」
「すぐには会えないだろうけどね。君が君だけの幸せを見つけて、まっすぐに幸せに向かって歩いて、いつかそれを掴み取ることができたら、また俺のところにおいで。君の話をまたしよう」
「……うん」
「どうか幸せに。ここよりもずっと綺麗なものを見つけられるように、祈っているよ」
立ち上がって歩き出した私に、彼は軽く手を振った。名前を聞きそびれたことに気がついて、振り返って、あなたの名前は、と聞く。私を呼ぶ声と、彼の声とが重なって、一陣の風が吹きつけた。舞った花が視界を埋めつくして、やがて白に塗りつぶされていく。強い光が、私ごと灼くように射した。
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よく晴れた日、通販で買ったワンピースと靴が家に届いたからと、お母さんが届けてくれた。少しずつ良くなり始めた検査結果の数字に、お母さんもお父さんも喜んでくれて、買ってくれたのだ。
それを箱から出して眺めていると、病室の扉が二回叩かれて、ナマエさん、と声がする。幼なじみだ。
「巳波くん。どうぞ」
「こんにちは。あら、ファッションショーですか?」
「買ってもらったんだ。巳波くん、お仕事落ち着いたんだ。外国行ってたんだよね」
「ええ。デンマークと、前に留学したノースメイアという国に」
「ノースメイア。会いたい人がそこにいるって言ってたよね。会えた?」
私の問いに、巳波くんは一瞬の間を置いてから「ええ」と答えた。
「色々ありましたけれどね。帰国してみれば、ナマエさんが意識をなくしたと聞きましたし。でも、ノースメイアでの件もナマエさんのことも、ひと段落しましたから、これでまた歌えます」
「あはは……、ご心配をおかけしました。……あの、巳波くん」
「なんです?」
「あのね。最近調子がいいから、先生にいいって言われたら、だけど……巳波くんのお仕事の都合がいい時、一緒に外に出かけたいの」
「ええ。いいですよ。連絡を下されば」
「ありがとう」
「いいえ。良くなってきて、何よりです」
「うん」
そのワンピースじゃ薄すぎるから上着を用意した方がいいとか、歩きやすそうで可愛らしい靴だとか、巳波くんとたくさん話をした。最近は寒さが厳しくて、吹きつける風が冷たいから、手袋とマフラーも用意した方がいいらしい。わくわくする、と言った私に、巳波くんはうれしそうに笑った。
私と話をしてくれたあの人の名前は、結局聞こえずじまいだった。それどころか顔も声もあまりよく思い出せなくて、夢の中の出来事とはいえ不思議だなと思う。いつかまた会ったら、その時こそ名前を聞いて、もっとたくさんの話がしたい。
この靴を履いて、私はどこを歩くのだろう。地面の感触はどんな感じか。隔てるものなく広がる空は、どのくらい遠くまで見えるか。外はどんな音が溢れているか。あの春の国に負けないくらい綺麗なものを、私は見つけられるかな。
そんなことを考えていたら、巳波くんが「楽しそうですね」と言って笑った。私は「うん」と答えて、それに負けないくらいにっこりと笑った。