未だに手に残る彼の腕の感触。人を投げたのは一体いつ振りであろうか。
朝日の光を浴びながら、リンは昨日の出来事を考えていた。
あの後彼はきちんと家に帰れたのであろうか、とか。思いっきり床に叩きつけてしまったので痣になってはいないだろうか、とか。
暫くしてこんな事を考える自分に吐き気を覚え、首を左右に大きく揺すった。
全てを嘘で塗り潰した、自分の世界。
本当の自分に戻れるのは本当の自分を知っている人達の前だけ。どうして嘘を付くようになったんだっけ、なんて考えてしまい余計に吐き気を覚えた。

リンは、本当は体なんて弱くもなんともない。
寧ろ親に護身術を教えてもらっており、昨日のような一本背負いだとかも少しなら出来る程。
それでも、人と接するのが疲れる。そんな理由で学校では"体の弱い鏡音リン"を作っているのだ。
まぁ、すぐばれると思うけど。なんて自分でも呆れたように思っていたら、保健室登校が認められた。
後から分かった事だが、裏では全て保健室の先生である巡音ルカ先生が糸を回していたそうなのだ。
どうしてここまでするのかと、一度だけ聞いた事があるが、彼女はただただ小さな声で。
"どこか昔の自分に似ていて、放っておけなかったの"
らしい。ルカ先生は本当に感謝している。
実はこの事はミクとミクオにも言ってはおらず、彼女等が知っているのは、リンが本当は冷めた性格をしているという事のみ。本当は体なんて弱くないなんて知らないのだ。
なので、この性格とこの体の両方の事を知っているのは巡音ルカ先生と鏡音レンしかいない。
(ま、これでアイツもあたしとは関わりたくなくなるでしょ)

今日はミクとミクオが委員会の仕事で学校に早く行かなければならなかったので、今日は一人で登校している。
微かにそよぐ風に髪を揺らせながら、一人で登校する事がこんなにも寂しいものなんだと理解する。
欠伸を噛み殺しながらも、小さく溜息を吐き出す。
すると、それに比例するようにピピッという機械音が響いた。
一体何なんだと音のする方へと顔を向ければ、その顔は一気に歪む。
そこに居たのは、携帯をこちらに向けている、鏡音レンだった。それは写メを撮ったのだという事に直ぐ理解出来、頭が痛くなった。

「鏡音君…。盗撮は犯罪だって分かっているんでしょう?」
「勿論分かってますよ。安心して下さい、これは直ぐに消しますんで」
「はぁ、……何で、」
「ん?何ですか?」
「何でもないです、気持ち悪いんで話しかけないで下さい」

リンは歩く歩幅を速めながらも、酷いなぁ。とその言葉とは裏腹に笑みを浮かべる彼に再度溜息をついた。
彼はリンの歩幅に合わせるようにして、隣をキープしている。
今日は一人なんですか、とか。昨日は凄かったですね、とか。無視して前を見るリンに、一方的に話しかけてくる。
本当に鬱陶しいのだが、このまま無視を続けていれば愛想を尽かすか、もしくは諦めて先に学校に行こうとするだろう。と、リンは彼の言葉が聞こえないフリをして、再び歩幅を速めた。
ふわりと風が横切り、髪が靡く。

いつもそうだった。
今まで告白してきた奴らも、断ればそれで終わり。その告白も本気なのかどうかも疑ってしまう程あっさりしている。
たまにしつこい奴も居たが、自分が少し本性を出せば直ぐに諦める。所詮彼らの私に対する想いというのは、そんなもの。
だから私は嘘を吐く。本気かどうかも分からない、そんなものに振り回されないように自分だけの殻に閉じこもって。そしてその頃から、もうどれが本当なのか嘘なのか本気なのか冷やかしなのか。それが全く分からなくなった。
だからもう恋愛には関わらない行き方をしようと思ったのだ。
それなのに。
今隣で歩いている奴は一体何だというのであろうか。学校の王子さまなのだから彼女に困る事はないのだから、他の人を相手にしていた方が効率が良いに決まっているのに。
ああ、本当に気持ちが悪い。

「鏡音さんってさ、どうして自分にまで嘘を吐くんですか?」

学校へと続く道を歩いていた足を止めて、眉を顰める。
彼の言葉の意味が一瞬理解出来なかった。そしてそれと同時にくるのは胸の中に渦巻く違和感と緊張感。
どうしてそんな事を言われなければならないのか分からないし、どうして自分に嘘を吐く意味があるのかも分からなかった。それでも、そんな文句や皮肉など喉の奥に突っ掛かったまま出てきてくれず。
ゆっくりと彼の方へと振り返れば、彼のいつもの余裕そうな顔が急変し難しい顔になった。

「鏡音さ、」
「……本当に貴方はどこまで鬱陶しいんですか?」
「鏡音さん、」
「もうあたしにその気持ち悪い顔を見せないで下さ、」
「リン!」
「……っ!」

彼と居ると何故か何もかも見透かされている気がして、とても居心地が悪い。彼に突然名前を呼ばれたのと同時に手を握られ、思わず手を振りほどく。
そしてそのまま彼に背を向けて地面を蹴り、彼の声など聞こえないフリをして駆けだした。



いつもと同じ風景のこの通学路。それなのに何故かいつも以上に学校が遠く感じる。
息が苦しい。胸が苦しい。胸が、苦しい。
荒い息遣いに、絡まりそうになる足。
彼が本当に分からない。何がしたいのか、何を言いたいのか、何のために近付くのか。
それでも今は彼と居たくはなかった。今まで隠していたものや忘れようとしていた事、心の内で閉じ込めてしまっていたものが全て開放されそうで怖いのだ。
リンは小さく唇を噛み締め、曲がり角を曲がった。
すると、突然目の前に人影が目に入り。
どんっ。と勢いよくぶつかってしまった。
縺れる足を何とか保ち、目の前の人物に目を向ける。その人物は尻もちをして、いたた。と小さく地面にぶつけた部分を擦っている。
リンは慌ててしゃがみ込み、謝罪の言葉を繰り返す。するとその人物は顔を上げて、にっ。と笑みを見せた。
「あたしは大丈夫だよぉ!それよりごめんね、あたし急いででさ!」
「い、いえ。あたしも走ってて…」
「なら、お互いさまってことで一件落着だね!」

とても明るい笑顔で手を振る目の前の彼女は明るい黄緑の髪色をしており、そんな彼女に似合っている。
服はリンと同じ制服を着ており、同じ学校の生徒なのだと直ぐに分かった。
リンは彼女につられて笑みを零せば、目の前の彼女は突然立ち上がり。そして、急いでるから。とそのままリンの横を通り、走って行った。
まるで嵐のような子だな、なんて思いながら彼女の背を見る為に振り返る。するとそこで疑問が浮かんで来た。
あの子は同じ学校に通っている筈なのに、なぜその学校とは逆に走って行ったのだろうか。
もしかして彼女は学校を普通にサボったりする子なのかもしれないが、それでもその答えには自分でも納得がいかなかった。

それでもこのまま立ち止まっていても無意味なので、リンはしゃがみ込んでいた体をゆっくりと起こし、酸素を大きく吸って吐いて。
あの子とは逆の道へと一歩踏み出した。そして先程と同じように地面を蹴る。
華のように可憐で純粋な笑顔の彼女は、まるで自分と正反対。羨ましくもあり、吐き気もする。
再び荒くなる息遣い。それでも足は止めずに。
昔は自分もあんな風に笑えたのだと思うが、今になっては遠い昔。嘘で固めたこの学校生活。自分が望んだ結果なのに、あの子のように純粋に学校生活を送る事が羨ましくなる。
(…って、何考えてるんだろあたし)
嘘で塗られた自分。リセットは出来ない。
分かってる、本当は分かっていた。鏡音レンの言葉の意味を。
それでもこれから先、ずっと嘘は止めない。止めれない。止めてはいけない。
本当の自分なんて誰にも知られないように、自ら嘘という殻に閉じ籠るんだ。


小さく唇を噛み締めれば、目の前の交差点に気付いた。
チカチカと点滅する青信号。リンはそれを確認すれば前に急ぐ足を少しずつ緩めた。
横断歩道の目の前で足を止めれば、どっと押し寄せる息切れ。空気を吸ったり吐いたりを繰り返し息を整える。
青く広がる空を眺めれば、ゆっくりと流れる雲と温かく照らし続ける太陽。未だにきちんと整わない息に肩で呼吸をする。
そしてゆっくりと前を向き直した。
その時だった。
背中から強く誰かにぶつかったと思えば、ゆっくりと前へと倒れる体。
え。と疑問に感じる前に右から大きなクラクションが聞こえてくる。
そこで自分が意図的に背中を押されて、車に轢かれる寸前だという事に気付いた。




嘘と少しの後悔です







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