(癒えない傷は舐め合えばいいの続き) 初めに歯車が狂ったのはいつだろうか。きっとそれは小学生の時、彼を見た瞬間からズレ始めていたのだと思う。 今までずっと罪悪感が纏わり付いてきて、彼に謝る事ができるのであれば、そうしたいとずっと思ってきた筈なのに。成長した彼を見た時、本当に会えるとは思わなくて一気に緊張が走った。 そしていざ謝ろうとしてもタイミングが見つからなくて、否。怖かったのかもしれない、彼に避けられるのが。そして期待していたのかもしれない、彼が忘れてしまっているのではないかと。 こんな臆病な自分に笑いさえ出てこない。 そして昨日、彼に抱かれた。 それは決して甘いものではなく、ただただ愛の無い無意味な行為。それでもこの行為を続けて、彼の心の傷を癒せるのであれば、この罪悪感から逃れる事ができるのであるば、この身などどうでもよかった。 それでも意外だったのは、彼に抱かれた時、暴力や乱暴な事は一切無かったし、中出しもされなかった事だ。 行為が終わった後、また明日の放課後ここにくるように言われて、そのまま放置され。胸の奥から湧き出てきた苦しみと悲しみ、そして正体の分からないこの感情。それらを全て混ぜ合わせて、ぽろぽろと涙が頬を伝った。 午後の授業はそのままサボリ、家に着いた途端にお風呂に直行した。 シャワーから出てくるお湯で全てを洗い流すように、体を洗っていく。そんな事をしたって、流れるのは表面的な汚れでしかない。この罪悪感と汚れてしまった心、そして彼の身も心も傷付けてしまった罪はもう、流せないのだから。 そう、何もかも手遅れなのだ。自分が悪いのは分かっている。それでも頭の中がごちゃごちゃになって、何が何だか分からなくなる。 彼の方が何倍も辛い思いをしたのに、それなのに、それなのに。自分の事で頭がいっぱいで、どうすれば良いのだろうか。 ごめんなさい、ごめんなさい! リンは頭の中で何度も謝り、頬に伝う涙ごと流せば、そっとシャワーを止めた。 そしてお風呂から出て、そのままベッドの上で横になる。お母さんが夕食ができたと言っていたが、それを断り、ぎゅっ、と自分の体を抱き締める。そしてそっと瞼を閉じれば、映るのは彼の手首の赤い線。その瞬間目を開けて唇を噛み締め、自分の手首を見つめた。そこにある血脈を眺め、指先でなぞって。 それでも彼みたいに自分を傷付けるような真似はできなくて。 リンは再び瞼をそっと閉じた。 気付いたら朝日が昇っていた。 リンは溜め息混じりに欠伸を噛み殺せば、体を伸ばして重たい瞼を擦る。そして制服に着替え、頭に大きなリボンを括る。 いつだっただろう、昔はこのリボンを付けるのが子供っぽくて嫌だったのに、自分から毎日括るようになったのは。たぶん小学生の頃だったと思う。 転入生であるあの子が偶然にも後ろの席になって、リボンが邪魔で黒板が見えにくくないかな、なんて思っていれば。とても似合ってるよ、なんて。笑顔で言うものだから、初めてこのリボンを好きになれたんだ。 でも素直になれなくて、それから。 リンは左右に首を振って誤魔化せばそっと部屋から出て行き、リビングに足を運ぶ。そこにあるのはラッピングで包まれた朝食。それをいつものように電子レンジで温めて、口にする。 小学生の頃から何も変わらない毎朝。朝も夜も殆ど会えなくて、一人で食事をするのも慣れてしまった。リンは、御馳走様とぽつりと零し、席を立った。 冷たい空気が全身を覆い、冷風が体を震わせる。口から出てくるのは外気に冷やされた白い息ばかり。 学校に着けば、待っていたのはこの空気のように冷え切った、孤独という波だった。人間関係に冷め切ってしまったあの頃から、友達は段々と離れていって。 あの頃はあの子への罪悪感が全身を包み込み、自分の友達に目を向ける事もできない程。そしてそれは今も、意味や形を変えて健在している。 今まで目立った虐めには合っていないが、基本的には誰からも話しかけられないし、関わろうとも思われない。ただそこに居るだけの存在。家でも学校でも一人、しかしきっと彼は今の自分以上に辛い目にあっているのだ。 リンは溜め息を吐き出し、そっと窓の外を眺めた。 後ろの席の彼は今何を考えているのだろうか。こんなあたしを嘲笑っているのだろうか、それとも、それとも? 先生の声なんて耳に入ってこなくて、ゆっくりと机に俯せになる。 また今日の放課後も、昨日のような事をされるのだろうか。逃げる事なら直ぐにできる、なんせ彼の言葉は挑発的な発言だったが、決して脅されている訳ではない。それでも、きっと今日もあの理科準備室へ足を運ぶであろう。これが毎日のように日課になるのかな、なんて思えば深い溜め息が込み上げてくる。 あの頃はその感情の意味を理解していなかったが、きっと彼の事が好きだった。そう、好きだった。 でももう分からない、分からないんだ。 気付いたらもう放課後になっていた。後ろを見れば、レンはニッと笑みを作り、待ってるから。と、わざと身を乗り出してリンの耳元で囁けば、そのまま教室を後にする。 彼が出て行くのを確認した後、リンは深く溜め息を吐いて、そっと鞄を手に取った。 その時、こちらを見ていた女生徒のグループの目が忌々しく光ったのに、気付く事ができなかった。 そして震える足取りで先を進める。自分自身が引き起こした自業自得の行為なのだが、それでも怖くて嫌で。彼の心の傷が癒えるならこの身などどうでもよかった筈なのに、どうしても理科準備室へと向かうて足取りが重くなる。 リンは深く溜め息を吐き出し、自分を落ち着かせる時間が少しでも必要だと思い、向かう先を女子トイレへと変えた。といっても女子トイレは近くにあったので、直ぐに付いて鏡の前でそっと溜め息を吐き出す。 そして水を出してそれで顔を洗い、タオルで拭いた後、顔を上げた時。その鏡に映った女生徒達がこちらを睨みつけている事に気付いた。 リンがそれに疑問を感じ、小首を傾げたその時。思いっ切り肩を掴まれて振り向かされたと思ったら、そのまま押されて壁に背を付く形になる。驚いて唖然と目の前の人物に目を向ければ、それは先程こちらを見ていた女生徒のグループだった。 彼女達は鋭い瞳でリンを睨み付け、あんた鬱陶しいのよ!と突然声を上げた。 どうやら彼女達は鏡音レンの事が好きらしく、先程親しくしていたように見えたリンが気に食わないようだ。それに元々、物静かでクラスでも孤立しているリンの事が好きではなかったらしい。 リンは、なんだそんな理由かと呆れて溜め息すら出てこなかった。 別に鏡音レンとは親しくなんてしていないし、彼は確実にあたしを嫌いであろう。それなのに、そんな勘違いで怒鳴られるなんて堪ったもんじゃない。 それは勘違いだよ、と弁解しようとしてリンが口を開けば、だんっ!と大きな音を立てて顔のすぐ横で壁を叩かれた。驚いて思わず肩が跳ねる。 その仕草に目の前の女生徒達は下品にも、きゃはは!と高笑い。それが何だか頭にきて軽く睨めば、何か文句あんの?と彼女が手を上げた。 その仕草に思わず目を瞑って歯を食いしばる。 「…ねぇ、何してんの?」 痛みが来るのを待っていたら、聞き覚えのある声によってその痛みは阻止された。 女子トイレに居る筈のない人物の声に、そっと目を開けてみれば。目の前には手を上げた女生徒の腕を掴んでいる彼、鏡音レンが居た。その予想外な光景に声が喉を通ってくれない。 どうして彼がここに居るのか、どうして彼が助ける必要があるのか。そんな疑問が頭の中を駆け巡り、目の前で言い訳をする彼女達の声なんて聞こえなくて。 そんな事を考えていれば、突然彼に腕を掴まれた。 そして目の前の女生徒達が唖然と見守る中、レンは何も言わずにぐいっ、と腕を引いて女子トイレから出て行く。 その時リンはハッと我に帰り、数回瞬きをして漸く息を吸い込んだ。 彼が掴む腕が少し痛かったが、それでも何も言わずに彼に引かれるままついて行く。 時々廊下で擦れ違う生徒達に注目されたが、それを気にする事すらできなかった。 付いた先は案の定、理科準備室で。 昨日と同じように、誰も居ないこの部屋の鍵を閉めて。そして思いっ切り机の上に組み敷かれ、何かを言う前にブラウスのボタンを外された。 ああ、また昨日のようにされるんだな。なんて思ったら言葉も失って、開けた口をそっと閉じる。そう、これは報いなのだ。だから逃げる権利も、理由も存在しない。 彼は露わになったリンの胸にそっと手を持っていき、舌を這わす。 そしてリンの腕を押さえつける片方の手首から、昨日と同じように赤い線が目に入って、そっと目を伏せた。 その時だった。 ぽたり。 突然雨が降った。否、室内なので雨が降るわけ無い。 リンはそっと彼を見上げれば、彼の頬を伝う一筋の涙が光った。初めは見間違いだと思ったが、直ぐに現実に戻り、目を見開く。 どうして彼が泣いているのであろうか、彼は気付いているのだろうか自分が泣いている事を。 そう思っていたら、いつのまにか声が出ていた。 「どうして、どうして鏡音君が泣いてるの…?」 「……っ!」 「鏡音く、」 「…うるさい、黙ってよ」 そのまま噛みつかれるようなキスをされ、言葉は彼の喉に飲み込まれていく。 どうして彼がそんな十字架を背負ったような表情をするのか分からなかった。彼が何に対して苦しんでいるのか分からないが、その罪を代わりに全て背負ってあげたい。 それでも、そんな事をする資格すら、あたしには存在しないのかもしれない。 傷はどうしても癒えなくて -------------------------------------------------- 『癒えない傷は舐め合えばいい』と『癒えない傷を舐め合おうか』の続き。 何だかリンちゃんが病んでる気がするが、気にしない気にしない← |