溺れる呼吸



(海賊 感情によって息が色づいて見えるようになるゾロの話)
2015年に発行した本の再録です




 まっしろだ。
 呼吸のたび吐き出される息が、しかと色づいて見える。それは、ぐにゃぐにゃと進路が定まることなく揺蕩っていた。かと思えば、すぐにまた、新たな白によって塗り潰されて、上書きされていく。白と白を重ねようと、それは混ざり合うこともない。
 ベッドが一つ置かれただけのボロ宿からは、隙間風が絶えず吹き抜けていた。ゾロは一糸纏わぬ姿でタオルケットを胸元まで引き寄せると、両手を組んで腕を枕にする。対してサンジのほうは、ベッドの脇へ腰をかけ、すでに三本目となる煙草に火を点けていた。ごう、と音がしたのは、ライターの音か、はたまた風の音か。しかし、そんな瑣末な疑問で脳を使うのは、些か億劫に感じられる。
 ゾロは静かに瞼を閉じた。激しい戦闘のあととはまた違った倦怠感を全身に覚え、鈍痛の収まらぬ腰を中心に、神経がひりひりと存在を主張しているかのようだった。さすがに二年ぶりともなれば、元より使い道の違う器官の感覚は鈍り、力の抜き方も、呼吸の逃し方もとうに忘れていた。否が応でも、初めて関係を持ったときのことを思い出すというものだ。
 それは、空島での出来事だった。風呂にも入らず、黒焦げの身体のまま、瓦礫に身を隠し、欲をぶつけ合った。あのときのゾロの記憶は、ただただ、痛ェという感情で埋め尽くされている。雷とはまた違う、下半身から伝わる痛覚は、次第に全身へと渡っていき、及ばなかった己の力を、まだまだ強くならなければいけないのだという覚悟を、とかく実感させられる結果となったのだ。きっとそれは、サンジも同じだったのだろう。互いに冷めやらぬ戦闘の熱と、不甲斐なさからくる怒りをぶつけた結果がそれだった。
 煙草の煙が風に押し流され、ゾロの鼻先を掠めた。反射的に顔をしかめたゾロに気がついたのだろう。サンジはベッドへ腰をかけたまま、おもむろに身体を捻った。ゾロの顔の脇へ片手をつくと、突然、身を寄せてくる。ゆっくりと顔を近づけてくるサンジから、ゾロはどうしてか、逃れることができずにいた。
 我ながらどういう了見か。そのままキスでもされるのかと、一瞬頭をよぎった想像をバカバカしいと薙ぎ払う。そんな甘ったるい行為は、恋人同士でもあるまいし、一度たりともしたことがない。ゾロはただ、近づくサンジの顔を、まじまじと眺めていた。ふいに視線が交わる。煙草二本分ほどの距離にあるこの男の唇へ、ゾロがこのまま噛みついたとして、サンジは一体、どんな反応を示すのだろう。
 目前の男が、深く息を吸ったのが分かる。その唇から煙草が離された瞬間、ゾロの視界は白い煙で包み込まれた。突然の出来事から、鷹揚に瞼の開閉を繰り返すことしかできなかった。すると、すぐに眼球へ痛みが走る。網膜を通して、徐々に広がっていく疼痛は耐え難く、きつく瞼を閉じた。下半身に感じる鈍痛とは、まるで種類の違うものだ。沁みる、といった表現が適切なのだろう。
 両手で目を押さえ、ゾロは呻きながら痛みを逃がそうと身を捩る。そのついで、バカにしたよう、声を上げて笑うサンジの横腹を勢い任せに蹴りつけてやった。狭い部屋の中、ベッドから転げ落ちたサンジは、壁との僅かな隙間へ上半身だけを埋め、したたかに頭部を床へ叩きつけている。
「てっめ……! なにしやがんだ、んのクソマリモ!」
「こっちの台詞だ! だああ、いってェ!」
 もがきながらベッドの隙間から抜け出たサンジは、ぼさぼさになった髪を撫でつけ、再びベッドへ腰を下ろした。小さなサイドテーブルにあるガラス製の灰皿へ、慌てて煙草を押しつけている。それから、サンジはゾロの手首を掴むと、強引に両手を顔から引き剥がした。
「ははっ、えっろ」
 目を開けたゾロの眸は、生理的に出た涙でしとどになり、真っ赤に染まってしまっている。アホか、そう一蹴しようとしたとき、先程よりも素早い動きで、サンジの顔が近づいてきた。抵抗する間もなく、目尻に唇が落とされる。そこを吸い上げられ、ぺろりと舌で舐められた瞬間、知らず肩が震えた。
「おめェさっき、キスされると思っただろ」
「おい、やめろ」
「否定しねェのな」
 目尻から頬へ下り、サンジの唇は首筋を啄ばんだ。金糸が頬を、顎髭が首筋を擽り、ゾロはたまらず首を捻って逃れようとする。しかし、抵抗の意思を見せたゾロの両腕は再び捕らわれ、さほど強くもない力でシーツへと縫いつけられた。まるで、試されているようで気分が悪い。ゾロが本気で抵抗をしないことが分かっていての行動なのだ。嫌じゃねェんだろ。そんな意思のこもった眸で見上げられるのが、真実なのだからどうしようもない。
 けして唇ヘはキスをしてこないサンジだが、その他の場所には余すことなく吸いついてくる。痕をつけられることもしばしばで、そのたびゾロの中で、疑問の種は膨らんでいくのだ。
 空島で不器用に抱き合ってから、次の行為までもそう時間はかからなかった。初めのうちは、戦闘のあとの、燻った熱をぶつけ合うことを理由にしていた。しかし、ゾロがその行為で快感を得始めた頃から、船の中だろうと、どこかの島だろうと、やりたいときに誘い、誘われる関係へと変化していったのだ。要は、体のいい性欲の捌け口でしかない。
 ここまでやっておいて、互いの口をつけようがつけまいが、今更変わらねェだろ。そう思うのはゾロだけで、サンジはキスに特別な感情を抱いているようだった。女と以外しないだとか、好きな人としかしないだとか、何度もゾロと身体を繋げ合っている時点で、矛盾しか生まれないようなことを、この男なら平気で考えそうだ。ゾロ自身、その考えを否定するつもりもない。
 未だゾロへ覆いかぶさっていたサンジは、ふいに上体を起こした。丁寧さの欠片もない手つきでシーツを剥がれ、両足を抱えられる。その間に身体を潜り込ませたサンジは、寛げたままのファスナーから、半勃ちの性器を取り出して、ゾロの手を導いた。どういった感情からか、自分でも分からぬまま、ゾロは唇を尖らせる。その上、久方ぶりに抱かれたことで生まれた痛みを思い起こせば、眉間に皺も寄るというものだ。
 しかし何を思ったのか、サンジは身を乗り出すと、ゾロの唇を指で摘む。一瞬だけ顔を歪ませたかと思えば、子どもが喧嘩相手を挑発するように、ベえと舌を出した。
「残念。お前には、死んでもキスなんかしてやらねェよ!」
 そう言い放ったサンジは、またも唇を避け、すっかり痛みの引いたゾロの瞼ヘキスを落とした。おれァ別に、キスがしたいだなんて思ってねェ。そう牙を剥き、せめてもの反抗として、サンジの性器をきつく握る。だが、急所を握られていても尚、目前の男は危機感など覚えていないようだ。それどころか、すっかり硬く膨れ上がったものの先端を、ふたたびゾロの脚の間へ擦りつけてくる。
 同性の性器を握って扱いて、突っ込まれてぐちゃぐちゃに掻き回されることに抵抗がなくなったのは、一体いつからか。そんなもの、初めから感じていなかったような気もするが、こんな潰れた蛙のような姿を晒すことは、たぶん、こいつ以外には無理だろう。今、確かに分かっていることといえば、これぐらいのものだ。




 ゾロよりも背が高く横幅もある、いかにも柄の悪そうな集団が脇の酒場へ入ったことで、一気に視界が拓かれた。道幅いっぱいに広がり、のろのろと歩く男共が邪魔で仕方なかったため、やっと気分よく島を散策できる。そうして商店を見回したその先で、丸々と太った唐草模様の風呂敷が、一人でに浮かぶ様子が目に留まった。最近、似たような光景を見たばかりだ。出航して幾許か経った、ドレスローザでの出来事を思い起こす。こんなところにも小人はいるのかと、興味本位でその姿を観察した。しかし、よく見れば、細く小さな足が風呂敷の下から覗いている。その皮膚は弛み、皺襞が目立つ。
 のろのろとよろけながら進む風呂敷へ追いつくのに、そう時間はかからなかった。ゾロの膝ほどの背丈である老婆が杖をつき、息を切らしながら、華奢な身体より一回りも二回りも大きな風呂敷を担いでいる。
「おいばあさん、それァどこまで運ぶんだ」
「ああ、ちょっと店までね。持ってくれるのかい? 助かるよ」
「遠慮ねェな」
 見かねたゾロが声をかけるや否や、老婆は首に回していた風呂敷の紐を解き、地面に下ろした。あまりの図々しさに、ゾロはたまらず噴き出したが、大人しく荷物を持ってやる。初めからそのつもりだったのだから、寧ろ老婆のほうから声を上げてくれて助かった。
 刀を三本腰に携え、左目と胸元を走る傷口から、先程まで前を歩いていた連中と大差ない風貌をしていることは理解している。大概は、盗人に勘違いされるのがオチだった。海賊なのだから、その認識が間違っているわけでもない。一見優男風のサンジならば、疑われることなく、簡単に荷物を預けられるのだろう。しかし実際には、性欲にまみれたクソ野郎だ。昨夜の出来事を思い出し、ゾロはたまらず舌を打った。一度身体を重ねたときより痛みの増した腰を庇いつつ、ゾロは老婆の後に続く。
 独自の調合を売りにした漢方専門の薬局をやっているという老婆は、商人らしく話好きらしい。ゾロが相槌を打つ間もなく語り始め、もっぱらこういった力仕事を任せていた主人が最近腰を痛めたのだと、呆れた様子でため息をついていた。下がった瞼から僅かに覗く眸からは、それでも深い慈愛が感じ取れる。長年連れ添っている相手へ、未だ愛情を持ち続けていられることを、ゾロは素直に感心していた。恋だの愛だのは、ゾロの中で、いまいち理解に乏しいものの一つに挙げられる。
 下手すれば老婆は、ドラム島で出会ったくれはよりも歳が上に見えた。あのばあさんが異常だと分かってはいるのだが、どことなく、魔女じみた雰囲気が似ている。ナミが歳を取った暁にはこうなりそうだと考えていたところで、老婆が経営しているという店先に到着したようだ。見るからに年季の入った木造の引き戸を開けば、建てつけが悪いようで、がたがたと引っかかるような音を立てた。
 小さな店だった。入ってすぐ、カウンターが目に入る。その後ろの棚には、様々な薬品が並べられており、カウンターを挟んで老爺が座っていた。腰に障るのか、小刻みに震えながらも、荷物を抱えたゾロを見るなり、すまんねえと嗄れた声を上げる。すると、恋する乙女のような足取りでカウンターへ駆け寄った老婆が、踵を上げて健気にも小さな身長を伸ばした。それに答えるよう、老爺が身を乗り出し、人目も気にせず唇を寄せている。
 居心地の悪さが、ゾロの足元から競り上がってきた。そのとき、うっと呻き、腰を押さえた老爺によって、その感情は朽ちかけた床へ落ちて消えていく。なんかすげェもん見ちまったな。素直な感想を口にすることは憚られ、すっかり固まっていた身体を動かすと、ゾロは衝撃のあまり忘れていた荷物を足元へ下ろした。目板が重さの分、音を立てて沈む感覚がする。悠久の年月を経た店だが、掃除は行き届いているようで、塵一つ舞うことはなかった。
 いつの間にかカウンターへ回った老婆が、老爺の腰を賢明に擦っている姿を一瞥し、ゾロは物言わず引き戸へ手をかける。建てつけの悪いそれは、力を込めたら壊れてしまいそうで、なかなか加減の仕方が掴めない。苦戦していれば、気づいた老婆が、カウンターから何かを探し出し、ゾロを引き止めた。
「あんたも腰が痛むんだろう。ああ、それと目もだね」
 飄々とした老婆の言葉を聞き、ゾロは無意識に左目へ手をやった。腰はまだしも、開くことのないこの目の痛覚など、とっくになくなっている。すると、そっちじゃないよ、と老婆は呆れたよう首を振った。ゾロは首を傾げて考える。腰と同様、昨晩の出来事で、一つだけ思い当たる節があった。白く染まった息によって生み出された痛みは、案外すぐに霧散したため、すっかり忘れていた。
「ばあさん、魔女か何かか……」
「はっは、そんな大層なもんじゃないよ。ただ、人より見えやすいのさ」
 ウインクをした老婆は、スポイトのような容器に入った透明な液体と、塗り薬をゾロへ差し出した。本当に効くのかと、未だ腰を押さえ跨っている老爺を見遣り、ゾロは顔をしかめる。それに、腰はまだしも、煙草の煙が沁みただけの目には、すでに違和感など覚えていない。
「あー、じゃァこれだけもらってく。悪いな」
「1200ベリーね」
「金取るのかよ!」
 塗り薬を受け取ったゾロは、すぐさま親指と人差し指で輪を作った老婆へ唾を飛ばした。図々しい上、守銭奴の老婆から、やはりナミの未来を垣間見てしまったような気分になり、寒気がする。それに薬なら、買うまでもなく、チョッパーに出してもらえばいいだけの話だ。
「冗談だよ。目薬も、一滴だけでも差していくといい。よく効くからね」
 タチの悪い老婆の冗談で笑えるような心境ではなく、ゾロは仏頂面のまま、差し出された薬を受け取った。全くばあさんはお茶目だなァ、そう言ってでれでれと表情筋を弛緩させた老爺から、また嫌な空気に当てられそうな予感がする。ゾロは早々にこの場を立ち去りたく、老婆に勧められるがまま、その液体を右目へと流し込んだ。
 掲げた容器は天井のライトに照らされ、液体は波打ちながら虹色へと変化する。水分を吸収した網膜が、じわじわとその身を再生させるかのような、そんな感覚がゾロを襲った。何度か瞼を瞬かせる。本当に効き目があるのだと、そう実感できるほどの感覚に陥る、不思議な代物だった。キャップを嵌めて薬を返し、老夫婦へ礼を言うと、ゾロは再び引き戸へ手をかけた。
「まあ、余計なものも見えちまうんだけどね」
 異質な空間から片足を抜け出したゾロの背へ、老婆が投げかけた言葉の意味はよく分からなかった。あまり気にもかけず、ゾロはひらひらと手を振って店を後にする。まだ出航までも多少時間があるはずだ。ここへ向かう途中、酒場があったことを思い出し、酒でも飲んで帰るかと、ゾロは足取り軽く人ごみの中へ紛れていった。
 しかし、たった数百メートルの距離だと記憶していたが、なかなか目的の酒場へは辿り着けず、さすがに焦れてきた頃、ゾロは自分の目を疑った。いつの間にか人気のない林の中におり、やっとの思いで市場へ戻って来られたところだ。それなりに人は多く、その光景は平和な島そのものである。
 しかし、おかしなことにゾロの視界は、さまざまな色で溢れ返っていた。人々の頭上を越え、空へ浮かび上がると、それらは次第に薄くなり、いずれ霧散していく。だが、すぐ新しい靄のようなものが浮かび上がり、謎の気体は途切れることがない。それは、サンジが煙草を吹かすとき、白く染まって、目に見えるようになる呼吸とどこか似ていた。
 ゾロはぎょっとして固まったまま、視線だけをぐるりと動かしてみる。それは全て、人間の口から毒霧のごとく溢れ続けていた。赤、青、緑、黄色、他にも、名前がつけられないような複雑な色まで見受けられる。慌てて右目を擦り、再び瞼を開こうとも、奇妙な靄は、しかとゾロの眸に映っていた。数え切れぬほどの靄に包まれ、気味の悪いそれらを振り払おうと、たまらず周囲を手で扇いだ。いとも簡単に押し流され、消えた靄を確認すると、ゾロはひとまず人気のない裏路地へ身を隠すことにした。
 そのとき、眼前で浮かび上がった紫色の靄に、咄嗟に身を引いた。刀の柄に手をかけ、周囲へ神経を張り巡らせる。日の光も当たらぬ薄暗い路地で、ゾロ以外の人間は見当たらない。それどころか、気配すら感じ取れなかった。
 まさかとは思ったが、両手を眼前に広げ、そこへ向けてゾロは息を吐き出した。先程見た紫色の靄よりも、幾分濃く色づいたものが、はっきりと掌の上を滑っていくのを、まじまじと視界に捉える。
 ――まあ、余計なものも見えちまうんだけどね。
 ふと、そう言った老婆を思い出し、確信した。原因は、どう考えてもあのときの目薬だろう。路地裏から顔を出し、道行く人々を一瞥する。そこは相も変わらず、色づいた靄で溢れ返っていた。とかく、店へ戻ったほうが良さそうだ。そう判断し、意を決して通りへ戻る。 人の数ほどある、夥しい息のせいで、視界が悪い。ゾロにしては珍しく、ひたすらに足元を眺めながら先を急いだ。
 しばらく歩いていると、長い間、探していたはずの酒場を見つけた。だが、今はのんびりと酒を飲む気分にもなれず、悪態を呑みこんで舌を打った。あの老婆は、本当に魔女だったのではないかと感じるほど、老夫婦が営む薬屋は見つからない。迷子という意識がないゾロにとって、その店が忽然と姿を消したとしか考えられないのだ。
「おい」
 そのとき、どこからか苛立った声が届いた。顔を上げる前に、その声の持ち主へ正面からぶつかってしまう。微動だにしなかった男から一歩身を引いて、ゾロは素直に謝罪の言葉を口にした。だが、そこに立っていたのは、昨晩まで一緒にいた仲間の一人だった。相手が相手なため謝罪してしまったことは癪ではあるが、心の内で安堵する。
「なんだおめェか。謝って損したぜ」
「わざわざ探しに来てやったおれに、謝罪どころか感謝の言葉も必要だ、クソマリモ!」
 さほど変わらない身長のせいで、真っ赤に染まったサンジの息がもろに顔へかかった。ある意味、煙草の煙よりも厄介だ。そもそも、こんな変なものを見ることになったのも、この男が煙を吹きかけてきたせいなのだと思い至り、ゾロは感情のままに顔をしかめる。
 大げさに音を立てて舌打ちをしたサンジは、煙草に火をつけながら、ゾロへ背を向けた。ライターの火を灯し、くぐもった声で、集合時間とっくに過ぎてんだよ、そう呟く。もうそんな時間になっていたのかと驚いたゾロは、ふたたび謝罪の言葉を口にした。サンジの表情は窺えないが、白い煙に乗って、ナミの髪色に似た靄がのぼっていた。
 すると、ふいに手首を掴まれ、強い力で手を引かれる。ゾロは大人しくサンジの後に続き、さまざまな靄から逃れるため、再び足元へ視線を落とした。まず老婆を探したいところだが、この現象に対する説明のしようがなかった。息が色づいて見えるようになったなどと、サンジに言ったところで、しばらくからかいの種にされるに違いない。
 ログが貯まり次第、すぐにでも出航したいと、昨晩ナミが言っていた。たぶん、大きな嵐になる。気圧が変わっただとかなんとかで、ナミはまとまらない髪に対して唇を尖らせつつ呟いていた。現時点でどれほど遅れを取っているのか分からないが、帰ったら大目玉を食らうことは確実だった。もしかしたら、チョッパーに説明すれば、この奇妙な現象を治すことができるのかもしれない。だが、見知らぬ老婆からもらった目薬を無用心に差したと告げれば、声高に注意されるのだろう。そうしてゾロの中で、治療を優先するよりも、面倒が上回った。ナミを相手にするだけで、手一杯なのだ。
 色に溢れる以外、寧ろ視界は良好である。本当に魔女か何かだったとしても、老婆に裏があるようには思えなかった。いつまでこの状態が続くのか。まずの問題はそこにあったが、とにかくサニー号へ戻るのは一刻でも早いほうがいいのだろう。
「……おめェさ、なんかあったのか」
 サンジが一度振り返ったあと、声を潜めてそんな疑問を投げかけてきた。その息は、路地裏へ逃げ込んだときの、ゾロのものと似た色をしている。その問いの意味を理解するのに時間がかかり、ゾロは首を傾げた。左耳のピアスが触れ合って音を立てたとき、手首を掴むサンジの掌が強張ったのを、たった一枚の皮膚を通して、顕著に感じ取った。サンジが何か、不安を覚えていることは分かる。今なら、真面目にゾロの話を聞いてくれるような気がした。
 しかし、空が突然暗くなったことへ意識が向かった。ナミの予報はけして外れない。急ぐぞ、そう言って焦った様子のサンジの手首を、肯定の意味を込めて握り返した。知らず、視線はサンジの後頭部より先へ向かう。そこから浮かび上がっていた靄は、薄い桜色をしていた。








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