ネイキッド・ワールド



(海賊 WCI後素直になろうと決めたサンジ)



 ふと、白煙に乗り、草を燻した独特の臭いがゾロの鼻先まで届いた。毎日ところ構わず煙草を吹かす男のせいで、それは嗅ぎ慣れたものであったが、ずいぶんと久しぶりにその匂いを意識したような気がする。新世界に入ってからというもの、のんびりとしている暇はなく、こうして仲間が全員揃って航海をしていることのほうが珍しい。
 マストをぐるりと一周するベンチに座り、うとうとと船を漕いでいたゾロの横に、煙草を咥えたサンジが、何を言うでもなく腰を下ろした。自らの意思で、一度この船を降りた男が、こうしてまた共に航海をしている。久方ぶりにその顔を見たとき、戻ってきてよかった、そう言って諸手を挙げて喜ぶ仲間たちの中で、サンジも晴れやかに笑っていた。ゾロが遠巻きにその様子を眺めていれば、ふいに視線が交わり、サンジは何やら物言いたげな表情を見せたのだ。
 ルフィがビッグ・マム相手に起こした事件は、全世界でトップニュースとなった。各誌競うように様々な情報を掻き集めては掲載し、最初の記事が出てからワノ国へ辿り着くまでの数日間、毎日飽きず新聞の一面を飾っていた。そのため、聞くまでもなく大まかな全貌は見えてくる。紙面では、ヴィンスモーク家との政略結婚についても触れられており、仲間内でも大いに盛り上がりを見せた話題だった。主にウソップが、サンジが女との結婚を断れるわけがないと心配し、本当にもう戻ってこないのかもしれないと、仲間たちは一様に不安がっていたのだ。
 だが、当のサンジにどんな事情があろうと、ルフィにとっては所詮些末なことでしかない。どうせ無理にでも連れ戻すと一切の疑いなく確信していたゾロだが、サンジのほうは、たとえ政略結婚だろうと、それがマムの娘であろうとも、ウソップの言うとおり、相手の女を無碍にできるような男ではなかった。演技であれ、女に本気で迫られたサンジが、きっぱり断れるとも思えない。
 その間何があったのか、はたまた何もなかったのか、ゾロは微塵も興味がなかった。どうせ謝罪か言い訳か、そんなことを考えては、サンジという男はぐるぐると面倒な脳の回路を巡らせているのだ。ゾロはそれらを遮るようにして、いつもどおり軽口を叩いた。すると、結局は喧嘩へ発展し、サンジが言いかけたものはうやむやのままに散っていく。それ以降は仲間内で話題に上ることもなく、また忙しない日々が過ぎていった。
 深く息を吸って、ふたたび白煙を吐き出したサンジは、ゾロの顔を緩慢な動作で覗き込んだ。ゾロも薄く瞼を開けて、その顔を横目で見遣る。なんだよ、そう言おうとしたところで、少しずつ距離を測るようにして、その顔が近づいてきた。逃げるつもりも、拒絶するつもりも、ゾロにはない。唇がおそるおそる押し当てられ、下唇を音もなく啄ばむと、サンジはすぐに離れていく。
「あー、なんか、すっげェ久しぶりな気ィすんなァ」
 煙草を口許へ戻し、指先で自身の唇をなぞったサンジは、ほっとしたように歯を見せて笑った。ゾロはそれに適当な相槌を打ち、今度はサンジの顔をまじまじと見据える。
 つくづく、難儀な男だと思う。重度の女好きとは言え、基本的には誰に対しても優しい男だ。ゾロとは違い、女の扱いも心得ている。下心さえ表面化しなければ、それなりに好意を寄せられる男なのだろう。だが、そんな態度も、サンジはわざとやっている節があった。あくまで本気にされぬよう、女を傷つけることなく線を引くのも上手いのだ。そんな男が、懲りもせずゾロへ触れてくる理由は、言葉にされずとも、さすがに分かっているつもりだった。しかしそれはお互い様で、ゾロがサンジのことを拒まない理由も、きっと正しく理解されているのだろう。
「お前さ、本当に何も聞かねェよな」
「んだよ、聞いてほしいのか」
「どーせおめェが興味ねェのなんて分かってんだよ。ただちったァ気になったりしねェわけ?」
 ゾロの肩へ不躾に肘を乗せ、サンジはふてぶてしい態度でゾロへ向かって煙を吐き出した。それを鬱陶しげに腕で払ったゾロは、ついでにサンジの腕を叩き落とす。
「結果がもう出てんのに、今更過程を聞いてどうなる」
「そうじゃねェよアホ!」
「なんだと、てめェ」
「もうちょっと、嫉妬とかしろよって話だろ!」
 大声でそんなことを叫ぶサンジの口を、ゾロは慌てて塞ぐ。アホ呼ばわりに苛立ったのも束の間、焦りのほうが上回り、小さな怒りなどすぐに霧散してしまった。いくら今が真夜中で、仲間たちはとっくに寝静まっているとはいえ、いつ誰が起きてしまうかも分からない。声がでけェと嗜めれば、サンジもハッとしたようにゾロから身を引いた。煙草の火を乱暴に揉み消し、拗ねたよう唇を尖らせると、ゾロのことをねめつけてくる。いつもどおり応戦する構えを見せたところで、サンジは突然、ゾロへ向けてストップをかけるように片手を突き出した。
「ちげェ。間違えた」
「あァ?」
 深々とため息を零したサンジは、おもむろにベンチの上で正座をすると、何やら気合を入れるよう自らの両頬を張った。小気味のいい音が響き渡り、ゾロは驚きからぴくりと肩を跳ねさせる。理解不能なその行動の数々から、とかく嫌な予感しかしない。ベンチの上に手をついて、さりげなくサンジから距離を取ろうと身じろげば、その手を掌で覆われ、指を絡め取られてしまう。
「こ、こいびと、だろ……」
 しどろもどろに吐き出されたその言葉は、頼りなげに語尾が萎んでいき、最後の方はほとんど聞き取れなかった。当のサンジは顔を真っ赤に染め上げ、何やら苦々しい顔をしている。呆然とその発言を受け止めていたゾロだったが、サンジの表情を見るなり、呆れて肩を竦めた。
「自分でぞっとするぐれェなら言うなよ」
「…………してねェよ」
 握られたままの手を咄嗟に引こうとしたところ、サンジは離すまいとますます力を込めた。それどころか、両手で包み込むように覆われてしまい、ゾロはぎょっとする。そうして動きを遮られた手は、宙で浮いたまま行き場をなくす。一体全体何が楽しくて、野郎同士暗闇の中、手を握らねばならないのか。先程からサンジの行動が全く読めず、ゾロも眉を寄せ、苦々しい顔を返した。
「おれは、おめェが好きだよ」
 ぴくりと跳ねたゾロの手を、さらに強く握り込んだサンジは、窺うようにしてゾロの顔を覗き込んだ。おめェも一緒だろ? 確信めいた言葉とは裏腹に、不安げにゾロのことを促す。今更こんな確認をしなくとも、互いの気持ちなぞ、よく分かっているはずだった。
 この男が、ただの性欲処理で男を抱けるほど、器用な人間ではないことは重々承知している。それは、ゾロだって同じなのだ。しかし、今までそういった感情を告げられたこともなければ、求められること自体初めてだった。突然のことにゾロが混乱するのも無理はなく、むっすりと唇を引き結び無言を貫いていれば、サンジはへらりと目尻を下げた。
「無言は肯定になっちまうぞ」
 揶揄するよう口端を上げたサンジを一瞥し、ゾロはどうなってるんだとたまらず舌を打つ。
「否定するつもりはねェ」
 面倒だとは思ったが、ここで否定してしまえば、さらに拗れてしつこく追求されるのが目に見えていた。サンジに捕らわれたままの腕とは反対の手で、乱雑に後頭部を掻くと、ゾロはどこか居た堪れない心地に苛まれる。その上、へらりと笑みを零したサンジは、あろうことか、ゾロの指先にキザったらしく唇を落とすと、今まで聞いたこともないような甘ったるい声音で、再度「好きだ」と呟いてみせた。
「てっめェさっきからなんなんだ! 気色悪ィ!」
 慌ててサンジの手を振り払い、ゾロは鳥肌の立った腕を擦った。すると、そんなゾロの様子に、さすがのサンジもこめかみへ青筋を浮かび上がらせ、んのクソマリモ! といつもの調子で唾を飛ばした。先刻までの奇妙な空気は途端消え失せ、結局は殴る蹴るの喧嘩に発展する。互いに引っ込みがつかなくなったところで、女部屋から鬼の形相をしたナミが顔を出したことによって終戦となった。



「サンジの様子がおかしい?」
 船上で爽やかな風を受けながら、ゾロはチョッパーと向かい合って芝生甲板に座り込んでいた。医務室を選ばなかったのは、すぐ横のキッチンで、サンジがデザートを作っているからだ。腕を組み、真面目な顔で告げたゾロのことを丸っこい目で見上げ、チョッパーは不思議そうに首を傾げる。そのとき、ダイニングの扉から顔を出したサンジが、パラソルを広げて談笑するナミとロビンの元へ、器用に回りながら駆けていく姿があった。分かりやすくやに下がった顔を、チョッパーと共に無言で眺める。
「サンジの様子ならいつもおかしいぞ」
「いや、まァ、そりゃそうなんだけどよ……」
 口ごもったゾロに対し、チョッパーは疑問を深めた様子だ。どういうところがおかしいんだ? 更なる追求を受けるも、ゾロは何も答えられなかった。あの夜以来、とかくサンジの様子がおかしい。考えた結果、変なものでも食ったか、マムの元で奇妙な能力でも使われたのか、そのどちらかだろうという結論に至った。いずれにせよ、治療が必要ならば、チョッパーに助け舟を求めるのが一番だ。そう考えた末の相談だったのだが、サンジの様子のおかしさを、一体どう説明すればいいのか、見当もつかない。
「それにしても、ゾロがサンジのことを心配するなんて珍しいな! 最近喧嘩もしないし、やっと仲良くなったのか?」
 日差しを浴びてきらきらと輝く純粋な眼差しを向けられて、ゾロは小さく呻くと、視線を彷徨わせる。とてもじゃないが、チョッパーに相談できる内容ではなかった。今更そんなことに思い至り、どうしたものかと頭を巡らせる。
 当のサンジは、ナミとロビンへ特製ドリンクを給仕し、名残惜しげに手を振ると、キッチンへ戻っていくところだった。チョッパーと共にふたたび視線を向けていれば、気づいたサンジが踵を返し、大股でこちらへ向かってくる。ぎょっとしたゾロは、無駄な抵抗と分かっていながらも、思わず芝生の上で後ずさりをした。そんなゾロの背後で立ち止まったサンジは、膝でゾロの背を押し返し、何事もなくチョッパーへ笑いかける。
「おいチョッパー、今日のおやつは特製わたあめケーキだ」
「わたあめ!? ほんとか、サンジ!」
「余った分は皿に盛ってあるから食っていいぞ」
 サンジの言葉を聞いた途端、きらきらと目を輝かせたチョッパーは、ゾロの相談の件なぞすっかり忘れ、慌てたように立ち上がった。ルフィたちには内緒なー、そう続けるサンジの声も聞こえているのか定かではない興奮ぶりで、ダイニングへ向かって一目散に駆け出してしまう。咄嗟にチョッパーを引きとめようと腕を伸ばしたゾロだったが、その手は背後のサンジによって制されてしまった。ゾロの背にぴたりとくっつき、しゃがみ込んだサンジは、手首を掴んだまま、硬く浮き出た間接を指の腹で優しくなぞる。ゾロが乱暴にその手を振り払おうと、サンジが懲りる様子はなく、ゾロの肩の上でだらりと両腕を伸ばした。
「なァおめェ、チョッパーとおれの話でもしてたのか?」
「……してねェ」
「分かりやすい嘘ついてんじゃねェよ」
 あんなに見られてたらルフィでも気づくぞ、からからと笑いながら、じゃれあうように身体を前後に揺すられる。されるがまま、ゾロは無反応を貫いた。抵抗すればするだけ、構ってもらえるのが嬉しいのか、この男はしつこくなると、たった数日で嫌というほど学んだのだ。すると早速飽きたのか、すぐに動きを止めたサンジは、肩の上で伸ばしきっていた腕を下ろし、ゾロの胸元へ両手を回した。ふわりと抱きしめたあと、何やらため息を吐くと、ゾロの首筋へ額を擦りつけてくる。長い前髪が触れて、むず痒い。ゾロがたまらず身じろげば、その腕にぎゅっと力が込められた。
「チョッパーと話してるときのおめェが、可愛い顔してっからさ」
「かわっ……!?」
 ぐりぐりと額を擦りつけながら、拗ねたような声音で話す内容に、ゾロは唖然とした。やはり、サンジの様子は尋常じゃなくおかしい。あの夜以来、サンジは事あるごとにゾロへ愛の言葉を囁き、誰もいない船内ですれ違うたび、手を握られるなり、抱きしめられるなり、まるで恋人のような接触が続いていた。ゾロがわざと喧嘩を吹っかけようと、それに乗るつもりもないらしく、それどころか上機嫌にキスを落とされるので、ゾロの混乱は続くばかりだ。
 そしてついに、ゾロのことが可愛く見えるようになったという。この状況を見れば言葉にしなくとも、チョッパーへ確実かつ迅速に、ゾロが言わんとしていたことは伝わるはずだった。しかし、当の船医は走り去ったばかりで、今頃好物のわたあめを慌てて食っているのだろう。急ぐあまり、ダイニングの扉が開け放たれたまま、無情にも風に吹かれゆらゆらと揺れている。
「ちょっと嫉妬した」
「おまっ、なん、ちょっ、まずは離せ!」
「やだね!」
 慌てて抵抗したゾロを押さえつけるようにして、サンジは抱きしめる腕の力を余計強めてきた。おれに話があんなら直接言えよ、そう続け、暴れるゾロの背へ唇を押しつけてくる。
「サンジくーん! キッチンにルフィが向かったけどいいのー?」
「うおっ! はっ、はい! ただいま!」
 ナミの声に二人揃って身体を跳ねさせると、サンジはやっとゾロのことを解放した。ルフィがダイニングの扉へ滑り込む姿を捉え、怒鳴りつけながら駆けていくサンジの姿を、ゾロは目を回しながら見送る。それから、おそらく助け舟を出してくれたのであろうナミヘ、渋々顔を向けた。そこには特製ドリンクをストローで吸いながら、冷ややかな目を向けるナミと、楽しげに微笑むロビンがおり、全身から嫌な汗がどっと噴き出す。ゾロは慌てて視線を逸らし、その場から逃げることを即決した。よろけながら立ち上がる最中、芝生からロビンの両手が生え、すかさずゾロの足首を掴む。威嚇するように歯を剥き、二人を睨みつけるも、笑顔で手招きされてしまった。こうなったら最後、どうせあの二人から逃げ出すことは不可能に近い。すぐに腹を括ったゾロは、ロビンの手が離れたのを機に二人の元へ歩み出した。
「あっはは、アンタのそんな顔久々に見たわ〜!」
 ゾロがパラソルの下へ入ってすぐ、その顔を見上げたナミは、手を叩いて笑い出した。うるせェ、力なく悪態を返すも、ナミは面白いオモチャを見つけた少女のように口端を上げるだけだった。ロビンの隣の席へ促され、ゾロは大人しく腰を下ろした。まず、ナミがからかう顔について、これ以上言及されるのは避けたい。不自然にそっぽを向くゾロに、二人は更に笑みを深めている。
 今のサンジの態度にぞっとして鳥肌を立てるなり、呆れることは多々あったが、遂には心臓が不穏な音を立て始め、頬へ熱が集中した。急に気恥ずかしくなったゾロは、正直に言えば動転したのだった。修行が足りねェ。こんなことで精神を乱しているようではダメなのだ。ナミに言及されるまでもなく、自分が今どんな顔をしているのか、ゾロ自身嫌というほど理解している。
「どうせチョッパーじゃ話にならなかったんでしょ。私たちが相談に乗ってあげる」
「余計なお世話だ」
「さしずめ、サンジの態度がおかしくなって困っているんでしょう?」
 核心をついたロビンの言葉に、ゾロは分かりやすく顔を上げてしまった。もしや思い当たる節があるのだろうか。窺うような視線を向けてしまったためか、ロビンも察したようで小さく首を振られる。よくよく考えてみれば、先程のやりとりを見られていたのなら、ロビンでなくとも不審に思うだろう。わざわざ隠しているつもりもなかったが、知らぬ間にゾロとサンジの関係は仲間内でも周知の事実と化してはいた。しかし、さすがに人目のあるところでサンジがああして触れてくることなど今までになく、まして、ナミやロビンがいる場では、尚更ありえないことだった。
「アイツ本当にコックか?」
「安心して。あれはサンジくんで間違いないわ」
 ふと浮かんだ入れ替わり説をつい口にしてしまったゾロだったが、ナミにすげなく一蹴されてしまう。マムの元で何があったのかは知らないが、一緒にいたナミがこうも断言するのであれば、確かにその可能性は低いのだろう。そもそも、戻ってきてからしばらくはゾロもよく知っている普通のサンジであり、こうなったのはつい最近のことだ。そのときふいに、新聞よりも正確に、ナミは事の全貌を知っているという事実に思い至った。
「変なモン食わされたとか、謎の能力でも使われたのかと思ったんだが、お前何か知らねェか」
「うーん、サンジくんがマムの城にいたときのことは知らないからなんとも言えないけど、私が知ってる限りそんな奇妙な能力者はいなかったと思うわ」
「戻ってきたときはいつも通りだったわよね。いつからああなの?」
「ここ3、4日ぐれェだな」
 もう少しからかいのタネにされるのかと思いきや、二人は案外真面目に話を聞いてくれるつもりらしい。それだけ、ナミたちの目から見ても、サンジの行動は不自然だったというわけだ。
「もし能力だったとして、そんな遅効性のものを使う理由が分からないわね」
「そうなのよね。それに食べ物に当たったにせよ、別にサンジくんの意に反する行動でもないじゃない?」
「めちゃくちゃ反してんだろうが」
 不躾に腕を組んで言えば、ナミは呆れたようにため息をついた。グラスの中で溶けて小さくなった氷をストローで弄びながら、上目でゾロを見遣る。
「アンタは嫌なの? 好きな人に好きって示されるのは嬉しいものでしょ」
「わざわざああいう態度取る必要なんざねェだろ。今までもそれで問題なかったんだからよ」
「……サンジくんも難儀な恋愛してるわね」
 ゾロもあの夜、全く同じことを考えた。だが、ナミの言うそれとは、何やら意味合いは違うようだ。よく分からなくとも、バカにされていることだけは明確に伝わり、ゾロは深々と眉を寄せる。
「私が思うに、サンジは吹っ切れたんだと思うわ」
「吹っ切れた……?」
「好きでもない相手と結婚するところまでいったんでしょう」
「そうそう! あっ、でもサンジくん、最初はきちんと断ったみたいなのよ!」
 ナミが思い出したように手を叩き、続けた言葉に、ゾロはあんぐりと口を開けた。隣のロビンも目を見開き、信じられないと手で口元を覆っている。
「あいつが女を振るなんて、そんときにゃもう別人と入れ替わってたんじゃねェのか」
「その説が濃厚に思えてきたけど、相手はビッグ・マムの娘と考えたら、さすがのサンジも食指が動かなかったんじゃないかしら」
「それがね、すっごく可愛い子だったのよ! だから私たちもびっくりしちゃって」
 興奮したように続けるナミの話を、ゾロは未だ信じられない思いで聞いていた。サンジの結婚相手は、健気で性格もよくお菓子作りの得意な可愛らしい少女だった。結局その人の良さはヴィンスモーク家を破滅させるための演技だったのだが、まんまと全員が騙されたのらしい。しかし、それを知ったところで、サンジにとってたいした問題ではないだろう。一度は断ったものの、海上レストランを盾に取られ、しっかりと結婚までの逃げ道を塞がれた。ビッグ・マムの作戦では、誓いのキスの際に、隙を見せたサンジを撃ち殺す算段だったようだが、それはついぞ実行されず、最終的にはマムから逃げる手伝いをしてくれたのだという。そこまで聞いてゾロは、サンジへの呆れがピークに達した。
「もしかしたら、アンタの強力なライバルになっちゃうかもね。どうするの?」
「ライバルも何も……アホだな、アイツ」
 ゲイならまだしも、サンジは極度の女好きだ。そもそもの性別を考えれば、ゾロを選択肢に加える必要すらない。もし本当に二人が結婚したとして、唯一のネックは一味が自動的にマムの傘下へ入ってしまうということだ。しかしそれも、海賊ならばむりやり奪えばいいだけの話である。それこそマムを倒してしまえば、もっと手っ取り早く済む。サンジにとって悪いだけの話ではないだろう。その上、自分の身を危険に晒してまで逃亡の援助をしてくれたとなれば、恋愛感情かどうかはさておき、相手の女がサンジへ好意を抱いているのは確実だった。折角のチャンスを不意にして、こうして今、ゾロを構い倒す意味が到底理解できない。
「だからこそサンジは、ゾロに想いを伝えなきゃって思ったのかしら。可愛いわね」
「どういうことだ?」
「もー、ほんと鈍いわね! サンジくんはあのとき、好きでもない相手と結婚する覚悟をしたのよ! アンタとのこと考えないわけないじゃないっ」
「分からねェもんは分からねェ。はっきり言え」
「要するに、その子よりゾロが好きってことよ」
 ロビンがゾロへ視線を向けることなく、ニコニコと笑みを浮かべながら、ナミの頭上へ顔を向けた。ゾロも釣られて顔を上げれば、そこにはトレーを持ち、頬を真っ赤に染め上げたサンジが立ち尽くしている。ナミもサンジの存在に気がつくと、目を丸くして、あら、と鷹揚な声を上げた。
「え、えーと、なんか、楽しそうだね……?」
「サンジくんも混ざる? 恋バナ」
「恋バッ……あーっと、おやつ! 野郎どもにもやらねェといけないから!」
 ナミからの揶揄に分かりやすく目を回しながら、サンジは誤魔化すように今日はわたあめケーキだよ! と声を張り上げた。トレーに載った皿には真っ白なわたあめがドーム型に盛りつけられており、その周りにはナミのみかんを中心に彩りよくフルーツが添えられている。変わったデザートに二人が気を取られている間に、サンジはそそくさとテーブルをセッティングしていった。最後にみかんの果肉がしっかりと残るソースが添えられて、サンジは先程までの動揺をすっかり追いやり、いたずらに目を輝かせる。
「ナミさんもロビンちゃんも、ぜひソースをかけてみて」
「え、このままかけちゃっていいの?」
「うん、どうぞ」
 サンジの言葉に素直に従った二人は、わたあめの上からソースを流し込んだ。すると、みるみるうちに雲のような形の砂糖が溶けていき、中からはシンプルなシフォンケーキが姿を現す。見ているだけで甘ったるいそれにゾロは思わず顔をしかめたが、すごい、おいしそう、と素直な感想を告げる二人の声に、サンジは歯を見せて嬉しげに笑っていた。頬杖をついて、そんなサンジの様子を眺めていれば、ゾロの視線に気がついたサンジと目が合う。その瞬間、笑みを引っ込めたかと思えば、合流した際に見せた顔と全く同じ、何やら言いたげな表情を覗かせる。だがそれも、すぐになりを潜めて、サンジはゾロの前にも同様のデザートを置いた。
「安心しろ、おめェのは特別にブランデーソースだ」
「おお、酒か」
 差し出されたソースの器からは、確かにアルコールの香りが漂ってくる。すっかり食欲の湧いたゾロの姿を見て満足げに口端を上げたサンジは、トレーを抱え直すと、何やらウソップを取り囲み盛り上がっている男共へ視線を移した。ゾロは躊躇なくブランデーを皿に流し込み、姿を見せたケーキをフォークで一刺しにする。向かいに座るナミが早速デザートを口へ入れ、頬を押さえて目を輝かせる様を一瞥すると、ゾロもみかんと共にケーキへ齧りついた。
「サンジくん、これすっごく美味しい!」
「ほんと!? ナミさんのお口に合ってよかったよ〜!」
「それで、さっきはどこから聞いてたの?」
 そそくさとこの場から立ち去ろうとしたサンジへ、ナミは意地悪く口端を上げる。ゾロのときと同様に、サンジのことを逃がすつもりはないらしい。あんまりいじめちゃかわいそうよ、ロビンも口だけでナミを嗜めたものの、本気で止めてやるつもりはなさそうだ。サンジもやはり逃げ切れないと悟ったのか、苦笑を浮かべ、何やら言いづらそうに口ごもった。
「えーと、マリモが鈍いってところから、かな……」
「じゃあ結婚の話も聞かれちゃってたのね。ごめんね、ゾロにプリンのことも話しちゃった。まずかった?」
「いやいや! そんなっ、ナミさんが謝ることじゃないよ!」
 どこからどう見ても演技で肩を落とすナミへ向けて、サンジは慌てて首を振っている。ゾロはその間にケーキを平らげ、相好を崩した。シフォンケーキは元より甘さ控えめに作られていたようで、ブランデーとも喧嘩することなくきれいに腹の中へ収まった。すると、気を利かせたロビンが紅茶を淹れて勧めてくれたので、片手を上げて礼を示す。カップを持ち上げ、湯気を立てる水面へ息を吹きかけた。
「そっか。じゃあ一つ聞きたいんだけど、プリンとは何もなかったの?」
「なにも、って?」
「キスもセックスも、しようと思えばできたでしょ」
 ナミの発言を聞き、たまらず紅茶を噴き出してしまったゾロへ一斉に視線が集る。器官に入った熱湯によって噎せていると、ロビンが優雅に茶を飲みながら手を生やし、ゾロの背を擦ってくれた。こうなることを察知していたのか、ナミはしっかりとデザートの皿を手に持っており、小言を零しつつテーブルをふきんで拭いていく。そんな中、サンジはじっとゾロを見据えたまま、その場から動こうとしなかった。普段、こういったハプニングの最中、率先して片付けに入るサンジが、ただ突っ立っているのは珍しく、やっと咳が落ち着いたゾロは、不信感を露わにサンジのことを見上げた。
「してねェよ」
 それは、明らかにナミへの返答ではない。ゾロに向けて放たれたそれを、ゾロは受け止めることもせず、一度瞬きをすると視線を逸らした。サンジは一瞬複雑な表情を浮かべたが、空になったゾロの皿へ手を伸ばす。トレーに載せると、へらりと笑みを浮かべ、そこでやっとナミへ視線を戻した。
「それに、プリンちゃんにはすげェ嫌われちゃってるし、ありえないよ」
「はあ、揃いも揃って自分のことには鈍感で嫌になるわ」
 鼻で笑ったゾロに、アンタもだからね、とナミがぴしゃりと言い放つ。むっと唇を尖らせたゾロに対して、今度はサンジが鼻で笑う番だった。すかさず睨みを利かせたゾロであったが、相変わらずサンジのほうは、喧嘩に応戦するつもりはないようだ。
「でも結局、プリンはサンジくんのこと撃てなかったじゃない。最後は協力までしてくれたんだし……それにあのとき、なんだか泣いてたように見えたけど」
「うっ、あれは、おれが変なこと言ったせいで……」
「なんて言ったの?」
 容赦ないナミの追求に、サンジはしどろもどろだ。居心地が悪そうにまだおやつの乗ったトレーを抱え直し、ちらりとゾロの様子を窺ってくる。
「プリンちゃんの額の瞳があまりにもきれいだったから、思わず美しいって声に出しちまって」
「それで、その子は泣き出しちゃったの?」
「う、うん。お別れのときも、フィアンセ役がプリンちゃんでよかったって言ったらバカにされたと思ったみたいで、また泣かせちまって……嫌われて当然だよね」
 おれってダメだな、そう言いたげにしょんぼりと肩を落とすサンジを見て、ゾロは向かいのナミと思わず顔を見合わせた。ため息を零し、額に手を当てたナミは、やれやれと首を振っている。すると、隣からは痛いほどの視線を感じ、ゾロは苦い顔をしてロビンを睨みつけた。
「おいロビン、見すぎだ」
「あら、ごめんなさい。あなたの反応が気になっちゃって」
 余計なお世話だ、そう言ってゾロは歯を剥く。そんな二人の様子に、サンジはただ不思議そうに首を傾げていた。ゾロも先程からナミに、鈍いだの鈍感だのと好き放題言われていたが、この男はそれ以上だ。完璧に惚れられてんじゃねェか。ゾロがたまらず舌を打てば、ロビンはまた楽しげな笑みを浮かべ、残りのケーキを頬張ると完食した。
「そうよゾロ、どうするつもり」
「どうもこうも、おれには関係のねェ話だろ」
「えっ、何、なんの話?」
「アンタねえ、サンジくんが見ず知らずの女に奪われてもいいっていうの?」
 当人であるはずのサンジを無視して、話は進んでいく。納得がいっていなさそうなナミから非難の目を向けられるが、ゾロは何も、意地を張っているわけではない。本気で関係のない話だと思っている。一人話に着いていけず、ただ狼狽えているサンジの手中のトレーへ空になった紅茶のカップを載せると、ゾロはおもむろに立ち上がった。
「んなもん当に覚悟してる」
 ゾロは一つ伸びをして、腹も満たされたため、少しずつ浮かび上がってきた睡魔を欠伸として体現する。それから昼寝でもするかと、芝生甲板を進み出した。
「おいてめェ! ちょっと待て!」
 はたして、サンジがゾロの言葉の意味を正確に理解できたのか定かではない。しかし、何かしら感じるものがあったのだろう。苛立ちを多分に含んだサンジの怒声が、ゾロの背へ向けて飛ばされた。足を止めることなく受け流し、すれ違いざまウソップたちへおやつだぞ、と声をかけてやる。そこでやっと、ガラクタ弄りに夢中になっていたフランキーやブルックも、サンジの存在に気がついた。両手を挙げて喜び、サンジのことを急かす仲間たちを、そうそう無視できる男ではない。そうして、サンジからの追求を易々と逃れたゾロは、船首甲板へ続く階段を上った。ちょうど日が照りつける昼間、ここは船首が影になって眠りやすいのだ。


 惰眠を貪り、目を覚ました頃にはすっかり日も暮れていた。煙突からは真っ白な煙が浮かび上がって、夜空の中で揺らめいている。しばらくは欠伸を噛み殺し、ぼうっと船上を眺めていたゾロだったが、仲間たちが一人、また一人とダイニングへ姿を消していくのを確認し、鷹揚に立ち上がった。芝生甲板に降り立てば、煙突の煙が風に流され、とかく美味そうな匂いがゾロの元まで届く。腹の虫がすかさず声を上げ、ゾロのことを急かした。
 躊躇なくダイニングの扉を開けば、姿を現したゾロへ向けて何か言いたげな視線を送ったのは、サンジではなくナミのほうだった。山盛りになったパンを一つ手に取り、ナミから視線を逸らさないまま、なんだよ、と声をかける。
「おいこらマリモ! 食うなら座ってからにしろ!」
 その場でパンに齧りつけば、追加の料理を運んできたサンジが、ゾロへ向けて唾を飛ばす。ナミはその様子を眺めていたが、特に言及するつもりはないらしく、ただ肩をすくめた。これ以上追求したところで、ゾロにとって得になることはないと断言できる。大人しく席へつくことにして、山盛りに積まれた飯の数々に喉を鳴らした。
「この辺りは錨が届かないみたいだから、今日は停泊なしね。見張りはゾロとサンジくんが交代でやって」
「お前……」
「はーい! ナミすわん!」
 すかさず文句を言おうとしたが、それはサンジの威勢のいい声によって遮られてしまった。ナミはわざとらしくゾロから顔を背けると、サンジに向けて笑顔でよろしくね、と手を上げている。どうやらナミは、今回のことに関してサンジの肩を持つことに決めたようだ。心配からというより、このまま拗れるのは面倒だから、さっさとどうにかしろというのが本音だろう。ナミがこうして図らずも、どうせサンジのほうからけしかけてくるのは目に見えていた。ゾロ自身、このままのらりくらり交わし続けられるとは思っていない。それに、ゾロが一人異議を唱えたところで、航海士の決定事項が覆るわけでもないのだ。諦めて食事へ意識を戻すことにして、ひとまず残りのパンを口へ収めた。サンジの視線がゾロへ向けられていることには気づいたが、咀嚼したパンと共に流し込み、フォークを手に取った。





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