運命なんてクソくらえ (運命の相手じゃないサンゾロ) もう、島を一周した頃だろうか。多種多様なオカマに追いかけ回され、捕まるたび、着せ替え人形のように弄ばれた。真っ赤な唇がそこかしこで弧を描き、ままごとで遊ぶ少女じみた笑声が上がる。バケモノたちのそんな姿を思い返し、サンジはぶるりと身を震わせた。心情とは裏腹に、ふわふわと靡くスカートの裾が鬱陶しい。股ぐらは爽やかな風を直に受け、サンジをどこか心許ない気持ちにさせる。 やっとのことでオカマたちを巻き、浜辺へ出たところで、一身に潮風を浴びた。誰に見られているわけでもないが、上がる呼吸を虚勢で抑え込む。鼓膜を刺激する潮騒と、塩味を多分に含む磯の香りは、サンジの脳をクリアにさせる。波に揺られて進む船が、すでに恋しくてたまらない。仲間たちの姿が脳裏に浮かび、サンジは慌てて真っ青な海から視線を逸らした。 何も、今まで闇雲に逃げ回っていたわけではない。思い出すのも悍ましいが、オカマに囲まれた際、煙草臭いとの糾弾に遭い、全身へ香水を振りかけられたのだ。遠慮なく顔面にも浴びせられたせいで、サンジが盛大なクシャミをしてすぐ、元凶であるオカマの一人が、得意げな顔をしてウインクをかましてきた。その瞬間、背中に冷や汗が伝い、ぞっと鳥肌を立てたサンジへ向けて、そのオカマは言ったのだ。 「アナタの運命を示してあげたわよ」 すると、サンジの足元から一直線に続く、赤い糸が見えるようになった。今や一条の光へ賭けるしかない状況だ。何がなんだか分からぬまま、オカマたちをがむしゃらに蹴散らし、その糸を追うことにした。そうして辿り着いたのがここ、桃色の砂で敷き詰められた海岸だった。 歩き慣れないヒールを砂中に沈めながら、のろのろと歩み続けていれば、ついぞバランスを崩し、サンジはその場へ倒れ込んだ。砂埃が舞い、痛む足首より先に、目元を擦る。緩慢に瞼を開けて飛び込んできたものは、砂浜と同系色のスイーツドレスの裾と、嫌というほど見慣れた、脛毛の生えるふくらはぎだ。更にその先には、むりやり履かされた真っ赤なハイヒールがあった。素足に細かい砂が纏わりついて、鬱陶しいことこの上ない。あまりの情けなさから、サンジはたまらず両手で顔を覆う。 こんな運命があってたまるか。一縷の望みを胸に赤い糸を追ってはいたが、砂浜まで出たところで、それは海の上を漂い、地平線に溶けて見えなくなっていた。そもそも、簡単にこの島を出られるのであれば、元より苦労していない。 ――運命を示す。あのオカマは、確かにそう言った。サンジの運命の先など、考えるまでもなく、確固として定められている。この先へ続くのは、ルフィの元だ。しかし、いざ道を示されたところで、その場所へ赴くことはできない。定められた二年で、まずはできることを、考えなければならなかった。今のサンジに必要なことと言えば、強くなること。至極単純な、この一択であろう。こんなふうに、フリフリのドレスを着せられ、ヒールを履かされ、おどろおどろしい真っ赤な紅で唇を塗りたくられて、逃げ回っている場合ではない。 気合を入れるため、サンジは思いきり両頬を張った。潮騒の中で、その音が強く響き渡る。じんじんと痛みを伴う薄い皮膚のせいで、一層、これが現実なのだと意識させられた。砂浜に座り込んだまま、無造作にヒールを脱ぎ捨てる。多少身じろぐだけで、香水の香りが、サンジの鼻先を掠めてくるのが厄介だった。大の女好きではあるが、女になりたいと思ったことなぞ一度もない。美女がつけていれば、たまらず振り返ってしまうような甘ったるいこの芳香も、今は魅力など皆無だった。それどころか、一刻も早く消し去りたいと感じるほど、禍々しい存在でしかないのだ。 ここに、ゾロがいなくてよかった。ふいに、そんな考えがサンジの中で頭を擡げた。小バカにするよう、にやりと口の端を上げ、エロコック、といつものように腹の立つ軽口を叩かれる。 「……うるせェ、クソマリモ」 思わず声に出した想像上のゾロへの悪態は、ずいぶんと弱々しいものになってしまった。この場にあの男がいれば、更に揶揄の材料にされることだろう。想像しただけで腹が立つが、それ以上に恋しさが湧き上がった。あいつもきっとどこかで、ルフィのメッセージを受け取ったはずだ。そうなれば、ゾロの考えることは一つだろう。また、仲間がバラバラになることのないよう、強くなって、二年後、全員揃って大海に乗り出す。もしかしたら、迷子になってシャボンディ諸島へ辿り着けない可能性もあるが、そうなったら探してやればいい。いつだってそうしてきたのだ。今更、そんなことで音を上げるサンジではない。 様々なゾロの迷子珍道中を思い出し、サンジは呆れと愉悦から息を漏らした。次いで、胸を掻き毟られるような感覚に陥るも、悲惨な情景を頭から追いやり、煙草を取り出す。口元へライターを近づけたそのとき、赤い糸が一緒になって持ち上がるのが視界に映った。片眉を上げ、サンジは自らの手を眼前へ翳す。やはり、糸も同様の動きを見せて、風に揺られ、真っ青な空を背景にふらふらと靡いていた。呆然とその光景を眺め、揺れる糸の行き先を視線で辿る。運命を示すというその糸は、いつの間にやら、サンジの小指にきつく巻かれていた。 「ハッ、ばっかばかしい……」 まんまと、オカマ共にからかわれたというわけだ。サンジは小さく悪態を零すと、ライターで煙草に火を灯した。深く息を吸い、毒にも薬にもなる煙が肺を巡る間に、すっと頭が冷えていく。 誰にでも、運命の赤い糸で結ばれた相手がいる。ノースブルーでも、イーストブルーでも、レッドラインを越えて、あらゆる海で有名な話だった。サンジもナンパをする際は、この言葉をよく使う。何も本気で言っているわけではない。愛を告げるのに、どこでも通じるお手軽な言葉なのだ。この島のオカマたちが特に好きそうな、夢見がちなおとぎ話だった。ずいぶんと手の凝った悪戯をしてくれる。 煙草を咥えながら、その糸を解こうとして指をかけた。逃げるのに必死で、気がついていなかったときとは違い、一度視界に入れてしまえば、とかく邪魔くさい。しかし、小指に二重三重と巻かれ、蝶蝶結びにされている簡単なものであるはずが、結び目を引っ張るも、全く解ける気配がなかった。無理に引きちぎろうとしたが、指に糸が食い込むだけで、それは頑として離れない。 サンジは次第に、糸を解くことへ躍起になる。歯を使い、足で踏みつけてみようとも、その結び目は強情だ。最終的にライターで炙ってみたのだが、その火が燃え移ることさえなかった。長い時間、たかが一本の糸と格闘していたが、諦めて砂浜へ倒れ込んだ。夢なら覚めてくれ、そんな願いを胸に、きつく瞼を閉じる。しばらくして、目を開いたそのとき、サンジの眼前に広がったのは、赤く染まった夕空ではなく、毒々しい真っ赤な紅が塗りたくられた唇だった。 「みーつけたっ」 「うっ、うおおおおおおっ!!」 恐怖のあまり、顔面を蒼白にして飛び上がったサンジへ向けて、オカマはケラケラと笑っている。慌てて反撃ができるよう体勢を立て直したサンジの心中などお構いなく、オカマはサンジの足元へきれいに畳まれたスーツと靴を放ると、砂浜へ座り込んだ。ぽかんと口を開けたまま固まってしまったサンジだったが、どうやら捕らえに来たわけではないようだと悟り、おそるおそるスーツへ手を伸ばした。すると、オカマは砂浜を分厚い掌で叩き、サンジに座るよう促す。 「イワさんがアンタをあんまりイジメちゃダメって言うから、返してあげる」 「おお……どうも……」 逃げ回っていては、状況は何も改善されない。観念して、サンジはスーツを腕に抱え込むと、その場へ腰を下ろした。 「でももう必要ないわよね〜。すっかり着こなしちゃって! そろそろクセになってくる頃でしょう?」 「なってたまるか!」 大声で唾を飛ばしたサンジだったが、当のオカマは、ぺろりと舌舐めずりをしたかと思えば、サンジが脱ぎ捨てた赤いヒールを拾い上げた。簡単に砂を払い、突然サンジの足首を鷲掴むと、再びその足にヒールを履かせる。その手は鳥肌の立ったサンジの脛を撫で上げ、ほら、きれいじゃないの、と悍ましいウインクまでかましてくる始末だ。サンジはオカマの手を振り払い、臑毛が逆立つような思いで膝を抱える。すると、太腿の上をスイーツドレスの裾がずり下がり、サンジは慌ててスカートを整えた。そのとき、オカマがニヤリと口の端を上げる様を横目で捉え、ハッとした。おれは一体何を、サンジは頭を抱えたくなる。たかがオカマ一匹、パンツを見られたところで、恥じる必要などないはずだ。 「残念だけどね、運命には抗えないのよ」 「あァ? なにが言いてェ」 「アンタがここに飛ばされたのは、単なる偶然だと思う?」 偶然も何も、あのくま野郎の嫌がらせ以外の何がある。要領を得ぬ曖昧な質問に、沸々と腹の底が煮えたぎった。運命だの必然だの、そういった宗教じみた類に振り回されて、この結果だとすれば、笑い話にさえならないだろう。 「納得いかないって顔ね。それなら、兄を殺された船長も、たまたまそうなったって?」 「っ、てめェ……!」 逆上して飛びかかろうとしたサンジだったが、片手で簡単に制されてしまい、オカマは獣を宥めるような仕草で、どうどう、と筋肉が盛り上がった腕を向けてくる。 「この世に偶然なんてありゃしないわよ。アンタに与えられた二年がその答えじゃない。弱いから負けたアンタたちが、こうも都合よく時間を貰えるなんてこと、運命以外の何があるっていうのよ」 「全部運命で定められてるって? バカバカしい」 「まったく、これだから男ってイヤになっちゃうわよね〜」 頭が堅いったらないわ、オーバーリアクションで、やれやれと首を振るオカマ相手に、サンジは顔を顰める。お前らのお花畑な脳内よりはマシだ。そう吐き捨てようとしたが、面倒な未来が明確に見え、サンジは煙草を咥えるに留めた。また臭いと喚かれるかと思ったが、オカマはサンジの手中から煙草を一本引き抜くと、同じように口へ咥えた。仕方なくライターを放ってやれば、乙女心を分かってない、とよく分からない小言を吐き捨てられる。 「しょうがないわね、頭の堅いサンジきゅんにも分かりやすく説明してあげるわ」 「気味の悪ィ呼び方すんな」 「どうやら女が好きで、オカマ嫌いなサンジきゅんの好きな子が、男の子なのはどうしてなのかしらねえ〜」 「……え?」 「イワさんが持ってた手配書、一枚一枚大切そうに見てたわね。でも、アンタが一番熱い視線を送っていたのは、女の子じゃなかったわよ」 「えっ、なっ、なん…………え?」 動揺するあまり、サンジは上手く言葉を紡げない。じわじわと頬に熱が集中するのが、嫌というほど分かる。ふるふると身を震わせ、ただ口を開閉させるサンジに対し、オカマは更にからかいの手を伸ばした。 「精悍な顔つきの子だったわねえ。私もタイプよぉ。ああいう子ほど、一度手籠にしちゃえば、可愛くなるのよね。もう告白はしたの? チューは、エッチは?」 「う、うううううるせェ! つーかあいつで変な想像すんな! てめェに教えてやる義理なんざねェんだよっ、クソ野郎!」 「あら、その様子じゃ両思いなのねェ」 つまんないわぁ、ふわりと巻かれた髪を指で弄びながら、オカマは不満げに唇を尖らせた。サンジは遅れて、墓穴を掘ったことに気がつくと、まだ半分ほど残る煙草を海へ放り、新たな煙草に火をつけた。吸っては吐いてを短時間で繰り返し、平静を保とうと、がむしゃらに煙草を吸う。当のオカマは味わうように息を吸い、サンジとは反対に、のんびりと夕暮れの中で煙を漂わせた。ふいに、髪から手を離したかと思えば、サンジの足元で束になっている赤い糸を、ごつごつの指先で掬いあげている。 「口では可愛くないこと言ったって、彼と結ばれたときどう思った?」 運命だって感じたんじゃないかしら、ニタリと煙草を咥えながら笑う姿は、ずいぶんと雄臭かった。獲物を前に、ギラギラと目を光らせる獣じみたオカマの存在から、サンジは視線を逸らせなくなる。 「赤い糸が誰に繋がっているのか、本当は知りたいんでしょ」 「これもてめェらの悪戯だろ。んなバカげたおとぎ話信じるかよ」 「こう見えてカマバッカは優秀な精鋭たちの集まりよ。ベガパンクと通ずる科学者だっているわ」 サンジは眉間に皺を寄せて、黙ってオカマの言葉を聞いた。バカバカしい、そう思うのは変わりない。しかし、わずかな期待が、サンジの中で渦を巻き始める。 「赤い糸が見えるようになる香水を開発するなんて、可愛い乙女心からくる親切心じゃないの」 実際、これが開発されてから運命の相手を求め海へ出て、結婚した子たちだっているのよ。べっとりと紅のついた煙草のフィルターを噛み、オカマはそう続ける。どうやら元凶は、あの香水だったわけだ。 「つーかお前、なんでこれが見えてんだ。おれにはおめェの赤い糸なんざ見えねェぞ」 「アンタのはあくまでキャンディ達のための安価なもの。他人の糸も見られないで、優秀な科学者は務まらないわよぉ」 「本を正せばお前のせいなのかよ!」 呆れ返るサンジに対し、品質は保証するわ、そう言ってオカマは得意げに胸を張った。次第に夕日の面積は減っていき、空の半分が黒に侵食されていく。その中でも、海の光を反射させ、赤い糸はゆらゆらと漂い続けている。 事実、サンジはゾロと想いが通じ合った際、これは運命だと強く感じた。現状には悪態をつきながらも、確かにあのとき、心の底からそう思ったのだ。だってまさか、あのゾロと、そういう関係になれるとは夢にも思わないだろう。想いを自覚してすぐに、叶うことはないと諦めていた。互いに男が恋愛対象なわけでもない。その上、ことあるごとに喧嘩をして、甘酸っぱい雰囲気になることなど、イチゴの種ほどもなかったのだ。初めて身体を重ねたときは、こうなるのが必然だったのだと実感するほど、ぐずぐずに溶けて、空と海の地平線のように、境界など分からなくなった。今まで抱えたことのない感情で身体中が満たされて、とかく胸が震えた。実際ゾロ相手に、似たようなことを告げたことさえある。そうだ、言ったじゃねェか。おれの運命の相手はおめェだったんだなァ、とかなんとか、浮かれるあまり、つい出てしまった発言だ。 「うわあ……」 そのときのゾロも、バカバカしいと心底呆れているような顔をしていた。自己嫌悪からたまらない気持ちになったサンジは、両手で顔を覆い、身を小さくする。鼻先を赤い糸が掠めて、鬱陶しいことこの上ない。往生際悪く、ぶんぶんと手を振るも、今更そんな簡単に糸が解けるわけもなかった。 「クソッ、どうやったら消えんだよ。これ」 「あら、消したいの?」 「おれにはこんなもん必要ねェ」 強情ねえ、そう言ってからオカマは、まあ嫌いじゃないけどね、と続けざまにウインクをかましてきた。結局、風呂に入って洗い流せば消えるという至極簡単な結果に肩を落とすサンジだったが、再び気合いを入れ直すため、思いきり両頬を張り、おもむろに立ち上がった。 こうなった現状は、何も運命なんかじゃない。ただ、おれが弱いからだ。あそこでくまの野郎を倒していたら、こんな島に飛ばされることも、ゾロを目の前で失うことも、ルフィを一人で戦わせることもなかった。うかうかしてはいられない。今できることを、この二年、がむしゃらにやるしかないのだ。 サニー号のキッチンは、記憶の中と何一つ変わっていなかった。しかし、心が浮き立つよりもまず、サンジの中では絶望が顔を出す。重苦しい心地でシンクへ両手をつくと、深々とため息を零した。サンジの小指には今、忌々しい赤い糸が巻きついている。さっさと風呂に入って洗い流してしまえばいいのだが、何より船長が腹を空かせて待っているのだ。空腹の仲間たちを放って、シャワーを浴びるわけにもいかない。今なら、シャボンディ諸島で買い込んだ食材によって、冷蔵庫も食糧庫も潤っている。なんだって作ってやれる上、カマバッカで習得したバイタルレシピの数々を披露するのを、サンジ自身楽しみにしていた。しかし、そんな気分は魚人島へ向けて出航して、早々に散っていった。 こうなった元凶も、相変わらず厄介なオカマの存在だ。シャボンディ諸島に上陸する寸前、サンジへ熱心な想いを向けるキャンディの一人が、例の香水を不意打ちで振りかけて来た。わたすとサンジきゅんは運命の赤い糸で結ばれているから、恋しくなったらいつでもこの糸を辿ってね、という乙女心からくる親切心らしい。余計なお世話だ。無論、キャンディへ糸が繋がっているわけもなく、内心ホッとしていたサンジだったが、正直に言えば、これでゾロが迷子になって諸島へたどり着けなくとも、すぐに見つけることができると浮かれていた。バカバカしいと吐き捨てていたものの、二年もオカマたちと過ごしたせいで、知らぬ間に夢見がちになっていたのかもしれない。この赤い糸は、ゾロへ繋がっていると信じてやまなかったのだ。 再会した暁には、まず抱きしめて、聞きたいことも言いたいことも山のようにあったはずが、とかく無事でいてくれたことへ胸がいっぱいになった。浮かれるあまり、赤い糸の存在などすっかり頭から追いやっていたサンジだったが、ゾロの気持ちが変わっていないことを、つい先刻実感したばかりだ。 麗しく成長したナミを見て、輸血が必要になったサンジの傍を、ゾロはどうしてか離れようとしなかった。無言で酒を飲み続けているだけではあったが、とっくに気持ちが離れているのならば、わざわざこうして寄ってくる理由がない。たぶん互いに、二年分の距離を計り兼ねていた。それもそうだろう。船を離れていた期間は、気が遠のくほど長いものだった。一般的に、心変わりするには、十分すぎる時間だ。どちらかが動かない限り、このじれったい関係がしばらく続くのだと思えた。それも悪くはないが、褪せることのない想いを抱えたまま、恋人と再会したとすれば、触れたくて仕方がないに決まっている。 「心配してくれてんの? マリモくん」 そう言ってからサンジは、芝生についているゾロの手へ、のろのろと腕を伸ばした。骨と血管が浮き出た男らしい手の甲を指でなぞり、手首へ触れる。それだけで、たまらない気持ちになった。しかしそのとき、芝生の上に伸びる赤い糸の存在を、視界の端で捉えたのだ。慌ててゾロの手首を掴み、その手を眼前へと晒したサンジに、ゾロはうおっ、と間の抜けた声を上げる。小指を凝視するが、そこに糸の姿はない。しばらく呆然としていたサンジだったが、意を決して、酒瓶を掴む反対の手にも視線を送った。しかし、サンジの小指から伸びる赤い糸は、無情にも甲板を越え、コーティングされたシャボンさえも通り抜け、深海の底で見えなくなっていた。その瞬間、血の気がさっと引いていく。二年前と同じように、バカバカしいと吐き捨てることは、到底できなかった。 「おい、コック……?」 輸血のパックが三分の一ほどに減り、やっと血色が戻ってきていたサンジの顔が、再び青く染まる。ゾロは手を握られたまま、驚いたようにサンジの顔を覗き込んだ。ただでさえ、血が足りていない状態だった。頭が靄がかったようにぼうっとし、不安げなゾロを安心させることもできず、視界は霞んでいく。チョッパーを呼ぶゾロの声が聞こえると同時、サンジは意識を手放した。我ながら、ここまでショックを受けるとは、思ってもみなかった。 次に目を覚ましたとき、ゾロの姿は見えなくなっていた。サンジはしばらく芝生へ横たわったまま、のろのろと視線だけを漂わせる。仲間一人一人に目を向けてみるが、誰の小指にも赤い糸は見当たらない。ゾロ以外の野郎に繋がっているとすれば、それはそれで大問題だが、ルフィの元にも向かっていないことには、多少なりとも衝撃を受けた。ともすれば、ナミやロビンの小指へ例の糸が見当たるわけもなく、サンジは絶望感を味わう。こんなもの、ただのオモチャだ。オカマ共の願望を具現化しただけに過ぎない。初めに覚えたバカバカしいおとぎ話という感情で、何も間違っていないはずだ。腹が減ったとルフィが突進してくるまで、サンジはそう言い聞かせ続けることしかできずにいた。 ある程度の時間を経ても脳内は纏まらず、ぐちゃぐちゃに掻き乱されたまま、これから作るレシピの整理すら覚束ない。乱暴に髪を掻き乱すと、サンジは一人呻き声を上げた。ゾロとの関係が運命でないのだとすれば、互いに別の相手がいるということだ。この先、運命の相手と出会った途端、ゾロはサンジの存在を煩わしく思うようになるのかもしれない。傷つくのは目に見えていて、この先どうせ別れがくるのなら、今のうちに断ち切っておくべきだろう。二年ぶりの今、リセットするには好都合だ。理性はそう訴えかけてくる。しかし本能は、確然と浅はかな考えを否定していた。 そのとき、芝生甲板から、迷いなく階段を登ってくる者の気配を感じ取った。脳裏にぼんやりとその姿が浮かび上がり、サンジは慌てて背筋を伸ばす。毎日、強くなることだけを考えていた。その結果、会得した覇気の一つは、たまにこうして、知りたくないことまで教えてくれる。三本の刀を差した人影は、ぴたりと扉の前で立ち止まった。いよいよキッチンの扉が開かれ、サンジはゾロを一瞥する。サンジの小指から続く赤い糸は、やはりゾロとは真逆の方向へ伸びていた。 「なんだおめェ。まだ何も作ってねェのかよ」 「……悪い」 素直に謝ったサンジへ向けて、ゾロは訝しげに片眉を上げた。簡易のワインセラーから酒を引き抜くと、サンジの対面になるカウンターへ腰をかける。コルクを歯で引き抜き、美味そうに酒を呷ってから、頬杖をつく。飲み切れずゾロの顎を伝った水滴が、胸元まで滴る様を、サンジは無意識に目で追っていた。ごくりと生唾を飲んだとき、ゾロが射抜くようにして、上目でサンジのことを見遣った。 「ロビンがサンドイッチ食いてェって」 「あ、ああ。サンドイッチ……そうだな、サンドイッチにするか……」 のろのろと冷蔵庫に向かって、サンジは呆けた頭で鍵を回す。縮こまった背中へ向けられるゾロの視線を、痛いほど感じた。訝しむのも当然だろう。いつもならゾロへ簡単なつまみを出してやるところだし、ロビンからのリクエストとなれば、小躍りしながら調理を始める。しかし、そんな気分にもなれず、明るく振る舞うこともできぬまま、サンジは淡々と鍋を取り出し、コンロに火をかけた。 「まだ血が足りてねェんなら、チョッパー呼ぶか?」 「いや、いい。大丈夫だ」 いつもなら無心になれる料理も、今や上の空だ。ゼフがこの場にいれば、確実に蹴り飛ばされているだろう。こんな料理を客が喜んで食うと思うか、そう怒鳴られるに違いない。サンジはその想像にハッと息を呑む。仲間たちへ食わせる飯を、こんな気持ちで作るのは、サンジ自身耐えられない。一度点けたコンロの火を消すと、その場で項垂れる。考えても考えても、答えは出なかった。そんなときにかけられたゾロからの気遣いの言葉が、サンジの涙腺を刺激する。 「すぐ飯にするからよ、とりあえずおめェ鍛錬でもなんでもしてこいよ」 「いやだ」 「一人になりてェつってんだよ。空気読め、クソマリモが」 「なんでまた好き好んで、てめェから離れなきゃなんねェんだ」 拗ねたようなゾロの言葉に、サンジはたまらず振り返った。垂れてきた鼻水を啜り、下唇を噛み締める。そんなサンジの表情を見たゾロは、ぎょっとして、たまらず身を引いていた。 「……なんで泣いてんだ、お前」 「な、泣いてねェ!」 情緒不安定すぎるぞ、苦虫を噛み潰したような顔をしながらも、その中に戸惑いと僅かな懸念が含まれていることを顕著に感じ取り、サンジはまた鼻を啜る。いずれ傷つくのが分かっていながら、この関係を続けていくのが怖い。ゾロへの想いに気がついてすぐ、諦めてその感情に蓋をしたのだって、傷つくのが嫌だからだ。最初から放棄してしまえば、傷は浅く済む。いざというとき、ガキの頃と同じ臆病さが顔を出す。サンジの中で膨れ上がった傷の数々は、いつまで経っても癒えることなく、心の底で膿んでは膨れ上がり、図太く鎮座していた。傷が増えるほど、忘れたくない思い出まで、侵食されてしまいそうで恐ろしかった。どうせ終わるものならば、キリのいいところで、きれいな思い出のまま、残しておきたい。 「お前さ、不毛だとは思わねェのかよ。このまま続けたところで結婚もできねェし、ガキも作れねェんだぞ。それにどうせ、お前に運命の相手が現れたら、おれが邪魔になるに決まってる!」 「その台詞、女に鼻血ばっか噴いてる野郎に言われるこっちゃねェな」 サンジは目尻に溜まる涙を乱暴に拭い、ゾロのことをきつく睨みつけた。確かにサンジは女が好きだ。だが、ゾロへ向かう感情は、あんなに甘ったるく生易しいものではない。現に、まやかしだと分かっていても、赤い糸が繋がっていない、ただそれだけのことで、この体たらくなのだ。 「赤い糸が……」 「あァ?」 「おめェと、繋がってねェ……」 ゾロは酒瓶から手を離すと、腕を組んで丸きりバカみたいに首を傾げた。頭上には分かりやすくクエスチョンマークが浮かんでいる。突然こんなことを言われても、ワケが分からないのは当然のことだった。両手を握り締め、身を震わせるサンジへ向けて、しばらくしてからゾロは、小バカにしたように鼻を鳴らす。 「頭湧いてんのか」 「クソ想像通りの反応をどうも!」 サンジはふたたび目尻に涙を浮かべ、半ばやけくそでゾロに全てを打ち明けた。サンジだって、バカバカしいのは承知の上だ。互いに別の相手へ気持ちが向かうかもしれない。そんな未来が見えた瞬間、とかく背筋が凍る思いをした。ゾロと想いが通じ合ったあのとき、これ以上の幸福はもうないと、本気で思った。それを上回る何かが待ち受けていたとき、心変わりせずにいられるのだろうか。要は、サンジ自身、この気持ちが薄れていく未来が怖いのだ。結局はゾロに傷つけられるより、ゾロを傷つけることになることが、恐ろしくてたまらなかった。 ゾロは黙って話を聞き、何もかも見透かすような眸で、サンジのことをまっすぐに射抜いていた。それがまた恐ろしく、嬉しくもある。ギラギラと光るその眼差しから、ゾロの感情が如実に伝わってきた。二年前のサンジと同じく、バカバカしい、と一刀両断してみせるのだろう。 「おめェに見えてる赤い糸ってのァ、どこにあんだ」 「へ?」 だが、ゾロの口から放たれた言葉は、サンジの予想とはまるで違うものであった。おもむろに立ち上がったゾロは、気怠げに伸びをして、鷹揚にそう問いかけてきた。サンジは首を傾げながらも、素直に小指から垂れ下がる赤い糸を指でつまみ上げ、ここ、と力なく告げる。ゾロは、まじまじとそこを眺めたあと、口端を上げ、刀の柄に手をかけた。 すると、サンジが気がついたときすでに、眼前へ刀の切っ先があった。いくつか前髪が切れたようで、目の前をはらはらと金の糸が舞っていく。その様子をどこか他人事のような心地で見据え、サンジはのろのろと顔を上げた。そうして、不敵に笑うゾロと目が合った瞬間、嫌でも我に返るというものだ。 「てっめェ! 殺す気かァ!」 「ぶった斬ってやったんじゃねェか。感謝しろよ」 刀を下ろし、得意げにふんぞり返るゾロから、サンジは手元へ視線を落とす。何をやっても解けることのなかった強固な糸が、たかが刀一本で斬れるわけがない。そう思っていたのだが、サンジの小指から繋がる糸は途中で途絶え、今やどこにも繋がっていなかった。呆然とそこを眺めていれば、まさか本気で斬れたのか? そう言ってゾロは、大口を開けて笑い出した。なんだこいつ、見えてもねェものまで切れちまうのかよ。バケモンか。ゾロにつられ、サンジの中でふつふつと笑いが浮かび上がる。赤い糸を手放し、ゾロと目が合った瞬間、たまらず吹き出してしまった。 「悩んでたおれがバカみてェじゃねェか」 「バカなんだろ。運命やら赤い糸やら、全部おれがぶった斬ってやる」 そのための二年だ。そう続けて、あのオカマとはまた違う、獣じみた眼光でゾロはサンジのことをまっすぐに見据えた。それにサンジも、口の端を上げて応えてやる。今すぐ目の前の男を抱きしめてやりたいところだが、煙草を咥え、腕まくりをした。まずは腹拵えが先だ。踊るような手つきで、サンジはふたたびコンロの火を灯す。その様子をゾロは満足げに見遣り、大人しくカウンターへ腰をかけると、また酒を呷り出した。 サンジの小指から伸びる短い糸は、途切れたまま、ゆらゆらと揺れている。それが、ゾロへ通じることはない。だが、ゾロの手によって、運命なんてどうとでも塗り変えられるのだと、教えられたばかりだった。誰に向けてかは分からない。赤い糸の伝説を作った先人か、運命を司る神とやらか、はたまた元凶のオカマへかもしれないが、サンジはくそったれ、とすべてに向けて中指を立てた。 |