恋愛2



 サンジのレストランは、本当に海の中にあった。見渡す限り、そこには水分しかない。先程見たばかりの海とは、また違った印象を受ける。世界の大半は海なのだと、もう十数年も前に授業で習った気はするが、海がない場所に暮らしていては、お伽話でも聞いているような気分だった。今になって、ゾロはそれを実感している。手が届く位置にある水面からは、独特な香りが漂ってくる。塩辛いようなそれを、肺いっぱいに吸い込み、荷物を持ってレストランの中へ入った。二階が自宅になっているようで、ビニール袋をがさがさと言わせ、ゾロは大量の荷物を手に、サンジの後を着いて階段を上っていく。
 住み込みで働いているコックが多いらしく、部屋は余っていないのだという。サンジが村の老人皆に好かれる理由は、この大所帯で過ごしてきた結果なのかもしれない。どこか、落ち着かない様子のサンジに部屋へ通されて、ゾロは荷物をカーペットの上に置いた。もう、レストランが開店するまでも、そう時間がない。サンジは忙しなく、制服なのであろうスーツへと着替え始めていた。
 手持ち無沙汰な心地で、ゾロは部屋を見回すと、べッドの上に置かれている、巨大なぬいぐるみへ視線をとめた。ピンク色の帽子を被った、たぬきのようなキャラクターは、くりくりとした目に、青い鼻を携えている。随分古くからあるものなのか、ところどころが毛羽立ち、色は剥げ、汚れも見えた。どことなく、そのぬいぐるみの顔立ちが、チョッパーに似ている。
「まだぬいぐるみと寝てんのか。チビナス」
 揶揄するよう口端を上げたゾロを、サンジは拗ねたように睨みつけた。ジャケットを羽織り、ネクタイを締めたあと、テーブルに置かれている煙草を手にし、ライターで火を点ける。
「……チョッパーマン」
「あァ?」
 小声で呟かれたその声は、ゾロの耳に一度では届かなかった。罰が悪そうなサンジへ向けて、目を瞬かせたゾロは、チョッパーという名と、十年前のサンジの言動を思い出し、溜飲を下げた。
「確かに、似てんなァ」
「だろ! ガキの頃にさ、ジジイにねだって買ってもらったんだよ」
「へェ。トナカイには見えねェがな」
「よく覚えてんなァ」
 確かに、言われてみれば、サンジと過ごしたたった一週間と数日のことは、よく覚えていた。興味のないことはすぐに忘れてしまう性質のはずが、珍しいとは思う。その日々がきっと、ゾロが感じている以上に、楽しかったのだ。徐々に薄れていく、くいなとの思い出は、もがいたところでどうにもならなかった。
 外す理由がないということもあり、ゾロは左手の薬指に指輪を嵌めたままだ。サンジは何も言わないが、気にしていないわけではないのだろう。このまま、何も言及せず、それでもロづけをするなどと、こんな関係のままでいいわけがない。およそ半年ぶりの再会を、ゾロは顕著に喜んでいる。今の時点で、それはまぎれもない事実だった。
 サンジは灰皿にまだ長い煙草を押しつけ、下で飯食ってけよ、とゾロを促した。ゾロのためにスべシャルコース作ってやるぜ、笑うサンジにはっとして、楽しみだと笑みを浮かべた。村で採れた野菜を手に、サンジは作り甲斐があると、笑みを零している。
 ごちゃごちゃと、答えの出ないことを考えるのは、割に合わない。ゾロは眉を寄せ、階段を下りるたび、目の前で揺れる金糸を意味もなく眺めていた。くいなのときは、もっと普通に、行動できたはずだった。


「どうだ?」
「すげェうめェ」
 レストランは、開店して一時間もすれば満席になった。新たな料理を運んできてくれたサンジへ、素直な感想を告げ、メニューにはない、新鮮な海の幸とゾロの村の野菜を豊富に使った料理を、次々と平らげていく。満足げに笑ったサンジは、コックもウェイターもこなしているようだった。客に呼ばれ、広い店内を歩き回るその姿を、無意識に目で追っている。
 女の客が来るたび、サンジはでれでれと鼻の下を伸ばしていた。その姿を、頬杖をつきながら眺めるゾロは、自身の唇が不機嫌に尖っていることも理解している。どうやらサンジは、とんでもない女好きらしい。今までそれに気がつかなかったのは、村には女と言っても、老人しかいないからなのだろう。若い女が好きなのか。それは至極当然のことだと理解しているが、じゃあどうしてだと、ゾロは思う。
 レストランのコックたちは、ガタイがよかったり、人相が悪かったりと、変わった連中が多かった。そのためか、客の中にも明らかにかたぎではない人間も多々見られた。海の中にあるため、船乗りも立ち寄ることが多いようだ。ドレスコードの者もいれば、近所を散策するような格好の客もいる。変わった空間だが、その心地よさは、ゾロも身をもって感じていた。
 そのとき、背後から伸びてきた手で、突然唇を摘まれて、ゾロはむっと膨れたまま、後ろを振り返った。ゾロに対して、こんなことをする人間は、この中には一人しかいない。
「なに機嫌悪くなってんだ?」
「てめェが女にへらへらしてんの見てたら腹立ってきた」
「なっ……」
 思ったままを告げた瞬間、サンジの手が弾けるように唇から離れていった。ここへ来て変わったことと言えば、サンジが躊躇なくゾロへ触れてくるようになったことだ。つい半年前は、窺うような態度ばかりを見せていた。あの日、ゾロの身体の隅々まで、余すことなく触れてきたときでさえも、戸惑うような、何かを確かめているような、そんな手つきだった。
 サンジはごまかすようにして、ゾロの背後で立ったまま、デザートを置き、空いたグラスへシャンパンを注ぎ入れた。腹もちょうどいい具合に膨れていて、料理も酒も、抜群に美味い。ぱちぱちと炭酸の弾ける酒を傾けたとき、客足も落ち着き始めた店内に、また来客が訪れた。扉が開ききる前に、サンジはゾロの元を離れ、客を案内しに向かう。その背中を視線で追い、客が姿を現した瞬間、スーツの下に隠されたサンジの全身が、一様に強張るのが見て取れた。ゾロは頬杖をつき、そんなサンジの様子を窺う。
 客へ視線を向けてみれば、背の高い、それでいてよく鍛え上げられた肉体を持つ、白髪の男がいた。確かに、人相がいいとは言えないだろう。自分のことは棚に上げて、ゾロはふたたびシャンパンを呷った。もう一人、女が一緒に入ってきたが、サンジの身体に隠れ、顔までは確認できない。サンジは、その間にも気を取り直したのか、変わらない態度で接客を始めた。
 ゾロもそれ以上気に止めず、ケーキなのか、パイなのかもよく分からないデザートを、フォークで一刺しにする。サンジは、ナイフも一緒に持ってきたが、ゾロには上手く扱えず、殆ど使わずに食事を済ませていた。一度、くいなに気取ったレストランへ連れて行かれたときも、ずいぶんとバカにされた。とかく、くいなは気が強く、ロうるさかった。そういうところは、サンジも似ているのかもしれない。
 すぐに崩れる脆い生地がうっとうしく、ゾロは一口でケーキのようなパイのようなものをロに入れた。甘いものを好んでは食べないが、さくさくとした歯触りのいい生地の食感は悪くなく、素直に美味いと感じる。サンジが置いていったシャンパンのボトルを手にすると、グラスの中にそれを注ぎ足した。
 先程の客は、ゾロの座る場所から、一番離れた席へと案内されたようだ。厨房へ戻るサンジの顔には、どこか困惑の色が伺えた。女のほうは、ゾロに背を向けている。白髪の男とその女が談笑する姿からは、これといって嫌な印象は受けなかった。そういえば、サンジが客の女を褒め称えなかったのは、これが初めてだと、少々疑問を覚えた。
 ボトルの中のシャンパンを、全てグラスへ注いだとき、サンジがゾロの元へ向かってくるのが目に入った。先程の浮かない顔とは違い、貼りつけたような、愛想笑いを浮かべている。
「腹は膨れたかよ」
「おう。うまかった」
「どうする、先上行ってるか? 風呂入ってもいいし、寝ててもいいけど」
 いつもなら、うまいと言うたび、顔を綻ばせるサンジが、急かすようにそう続けた。やはり違和感を覚えるが、ゾロは微かな睡魔を眼孔の奥に感じ、そうするかと、残りのシャンパンを飲み干す。本当よく飲むな、ゾロの様子に、サンジは呆れたような、しかしまだ困惑を隠せぬような苦笑を零している。
「きゃあっ」
 先程まで、ゾロが視線を向けていた方向から歩いてきた女が、サンジの背後を通ろうとした瞬間、何もない床の上でつまずいた。悲鳴を上げて、思いきり転倒した女は、したたかに顔面を打ちつけている。かなり痛そうだ。サンジもゾロも、たまらず顔をしかめた。ゾロの足元まで転がってきた眼鏡を拾い上げると、女は顔を押さえ、起き上がった。サンジは慌てたように、大丈夫ですか? と女の肩へ腕を回し、声をかけている。
 ショートカットで黒髪の女は、サンジの態度がおかしくなった原因であろう客の一人だった。眼鏡、眼鏡、そうロにしながら、床に手を這わせる女へ声をかけると、ゾロは手にした眼鏡を差し出した。その瞬間、どうしてかサンジが慌て始め、しかし、転んだ女を無碍にはできないのか、起き上がるため、わざわざ手を貸している。
「ありがとうございます。すみません」
 慌てて頭を下げる女が、顔を上げたそのとき、ゾロははっきりと目を疑った。女は眼鏡をかけ、もう一度二人へ向けて頭を下げる。ゾロが呆然としていると、女はふたたび顔を上げ、まじまじとゾロの顔を見据えてきた。その間、ゾロは微塵も動くことができず、くいなに瓜二つの女を、ただ網膜に反射させていた。
 サンジが動揺していた意味が、やっと分かった。サンジも写真越しとは言え、くいなの顔を知っている。ゾロには気づかせまいとして、必死だったのだろう。サンジが女へ気遣う言葉を投げかけながら、不安げにゾロへ視線を向けた。それに気がつくと同時、ゾロは知らず背筋を伸ばす。
「あのっ、あなたもしかして、ロロノア・ゾロさんじゃないですか!?」
 興奮したように声を上げた女が、突然ゾロの名を呼んだ。ゾロと同じように、サンジも驚いたようで、ぽかんとロを開けている。まるで波が漂うように、その眸の海も、大きく揺れていた。
「ゾロ、知り合い?」
「いや……」
 サンジがゾロと女を交互に見遣り、困惑を隠せぬまま、そうなんだと、小声で頷いた。すると、慌てたよう女が頭を下げ、ロロノアさんは私のことは知らないと思います、口早にそう言って頬を紅潮させている。くいなと瓜二つのその女だが、どうやら性格はまったく違うようだった。ゾロは髪を掻き乱し、同様に乱れる心を、無理に落ち着けようとして息を吐いた。
「どっかで、アンタと会ったことあんのか」
「いえ、あの、私もずっと剣道をやっているんです! 剣を嗜む人間に、あなたのことを知らない人なんていませんよ」
「ゾロって、そんなに有名なんですか……?」
「もちろんです! 出る大会全て優勝、そしてあの大剣豪を負かせた方ですから!」
 興奮冷めやらぬといった具合で、声高にそう話す女に、サンジはどこか強張った様子で相槌を打った。ゾロはそんなサンジの機微を眺め、先程シャンパンを飲み干してしまったことを、とかく後悔していた。
 今更、剣道の話を持ち出されたところで、ゾロの胸の内には、昔のように熱い思いが込み上げてくることはなくなっていた。そもそも、剣道を始めた理由は、くいなの存在があってこそのものだ。大剣豪になると決めたのも、くいなとの約束からだった。ゾロが、初めて会ったときのサンジと同じ歳の頃、生まれて初めて敗北を知り、もうこんな思いはしたくないと、必死で足掻いていた。くいなに勝つことが、ゾロに唯一、芽生えた目標だった。
 だが、ある日くいなが放った言葉によって、その目標は忽然と絶たれてしまったのだ。それからは、がむしゃらに大剣豪である鷹の目のミホークを倒すことを目指した。くいなも剣道は続けていたが、ゾロのように、自分が一番になる未来を、明確には描いていないようだった。己の限界に、気がついていたのだろう。日々女として成長していく、そんなくいなの姿を見るのが嫌で、ゾロはあの村へ逃げたも同然だった。自分の感情を認めたくなかったのだと、この歳になって分かる。まさかその後、くいながゾロを追いかけて、あの村へ移り住むとは思ってもみなかった。
「あの、不躾なお願いですが、一度手合わせしてもらえませんか。これでも海軍の曹長です。腕に自信はあります」
「悪ィが、無理な話だ」
 ゾロが、軽く女をいなせば、女は更に頬を染め、眉を吊り上げた。何が気に障ったのか、拳をきつく握り、何か躊躇うよう唇を噛み締めている。
「私が……女だからですか」
「あァ?」
 その一言で、腸が煮えくり返る思いがした。そんなゾロの様子に気がついたのか、サンジが咎めるようにして、ゾロの名を呼ぶ。くいなと同じ顔で、こいつは、くいなと同じことを言うのか。ただただ、腹が立った。くいなはあの日から、ゾロと一度も剣を交わそうとはしなかった。それを、この女は一切の躊躇もなく、簡単に飛び越えようとしてみせるのだ。女であることの苦労は、男のゾロには、理解できるはずもない。
「てめェの存在が気に食わねェ」
「なっなんです、その言い草は!」
「それにおれァ剣道は止めたんだ。てめェと勝負する筋合いはねェな」
「そんなっ、剣道を止めるだなんて……! あなたほどの人がどうしてですか!?」
 ゾロは眉尻を上げ、てめェにゃ関係ねェと、女のことをきつく睨みつけた。こんなにも腹が立ったのは、初めてのことだった。八つ当たりだとは分かっていた。脳裏には、くいなの姿が、走馬灯のように浮かんでは消えていく。もう、くいなはこの世にいないのだ。どうしてあのとき、守ってやれなかったのだろう。そんな後悔はしても無駄だと、胸の内に閉じ込めてきた。それはゾロ自身、よく自覚している。その一部をサンジの手によって抉じ開けられ、見ず知らずの女のせいで、思い起こされた。
「おいたしぎ! 飯来てんだ、さっさと便所行って来い!」
 男の怒鳴り声が飛んできたかと思えば、背後の女が慌てて背筋を伸ばした。
「す、すみません、スモーカーさん」
 たしぎ、そう呼ばれた女は、トイレへ向かって小走りで駆け出した。鈍臭いその姿は、やはり、くいなとは似ても似つかない。すると、思い出したように足を止めたたしぎは、睨みつけるようにしてゾロを振り返った。
「ロロノア・ゾロ! あなたが剣道を止めたなんて絶対に嘘です。いつか絶対に、私が負かせてみせますから!」
 それだけ言って一礼すると、たしぎはトイレへと続く扉の中に姿を消した。知らず、肩に力が入っていたことに気がついた瞬間、居心地の悪さは増していった。生温い睡魔など、とっくに立ち消えてしまっている。痛いぐらいのサンジの視線を受け流し、ゾロは立ち上がった。
「チビナス」
「あっ……な、なんだ」
「上行ってる。風呂借りていいんだろ?」
「そりゃ……」
 サンジの返事を待たず、二階へと続く螺旋階段へ向けて歩き出した。サンジは一度ゾロの名を呼び、引き止める仕草を見せたが、それ以上の言葉は出てこないようだった。
 階段を上る最中、立ち尽くすサンジのことを見下ろした。だから、なんでお前が泣きそうな顔してんだよ。喉元まで出かかったその台詞を、既のところで呑みこんだ。これを言ったら、サンジは本当に泣くのだろう。サンジの涙に弱いのだということは、とっくに気づかされている。こいつはきっと、おれ以上にこのことを、気にかけているに違いないのだ。





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