網膜に溺れる



(海賊 二年後)



コーティングしたサニー号で深海に入ったはいいが、魚人島に着くまでは、まだしばらく時間を要するらしい。珍しい深海魚や、見渡せどどこまでも青に包まれた景色以外、海の中は別段、真新しいものは何もなかった。
一度漁船と間違えて乗り込んだ船の中で見た光景だということもあり、ゾロは早々にそれらに飽きると、途端に睡魔に襲われた。ゆっくりとまたたきをして、ウソップやチョッパーとバカ騒ぎをしているルフィの、揺れる麦わら帽子へと視線を向ける。
まるで間違い探しのように、以前と変わったところはないか、なんとなく探してみる。もしかしたら、身長ぐらいは伸びているのかもしれない。顔つきは二年前とそう変わっていないように見える。そうして、胸から腹にかけて広がる巨大な傷口を認めたとき、ゾロは目を細めて芝生の上にごろりと横になった。
少し離れた場所で、同じように芝生に転がっているサンジはというと、鼻血の噴きすぎで身体の血が足りなくなったらしい。大量の輸血パックに視線を向けて、相変わらずアホばっかりだな、とゾロは自らの腕を枕に大きく欠伸をした。
思考がぼんやりと霞み出したとき、白目を剥いた、海王類と見紛うほどの巨大な深海魚が船の真上を通過する。焼いて塩でも振ったらうまそうだ。ルフィが巨大な魚を前に喜ぶ姿まで想像している間に、徐々に眠りの淵へ誘われていった。


腹の上にずしりとした重みを受け、ゾロは眉を寄せる。邪魔なことこの上ないが、今はそれよりも睡魔の方が勝っており、瞼を開くほうが億劫だった。ほうっておけばいつかは退くだろうと思っていたが、それは一向に動く気配を見せず、さすがのゾロも重い瞼を無理に持ち上げた。
「邪魔だ、ルフィ」
あまりにも近くにあったルフィの顔にぎょっとして、思わずその顔を押しのける。当のルフィはむくれた顔をしていて、何も答えようとはしなかった。そこから何か拗ねているだろうことは察したが、おれァ何もしてねェぞ、とゾロは首を傾げる。
ルフィはゾロの腹の上に跨がったまま、上体だけを起こし、麦わら帽子を深く被り直した。そのせいで、むくれたその表情も見えなくなってしまう。
甲板に両肘をつき、同じようにゾロも起き上がろうとしたが、途中でルフィに肩を押さえつけられてしまった。中途半端に上体を起こしたまま、ゾロは動きを止める。むりやり起き上がることは可能だが、そうすればますますルフィの機嫌を損ねるのだろう。
「どうかしたか」
「ゾロ」
二年経っても、腹の傷以外何も変わっていないと思っていたルフィが、少しだけ大人びた声を出した。甲板に両腕をついたまま、ゾロはまじまじと目の前の顔を覗き込む。まるで聞いたことのない声色で、ルフィにもう一度名前を呼ばれる。それから、ルフィは麦わら帽子を少しだけ上へ押し上げた。絡んだ視線からは何も読み取れず、どこか意地になってゾロはルフィの目を見据え続ける。
いつものことではあるが、ルフィの考えが全く読めずにいると、突然両頬を掌で覆われた。ゾロは文句を言おうと口を開いたが、徐々に近づいてくるルフィの顔に、思わず閉口する。鼻先が触れたかと思えば、左目の縁をゆっくりと指の腹でなぞられた。どこかためらうようなその仕草にゾロは眉を寄せる。
眼球の形を確かめるように、瞼の上をルフィの指が動く。それだけかと、どこかで落胆している自身を恥じながら、ゾロは視線を泳がせた。二年ぶりだ。そういう期待をしたって、仕方がないだろう。
「もう、開かねェのか」
「…ああ、」
ルフィの機嫌の悪さはこれか。納得したと同時に、ゾロはため息を零し、不躾に頭を掻いた。きっと、何か言われるだろうとは思っていた。しかし、シャボンディ諸島を出航してからすぐ、二年の間どこにいたのか聞かれたときは、それ以上言及されることもなかった。そのため、ルフィにとっては、別段たいした問題ではないのだろうと一人納得していたのだ。拍子抜けすることにはしたが、それはそれで楽でいいと考えていたため、ゾロにはますます面倒に感じる。
ルフィはゾロの額から頬にかけて、真一文字に伸びる左目の傷を、一通り指でなぞった。そうしてから今度は、勢いよくその身体に抱き着いてきた。突拍子もない行動のせいでゾロの上体が傾ぎ、芝生の上へ逆戻りしそうになるのを、なんとかこらえる。
ただ拗ねているだけなのか、むうっと唇を尖らせるルフィの姿に、ゾロは口端を上げた。少しだけ、広くなったように感じるルフィの背中に腕を回すと、ゾロは宥めるようにその背筋を撫でる。

「…二年経っても相変わらずだなァ、おめェら」
つい先程まで、貧血で転がっていたはずのサンジは、煙草を吹かしながら、呆れたような視線を二人に寄越した。声には出さず、ゾロがうるせェと唇だけを動かすと、やれやれと大袈裟に肩をすくめられる。
野郎二人がいちゃついてるところを見せられる身にもなってみろ。げんなりした顔で言われるが、今さらだろとゾロは鼻で笑う。それから、あっちにいけと、サンジを追い払うような手振りをした。しかし、ルフィがはっとしたようにサンジを引き止めるような声を上げる。
「あ、おいサンジ! ゾロのこれどう思う?」
ルフィはゾロの首に腕を巻きつけながら、自らの首を後ろに逸らせ、サンジを見遣った。その声音は、やはり拗ねているように聞こえる。
麦わら帽子が重力に伴い、ルフィの頭から離れるが、首にぶらさげている紐のおかげで、それは落ちることなく背中に留まった。
ルフィの不満は、ゾロの目が開かないことに向けられているのか、それとも視力が失われたことに対してなのか、分からなかった。だがそれも、ルフィに不便があるわけでもない。何がそんなに気に食わないのだとゾロは怪訝に顔をしかめる。
両目をくれてやったわけでもあるまいし、馴れてしまえば、戦闘にも全く支障はない。
「これって、…それか?」
「そうだ!」
サンジは一瞬、考え込むように宙へ霧散する煙草の煙に目を向けた。かと思えば、不躾にゾロの左目を指差し、首を傾げる。その態度に多少苛つきはしたが、ここでケンカになるのも面倒だと、ゾロは唇を引き結ぶ。サンジは顎髭を撫でつつ、考え込む仕草を見せた。
「別にこれと言った感想もねェが、海賊らしくなっていいんじゃねェの? これならレディも怖がって近寄らねェぜ」
そうかァ? 首を傾げたルフィは、確かにゾロが女にモテるのは嫌だけどよ、とますますゾロへ身体を密着させた。しがみつくようにするルフィのせいで息が詰まる思いをしながら、ゾロはルフィの肩越しにサンジを睨みつける。この男はいちいち一言余計なのだ。
サンジは、そんなゾロに目もくれず、器用にハート型の煙を吐き出し、やに下がった顔を晒している。その姿から何を夢想しているのか容易に想像がつき、ゾロは呆れて肩をすくめる。
「だからって、てめェに近づく女がいるとは思えねェけどな」
「バカ言えクソマリモ! この二年で大人の魅力を身につけたおれの、右に出るもんなんかいねェ!」
いたとしても蹴り飛ばす! 声高に宣言して、ナミとロビンの名前を叫びながら、サンジはくるくると軽快に回りつつ甲板を進んでいった。ナミもロビンも、今はコートを着込んでいる。しばらくは鼻血の心配もいらないのだろう。そう思っていたが、何が琴線に触れたのか、サンジは真っ赤な鮮血を鼻から飛ばしながら、再び芝生の上へ身を預けた。チョッパーが慌てて駆け寄っている。
ゾロが哀れむような視線を送ったとき、あいつ相変わらずおもしれェな! とルフィは声を上げて笑った。その表情から少し機嫌が良くなったのが見て取れて、ゾロはこっそり息を漏らす。このまま有耶無耶に話が終わることをひそかに願っていた。あまり、進んで話したいことではない。

「んー、サンジはああ言ってたけどよ、やっぱり嫌なもんは嫌だ!」
「…一体なんなんだ」
ゾロの願いは叶うことなく、ルフィはゾロの首に回していた腕を片手だけ解くと、もう一度左目に触れた。また傷跡をなぞられ、ゾロはただ、為すがままにされている。
珍しく何か言いあぐねているルフィの答えを聞く前に、中途半端なままになっていた体勢を立て直そうと、上体を起こした。ゾロの腹の上に跨がっていたルフィは、自然と膝の上に乗る形になる。
ゾロはルフィの顔から腹へと視線を落とし、それに、と小さく呟いた。そうして、胸元から腹部まで罰印に伸びるルフィの傷跡に掌を這わせる。
「お前だって、似たようなもんじゃねェか」
それに、おれなんかよりもっと重傷だろ。眉をしかめて傷跡の縁に指先で触れる。ルフィの真似をして傷を辿れば、盛り上がった皮膚に指がつっかかり、なかなかスムーズに進まない。それでも、よほど腕のいい医者にかかったのか、縫合の跡はほとんどと言っていいほど残ってはいなかった。
ゾロの指先が胸の中央まで辿り着いたとき、交差している箇所の傷口を掌で覆う。
「全然ちがう」
「何も違わねェだろ」
ゾロが眉を寄せれば、ルフィに手首を掴まれて、傷口に触れていた掌をむりやり引き剥がされてしまった。手首を掴むルフィの手には力が込められ、加減のないその強さにゾロが顔をしかめると、ルフィもどこか神妙な顔つきで眉を寄せた。
「鷹の目に、やられたのか」
ゾロはその言葉にぴくりと眉を跳ねさせ、一拍置いてから、ああと肯定する。すると、ルフィは左目の傷をねめつけながら、ますます眉間のしわを深くした。
「何がそんなに気に食わねェ」
「だって、その目で最後に見たのは、鷹の目だったんだろ」
そう思ったらだんだん腹立ってきてよお、ルフィはぎゅうとゾロの背中に腕を回し、不安げにしがみつくようにした。胸元に額を擦り寄せられ、やっぱりただ拗ねているだけかと、ゾロは息をつく。何も言わず不躾にルフィの髪を撫でれば、ルフィは頬を膨らませながらも顔を上げた。
笑うなよ、そう言ってますます唇を尖らせる姿にゾロは耐えきれず喉を鳴らす。ルフィはうらみがましそうにゾロを睨みつけると、また胸元に顔をうずくめてしまった。やはり、二年経とうが何も変わってはいない。ゾロはひしひしとそう感じた。
「言っておくが……こうなって最初に思い出したのは、てめェの顔だぞ。ルフィ」
ゾロの言葉と同時に弾けるように顔を上げたルフィは、驚きに目を丸くして、まじまじとゾロの顔を見据えた。あまりの視線の近さにゾロが少しのけ反れば、体重をかけられて芝生の上へ逆戻りしてしまう。
ルフィは赤くなった頬を誤魔化すよう、麦わら帽子を深く被り直した。その表情からは、喜びが滲み出ている。
「にししっ、そっか!」
「おう」
「ゾロの目に映るのは、おれだけで十分だ!」
そういう自分は、おれ以外のものも映すくせに、そう考えれば、ゾロも少しだけ腹が立った。覆いかぶさるルフィを押しのけようとしたとき、おそるおそる左目に唇を落とされて、動きをとめる。にしし、と笑みを零し、それだけで顔を上げたルフィの首にゾロは遠慮もなく腕を回した。
二年ぶりだ。まさか、これだけで終わるわけではあるまい。ゾロから唇に噛み付いてやれば、やはりルフィは幸せそうに笑ったのだった。


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