初恋6



 朝になって、老人がじいさんの家まで送り届けてくれることになった。電話も借り、ゼフに現状を報告する。レストランの繁忙期が終われば、ゼフもこの村へ行くと言っていた。その間、お前に店を預けるぞと告げられて、サンジは身を引き締める。帰ったら、ゾロのことは忘れて、レストランのことだけを考えなければならない。
 開いた助手席の窓から流れ込む、澄んだ空気を一身に浴びた。長い前髪が風に吹かれ、はたはたと目の端でなびく。じいさんの家へ戻る途中、ゾロの畑の前を通った。もしゾロの姿を見れば、また思考の渦に飲み込まれてしまう。分かってはいるが、サンジはそこから、視線を逸らすことができなかった。顔をしかめ、通り過ぎる畑を見ていたが、ゾロの姿は見当たらない。ほっと胸を撫で下ろすも、やはりどこかで、ゾロの姿を見られることを期待していた。サンジは深々とため息を吐き、手動式のハンドルを回して、窓を閉める。
「ゾロの畑見てため息なんかついて、恋煩いか?」
「なっ、ばっ、んなわけねェだろ! アホか!」
 サンジは顔を真っ赤にして、老人に向かって唾を飛ばした。十年前、じいさんに似たようなことを言われたことがあった。そのせいで、ゾロへの恋心に気がついたのだ。一生、この想いに気づかずに生きていられれば、こんな気持ちになることもなかった。この村は食えねェジジイばっかりだ。サンジが悪態をつけば、老人は大げさに肩を揺らして笑っていた。
 じいさんの家の前に着くと、錆びた音を立てて、軽トラックのドアを閉める。礼を言い、車が見えなくなるまで、サンジは老人へ手を振り続けた。この村の人々とも、明日を境に、もう一生、会うこともなくなる。そう一考した途端、この村を出て行くのが、急に惜しくなった。サンジはそんな心情を振り払い、気合を入れ直すため伸びをすると、じいさんの家へ向かった。
 縁側の窓を全開にして、黙々と遺品の整理を続けた。ふと、窓の外へ視線を遣ると、庭の木に一匹の蝉が飛んでくるのが見えた。随分と低い位置に止まり、茶色い羽を震わせるが、声は上げない。鳴かない蝉は雄だったか、それとも雌だったか。そんなどうでもいいことを思案しながら、最後の荷物を分け終えた。
 額を流れる汗をシャツの袖で拭い、掃除をする前に一息つくことにする。縁側で煙草に火をつけた瞬間、先程飛んできたばかりの蝉が、空へ飛び立っていった。虫が苦手なサンジは、驚きに肩を跳ねさせたが、ゆっくりと煙草の煙を吐き出せば、次第に落ち着きを取り戻した。なぜだか、置いていかれたような気分になった。妙な考えを一蹴したそのとき、庭先へ誰かが入ってくるのが見えた。それは隣人のばあさんで、昼飯を差し入れに来てくれたようだ。隣家といっても、じいさんの家から、数百メートルは離れている。わざわざやってきてくれたばあさんに感謝しながら、素直におにぎりを受け取った。
 この村で食べる料理は、なぜだかとても胸にしみた。料理の腕を自負していたサンジだが、ゼフにまだまだヒヨっこだと言われる理由が、分かったような気がする。しばらくばあさんと立ち話をして、腹も膨れたサンジは、家中ぴかぴかにしてやろうと一人意気込んだ。掃除をしている間、料理をしているときと同じように無心になれた。久しぶりにゾロのことを思い出さずにいられる時間は、とても有意義に感じられる。これなら、明日村を出るときも、後ろ髪を引かれずに済むのではないか。そんなことを考えている時点で、ゾロのことを引きずっているのは確かだった。
 真っ黒に汚れた雑巾を洗面台で洗っていたとき、ふいに老人の言葉が想起させられた。
 ――お前なら、ゾロの心を解かしてやれるんじゃねェかって、そう思うんだよ。
 そんなことができるとは、サンジには到底思えなかった。気づけば、薄いシャツ一枚が重く感じられるほど、汗を掻いていた。一度シャワーを浴びると、濡れた髪のまま携帯を持って外に出た。数日、携帯に触れずにいることも久しぶりだった。やはり、電波は一本も立っていない。カメラを起動させ、畦道を写した。もう来ることのないこの村を、写真に収めるぐらい許されるだろう。
 昨夜、老人宅でアルバムを見なければ、写真を残そうなどとは思わなかった。もう夕方といってもいい時間だったが、夏のおかげか、太陽はまだ照りつけている。髪はすぐに乾いた。思い出深い土地へ足を運びながらも、意識的にゾロの家や畑は避けている。十年前、釣りをした川にも足を運びたかったが、そうするには、ゾロの家の前を通らなければならなかった。ゾロに会いたい気持ちと、会いたくない気持ちとが、サンジの中でせめぎあっていた。


 神社へ続く階段の前にやって来た頃には、携帯のバッテリーはひとメモリ減っていた。いつもよりゆっくりと、噛みしめるかの如く、ところどころ欠けて窪んだセメントで固められた階段を上っていく。踏みしめるように、この感触を忘れてしまわぬように、サンジは強く足を踏み出し続けた。靴底に踏まれ、擦れあう砂とコンクリートの音が、微かに響く。階段を上り切る頃には、また汗がシャツにシミを作っていた。額を流れる汗の粒を、おもむろに拭ったとき、サンジの視界には、一匹のたぬきが映った。
 たぬきは、地面で仰向けになっている蝉を見つめ、鼻先を近づけている。その先で、境内に腰をかけたゾロを見とめ、サンジは目を丸くした。ゾロも驚いたよう眉を上げている。すぐに視線を逸らすと、サンジは一言、おう、と挨拶をした。まさか、ここでゾロに会うとは、想定外だ。知らず全身に力が入る。ゾロからも、おうと、全く同じ言葉が返ってきた。
 動揺を隠せないまま、チョッパーの脇にしゃがみ込むと、携帯のカメラを向ける。シャッターを切る機械音に驚いたチョッパーは、びくりと身体を跳ねさせた。チョッパーの前足に蹴られた蝉の死骸が、地面を回りながら移動する。サンジは笑みを湛え、チョッパーに謝ると、無遠慮に頭を撫でつけた。少しばかり不服そうにしたチョッパーだったが、それでも、サンジの足元へ擦り寄ってくる。チョッパーのことも、この村と同じように、一生忘れることはないだろう。お節介な変わったたぬきが、こんなにも愛おしくなるとは、思ってもみなかった。
「チビナス、おめェ明日帰るのか」
 ゾロからの問いかけに、サンジは首肯した。チビナスと呼ばれるたび、すっと頭が冷え渡る。むりやりキスをしようと、いくら足掻こうとも、ゾロの中で、サンジはガキでしかない。ゾロはそれ以上何も言わず、サンジはただ、チョッパーを撫で続けた。うるさいアブラゼミの鳴き声が、切なげなひぐらしの声に変わる。ただ静かに、夏の息吹を感じていた。
 足元に橙色の影が差しはじめた頃、サンジはやっと立ち上がった。最後まで、迷っていた。ゾロに、言うべきか。十年分の答えが出たサンジは、境内へ身体を向ける。だが、ゾロに視線を向けることはせず、世話になったなと、静かに別れを告げた。
 十年前とは、まるで違うのだ。ここで想いを告げてしまうのは、ただのエゴでしかない。踵を返し、階段へ向かう。引き止められることを望んでいないと言ったら、それは嘘になる。だが、期待するたび裏切られてきた。そんな、女々しくもある己に一層辟易する。するとそのとき、ゾロが事もなげに声を上げた。サンジの心臓は、それだけで大きく跳ね上がる。
「お前の言葉の意味を、色々考えた」
 サンジは立ち止まり、ゾロの言葉を反芻させた。一気に鼓動が早くなる。喉が渇く。地面に足が張りついてしまったかのように、その場から動けなくなった。これ以上、この場にいれば、まずいことになる。
 ゾロはそれ以降口を閉ざし、サンジも何も言わなかった。まるで、サンジが振り向くのを待っているかのようだ。振り向いてやるものか。改めて決意した折、そんな空気を打ち破るように、蝉が悲鳴にも似た声を上げながら、一斉に木々から飛び立っていった。蝉が空を飛び、また他の木々に移るのを、咄嗟に目で追いかける。その下で、チョッパーが木に止まる蝉を捕まえようと、躍起になっていた。
 苦虫を噛み潰したような顔をして、サンジはチョッパーを見つめる。どうやらまた、助けられてしまったようだ。余計なお節介だと、文句の一つも言いたくなるが、サンジは自身を奮い立たせ、ゾロへ顔を向ける。すると、まっすぐ眸を射抜き返され、息を呑んだ。とりあえず座れと、ゾロは境内に手を置き、隣を示した。逡巡したが、サンジは大人しくそれに従う。やはり人一人分の距離を開けて、ゾロの隣へ腰を下ろした。
「おれには何も言わず帰るつもりだったんだろ、てめェ」
 サンジが何も言えずにいると、ゾロはそれがムカついて仕方ねェと、眉をしかめた。ゾロの隣に座ったはいいが、サンジは膝の上で握った拳を、ただ睨みつけることしかできない。昨日と同じように、どこか蝉の鳴き声が、遠く聞こえる。チョッパーに視線をやれば、離れた場所で座り込み、目を閉じていた。こちらの様子には我関せずといった態度だが、それもポーズでしかないのだと、サンジには分かっていた。唯一、二人の仲を気にかけてくれる相手なのだ。
「なんでこんなに腹が立つのか」
「……答えは、出たのか」
「出ねェ」
 ゾロの言葉に、ほっとしたような、がっかりしたような心地になった。サンジがゾロを好きなことなど、とっくに気づかれているのだろう。十年前から変わらずに、この想いは本物だった。
 ゾロに一体、何を言われるのかと、ただ身構えていたが、答えが出ていないのなら、こちらには好都合だ。このまま有耶無耶にしておけば、明日にはこの村を出ていける。ゾロには、もう、会うこともない。いっそ、振られてしまったほうが楽だという答えは、サンジの中にはなかった。好きだと思うだけで、こんなにも胸が圧迫され、そのまま押し潰されてしまいそうになるのだ。その先なぞ、知りたくもない。
 ゾロが俯いた瞬間、ピアスがその動きと共に音を鳴らした。ゾロらしくもない、どこか躊躇してみせるような仕草だった。それから、心中にある迷いを断ち切るかのように、顔を上げる。ただ、そう言って、ゾロは戸惑いを見せると、一度口を閉ざした。サンジは息を呑み、その先に続く言葉を、一通り想像する。なるべく傷が浅くなるよう、ひどいことばかりを考えた。
「お前に会えなくなんのは、嫌らしい」
 分かんねェけどよ。ゾロの声は、やはりどこか不安げだった。サンジは俯いたまま、横目でゾロの顔を盗み見る。その瞬間、弾けるように顔を上げた。夕日のせいではないだろう。ゾロは耳の縁まで真っ赤に染め上げており、サンジはただ、口を開閉させることしかできない。全身を震わせ、自身の顔にまで熱が集中する。眉を寄せると、緩みそうになる表情を保つことに、ただ必死になった。性懲りもなく、期待してしまいそうになる。してもいいんじゃないかと、上気したゾロの顔を見れば、思ってしまう。
 サンジは薄汚れた境内へ手をついて、ゾロの顔を覗き込むよう身を寄せた。古い神社の木板が軋み、悲鳴を上げる。こんな顔をするだなんて、反則だろう。可愛い。可愛くて仕方ない。好きだと、サンジはますます、想いが膨らんでいくことに気がついていた。これ以上、好きになりようがないというのに、振り切れるなんてことは、きっと一生ありえないのだ。
「なァ、ゾロ。こっち、向いてくんねェか」
「あァ?」
 自分がどんな顔をしているのか、ゾロはまるで分かっていないようで、サンジの声に素直に従った。濁りのない目でまっすぐ見つめられるが、サンジは今度こそ、交じりあった視線を逸らさなかった。確信を得たい。全身が心臓になってしまったのではないか。そんな不安を覚えるほど、身体中を鼓動が打ち鳴らすのを感じていた。
 しばらく二人で見つめあっていたが、さすがに照れて、サンジから視線を逸らした。それから、なんだよと、一向に視線を逸らしてはくれないゾロへ向けて、小さく呟く。ゾロの目は、どこか熱を孕んでいるようにも感じ、もはやこれは夢なのではないかと、否定的な言葉が頭を過ぎる。
「お前の目って、海みてェだよな」
「う、み……?」
「なんか見てるとよ、海ん中泳いでるみてェだ」
 まァ、行ったことはねェがと、ゾロもやっと、サンジから視線を逸らした。サンジの青い目は、どこまでも濃く、確かに、深い海の底のようだった。そのときふと、昨夜老人が、この辺りに海はないと言っていたことを、サンジは思い起こす。だから、新鮮な海の幸を食べたことがないとも、言っていた。
「おれんとこのレストラン、海に囲まれてんだ」
「へェ」
「オールブルーって呼ばれるほど、見渡す限り青しかねェ。すっげェきれいなんだぜ、この村にも負けねェくらいよ」
 ゾロにも見せてやりてェ、一人ごちれば、ゾロは小さく笑みを零した。それに、うまい飯だって、もっと食わせてやりたい。それからもう一度、二人で視線を絡ませた。どちらからともなく、自然と唇が近づいていく。黒だと思っていたゾロの眸の色は、よく見れば、うっすらと緑がかっていた。まるで、ここから見下ろす景色のようだ。深く生い茂る樹木や、青々しい田畑すべてを、混ぜ合わせたようなその色には、熱に浮かされたサンジの顔が映し出されている。嬉しさで、どうにかなってしまいそうだった。一心にゾロを欲し、他は一切遮断してみせるように、瞼を閉じる。
 決心が変わった。ゾロにきちんと、想いを伝えよう。だが、唇が触れる寸前、ゾロの腹の音が周囲に響き渡った。互いにはっとして目を開くと、詰めていた距離を慌てて取り戻す。しばらく呆然としていたが、サンジは堪えきれず、ついぞ噴き出してしまった。声を上げて笑うサンジに、ゾロはむっと唇を引き結び、罰が悪そうに頭を掻いている。
「飯、食いてェ」
「ははっ、おう。作ってやるよ」
 サンジが境内から降りたとき、いつの間にかチョッパーの姿はなくなっていた。気を使ったつもりなのかもしれない。本格的に化物じみてきたたぬきを思い、苦笑を零す。チョッパーがくれたせっかくのチャンスを、ふいにすることはできないだろう。告げるなら、今しかない。サンジは深く息を吸うと、境内を下りて、ゾロの前に立った。十年前とまるで同じシチュエーションだが、緊張のほどは比ではない。あの頃と違うのは、日の高さと、サンジもゾロも、歳を取ったということだ。
 世界は闇の中へ、すっかり身を投じてしまっている。張り詰める心を前にしては、ゾロの目を見ることなどできず、サンジはきつく拳を握りしめた。
「てめェには、もうとっくにバレてんだろうが、ずっと、言いたかった」
 そこまで言って、サンジはやっと、座ったままのゾロを見下ろす。結局、暗闇の中では、表情を捉えることさえできなかった。ゾロは何も言わず、ただ、サンジの言葉の続きを待っているようだ。伝えるのは、エゴでしかないと思っていた。だが、それも言い訳を用意して逃げていただけだ。今更そんなことに気づき、サンジはあまりの不甲斐なさに眉を寄せる。酸素を肺いっぱいに取り込んで、それでも逃げ出してしまいそうな自身を奮い立たせた。往生際悪く、決意したところで浮き足立った。
 十年前、ガキだった自分が宣言した通り、いい男になれたのだろうか。ゾロから逃げ続けていたことを思えば、全然ダメじゃねェかと、サンジは眉を下げた。情けない顔は、闇に紛れ、ゾロには分からないだろう。それだけが、せめてもの救いだった。醜態なら、今まで嫌と言うほど見せてきたのだ。そんなの、たぶん、今更だろう。
「ずっと……ずっと、ゾロが、好きだ。十年の間、忘れたことなんて、一度もなかった」
「は、」
 みっともなく声が震えた。息苦しさに何度も言葉が詰まり、あまりにも、格好悪い告白だった。当のゾロは、驚いたような声を上げ、混乱しているようだ。ピアスが触れ合う音が、何度もサンジの鼓膜をつつく。
 闇にまみれ、ゾロに顔を見られずに済むことは好都合だったが、ゾロの表情の変化が読めないのは、多少なりとも不便だった。まさか、サンジの気持ちに気がついていなかったわけではあるまい。しかしゾロは、まるきり初めて知ったかのような態度を見せた。押し倒して、キスをして、挙句股間までおっ勃てていた男を前に、ありえねェだろ。サンジは動揺するが、ゾロならば、それすらもありえなくはない気がしてくる。世間にも、他人にも、自身のことでさえ、あまり興味のない男なのだ。
 お前の言葉の意味を、色々考えたと、ゾロは言った。サンジの気持ちにすら気づいていなかったため、出た言葉なのだと思えば、色々と合点がいく。たまらず肩を落とすが、伸ばした手で掴んだゾロの腕は、ひどく熱かった。その瞬間、触れ合った肌から、ゾロの想いが伝わってくる。まさかと否定しながらも、つむじから爪の先まで、全身が浮き立つのを感じていた。サンジは、とりあえず飯でも食おうぜ、とゾロの腕を引く。まだ、確信は持てていない。だが、ゾロも同じ気持ちなのではないかという期待は、否応なしに膨れ上がっていくのだった。





×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -