初恋5




 重い足を引きずりながら、暗闇に包まれた畦道を進む。足だけでなく、全身に倦怠感があった。視界の先で、車のライトが二つ、光っているのが見える。サンジは目を細め、のろのろと進んでくる軽トラックが通れるよう、道の脇へ寄ると足を止めた。舗装されていない細い道で、砂埃を立てながら、ゆっくりとタイヤが回る。だが、軽トラックはサンジの横を通り過ぎることなく、ブレーキを踏んだ。まさか目の前で止まるとは思わず、サンジは眉を上げて、運転席を覗き込む。すると、軽トラックを運転していた老人が、半分ほど窓を開け、健康な歯を見せて笑った。知った村人の顔に、サンジも笑みを返す。
「おうサンジ。ゾロの家なら反対だぞ」
 当然のようにそう言われたことへ、苦笑を零した。日が暮れてからも時間が経っているためか、辺りは少し冷えてきている。Tシャツの袖から伸びる腕を、無意識にさすった。
 無数の蛙の鳴き声に耳を傾け、じいさんの家に戻るところだと、老人に説明する。ガキの頃のことを思えば当然だが、どうやら村の人の認識は、サンジといえばゾロ、ということらしい。今でもゾロを好きなのは確かだが、できればこの村にいる間はもう、ゾロのことを考えずに過ごしたかった。否応なしに、ゾロにしたキスや、今朝の会話を想起する。すると未だに、サンジの胸はじくじくと痛み、悲鳴を上げた。僅かでも意識を逸らすため、俯いて眉を寄せる。
「じゃあ、おれんとこで飯食ってきゃいい」
 老人の言葉に顔を上げ、サンジは目を丸くする。さァ乗れ乗れと促されて、その勢いについ呑まれ、助手席へ回り込んだ。正直、じいさんの家に戻ったところで、何か料理をする気にもなれなかった。それ以前に、この村にはコンビニどころか、スーパーさえないのだ。皆、数十キロ先の隣町まで車を走らせては、週に一度買い物へ行くらしい。どうやら老人も、その帰りのようだった。サンジは老人の好意に甘えることにして、土の匂いのする車内へ乗り込んだ。シートベルトをかければ、ゆっくりと、軽トラックは進み出す。どうせ、一人で悶々と過ごすよりは、気が楽だろう。それに、 サンジはこの村の人々のことも大好きだった。
 老人は町にある農協へ、野菜を運びに行った帰りらしく、ついでにまぐろを買ってきたと大層嬉しそうだ。この辺りには海がなく、まぐろなどの海の幸は、車で一時間かけて町まで行かねば、手に入らないらしい。あとでお前らのところにもお裾分けしに行く予定だったという老人へ、サンジは笑みを零す。お前らという言葉は引っかかったが、楽しみだと素直に告げた。だが、捕れたての海の幸は、食べたことがないという。サンジは、育ったレストランのことを思い出す。海に囲まれたその場所は、新鮮な魚介類の宝庫だ。老人の足元に置かれたスーパーの袋からは、とても鮮度が高いとは言えない、白い筋の目立つまぐろの赤身が見えた。
 ほどなくして老人の家に着いた。荷台の荷物を下ろすのを手伝い、突然来たサンジのことを、笑顔で迎えてくれたばあさんにも挨拶をする。すでに食卓に並べられている料理を前にした途端、一日中覚えることもなかった空腹感に襲われた。盛大に腹の虫を鳴らしたサンジを、老人は声を上げて笑う。
 早速、まぐろを食卓に出してくれたばあさんは、次から次へと料理を勧め、サンジは久しぶりに、腹がはちきれそうなほど飯を食べた。素材の味をふんだんに生かした郷土料理の数々に感心し、何品かレシピも教えてもらった。今度、ゾロにも作ってやろう。しかし、そんな考えが浮かんだ瞬間、気が重くなった。
 二人は孫が遊びにきてくれたようだと笑い、サンジはどこか、むず痒いような心地になりながらも、胸が軽くなるのを感じる。ゼフとじいさん以外、身寄りのいないサンジには、こうして、老夫婦と三人で食卓を囲むのは初めての経験だった。きっと、祖父や祖母がいたら、こんな気持ちになるのだろう。もう食えねェと音を上げたサンジだったが、食後に出されたスイカまで平らげてしまった。今度こそ本当に食えないと、日に焼けた畳の上に両手をつく。
 苦しそうに腹をさするサンジを見て、ばあさんはにこにこと微笑んでいる。煙草に火をつけた老人へ、おれも吸っていいかと、確認を取った。了承を得て、少し箱の潰れた煙草を、ポケットから取り出す。封を切り、少し曲がってしまった煙草を指で整えた。老人は、灰皿をテーブルの中央に置いてくれ、お前も大人になったんだなあと、日本酒を舐めながら笑った。それでもまだまだヒヨッこだけどな。ゼフと同じようなことを言われ、サンジはうるせェと、拗ねたように唇を尖らせる。
「じゃあ、大人になるってなんなんだよ」
「そりゃァお前、自分で稼いで、あとは結婚でもして、子どもを一人立ちさせたら、だな」
「結婚……」
 ぽつりと呟いたサンジに、老人は大きく頷いた。孫の顔見て、おれはもうじいさんなんだと思ったら、やっとそういう実感がわいたんだよなあ。ばあさんと顔を見合わせて笑う老人を眺め、サンジも笑顔を作った。そりゃ随分遠い話だな、そんな軽口を叩く。おれもいつか、結婚するのだろう。子どもができて、歳を取る。その頃、ゾロは何をしているのだろう。結局、サンジの思考を支配するのはゾロのことばかりで、そんな姿を振り払おうとして、軽く首を振る。煙草の灰を落とし、下唇を噛んだ。ゾロに会いたい。もう会わないと決めたのに、揺らぐ心に舌打ちをしたい気分だった。
「サンジちゃんだって、もう充分大人よ。ねえ?」
「おおっ! おれの味方はばあちゃんしかいねェ!」
 憂鬱な心情を吹き飛ばそうと、サンジは努めて明るい声を出した。まあ、と笑ったばあさんを見て、少しだけ、重い気分も和らいだ。やはり、女性の笑顔はいいものだ。そう思うと同時に、おれはやっぱりホモなんかじゃないと、昔と同じように自身へ言い聞かせる。
「おいサンジ! ばあさんはおれの女だからな、手ェ出すなよ」
「ばあちゃんいい女だからなー、分っかんねェぜ」
「あらあら」
 短くなった煙草を突きつけてきた老人に向かって、にやりと口端を上げる。楽しげに腹を抱えた老人と共に、サンジも喉を鳴らした。やっぱり、ここへ来てよかった。きっと、一人でじいさんの家にいたら、暗い心を悶々と引きずっていたことだろう。いつの間にか、全身を襲う倦怠感は消えていた。
 そして、酔いも回った老人は、上機嫌にばあさんとの馴れ初めを語り出した。いやねえ、と恥ずかしそうに笑うばあさんは、とても可愛らしく、老人がぞっこんになるのも無理はない。サンジは茶々を入れながら、そんな話を楽しく聞いた。そのうち、老人の話はばあさんとの結婚生活にまで渡り、しまいにはアルバムを引っ張り出してきた。
「うおおっ、すっげェ美人!」
 二人の結婚式の写真がテーブルに広げられ、サンジは、ばあさんの若い頃の姿に歓声を上げた。かなりの量のアルバムを一枚一枚めくっていきながら、そのときの思い出話を聞かされる。村の人々の若い頃の写真の中に、じいさんの姿もあった。当たり前だが、じいさんにもサンジと同じ歳の頃があったのだ。少しだが、ゼフに似ている。
 昔はこの村にも、大勢人が暮らしてたんだがな、老人のそんな言葉に頷きながら、サンジはアルバムをめくった。写真の中には、子どもたちの姿もあった。じいさんの姿を見つけるたび、知らず頬が緩む。じいさんの遺品を整理しているときに見つけたアルバムは、開いていない。だが、こうして写真の中のじいさんを見ていても、不思議と悲しい気持ちにはならなかった。
 何冊目になるか分からないアルバムを開くと、白黒だった写真はカラーに変わった。多少の変化はあれど、それでも村の姿は、今と変わらない。そんなことを、サンジはなぜだか嬉しく感じていた。そして、成長していく子どもたちの姿を見るのは、やはりいいものだった。幸福に満ち溢れていて、温かい。二人の息子の写真を見て、じいさんの葬儀にも、顔を出してくれていたことを思い出した。
 最後の一冊を手にしたときには、もうすっかり夜も更けていた。鈴虫の頼りない声が、風鈴の音と共に耳をくすぐる。老人が上機嫌にアルバムをめくったとき、そこで見つけたゾロの姿に、心臓が跳ね上がった。サンジが出会った頃よりも、もう少し幼さが残るその顔へ、視線が釘付けになる。ゾロも若いなー、笑いながら、老人はまた、アルバムをめくる。そこにも、ゾロの姿を見つけた。竹刀を持ち、鷹のような目をした男と、憮然とした表情で写っている。いかにも、こいつと写るのは不服だといった表情だ。そんなゾロの顔には、大きなばんそうこうが貼られており、顔中傷だらけであった。それでも、三連のピアスは変わらずに、日の光を反射させている。
「しっかしゾロがよお、意気込んでミホークに勝負を挑んでは、いっつもぼろくそに負けてたよなァ」
「懐かしいわねえ」
 アルバムからぎこちなく顔を上げたサンジに、老人はゾロがこの村にやってきたときのことを話してくれた。以前、ここにはミホークという、剣の世界では名の知れ渡った剣豪が暮らしていたらしい。ゾロは、ミホークを倒すためにこの村までやってきたのだと、続けられる。一体なんの話だと首を傾げたサンジに、ゾロは子どもの頃からずっと、剣道をやっていたのだと教えてくれた。ゾロの剣の腕も目を見張るほどだったと、老人は酒を呷る。ミホークを倒すためにこの村へ定期的にやってきては、いつしかここを気に入ったゾロは、高校を卒業すると同時に、村へ移り住んだらしい。ゾロが暮らしているあの家は、元はミホークのものだったという。
 サンジはその話を聞き、ゾロのことを何も知らないという現実を、目の前に突きつけられていた。勝手に知った気でいたが、現に、ゾロの年齢さえ分からない。それでも、ゾロへの想いが変わることはなかった。理屈じゃないのだ。もう、どうしようもなかった。
 そのときふと、目つきの鋭い虎が描かれた掛け軸の前で、鎮座する竹刀の光景が蘇ってきた。昨日、その部屋で変わらず仰々しい掛け軸を見かけた記憶はあるが、竹刀はなかったように思う。代わりにあったのは、くいなの写真と、立派な仏壇だ。
 サンジが無言でアルバムをめくっていくと、そこに十年前のゾロとサンジの姿を見つけた。いつの間に撮られていたのだと、眉を上げる。全く覚えていない。二人して泥だらけで、サンジは収穫したばかりのたまねぎを、笑顔でゾロに見せている。そして、ゾロはサンジの頭をぐしゃぐしゃと撫でつけていた。その写真を見て、ぐっと眉根を寄せる。ゾロに頭を撫でられるときはいつも、俯いていた。ゾロは、こんな顔をしていたのだ。チョッパーとサンジを眺めていたあの表情が、脳裏を掠める。サンジは震える手で、ふたたび煙草に火をつけた。
「とってもいい写真よね」
「ゾロもサンジのこと大好きだからなあ」
「なっ、なんだよそれ」
 おれは、別に、ゾロのことなんて! どもりながらそこまで言って、これでは墓穴を掘るばかりだと、慌てて口をつぐんだ。何焦ってんだよ、と老人に笑われて、頬がかっと熱くなる。サンジは話を変えようとして、更にアルバムをめくった。そこに見つけたくいなの姿に、思わず煙草を取り落とした。慌てて拾い上げると灰皿に置き、落ちた灰をティッシュで拭う。俯いて、拳をきつく握り締めた。意を決して顔を上げると、くいなとゾロが、村の人々と写っている写真を、まっすぐに見据える。
「サンジも、昨日ゾロんとこにいたんなら、くいなちゃんのことは知ってんだろ」
「……ん」
「おれたちが取り乱すばっかりでよ、葬式のときも何考えてんだか分かんねェ顔して、ゾロはトラックの運転手さえ責めやしねェんだ……」
 老人の言葉に、サンジは奥歯を噛みしめる。昨夜のゾロの態度を思い返せば、その姿はありありと想像できた。ゾロは事故に遭ったとき、死の淵を二日も彷徨ったらしい。ゾロが指で、袈裟懸けに傷をなぞる光景を、頭に浮かべる。奇跡的に命の危機は免れたが、全治二年。面白おかしく思い出を語っていた老人は、打って変わって苦しげに顔をしかめた。
「あいつが泣いてるとこなんざ見たことねェ。葬式の次の日には平気な顔して畑仕事してたりよ、おれらがどんなに言い聞かせたって、聞く耳を持たねェ!」
「ゾロちゃんは昔から意地っ張りだから……」
 老人が声を荒げた。それを宥めるように、ばあさんは老人の肩を切なげにさする。
「おれたちにゃどうすることもできなかったが、お前なら、ゾロの心を解かしてやれるんじゃねェかって、そう思うんだよ」
 サンジは口を開いたが、何も言葉にならず、口内に溜まった唾をむりに飲み込んだ。小さく首を振る。おれには、無理だ。それでも、あのとき苦しそうに顔を歪めたゾロの表情が、瞼の裏にこべりつき、剥がれない。
 辛くねェわけがねェんだ。独り言のようにぽつりと呟いた老人の目は、真っ赤に充血していた。老人は一息に酒を飲み干すと、悪い悪い! しんみりしちまったな! と笑顔を作り、震えた声で明るく言った。
「まあ、あいつ、くいなちゃんには弱虫弱虫からかわれてたけどな!」
「えっ、ゾロ、が……?」
「完全に尻に敷かれてたぞ〜、あいつ」
 がはははと、腹を抱えて笑う老人へ、サンジはマジかよ、と息を漏らす。あのゾロが、尻に敷かれていただなんて、信じられない。どちらかと言えば、亭主関白な気があるのだと思っていた。それから、くいなとゾロは幼馴染で、一緒に剣道をやっていたのだと、ばあさんが教えてくれた。ゾロはくいなに全くと言っていいほど歯が立たず、毎日のように勝負を挑んでは、負けていたらしい。悔しさのあまり泣いたこともあったというゾロの話を、くいなは楽しそうに二人へ話してくれたようだ。ゾロとくいなは、そんなに昔からの仲だったのだ。サンジが入る隙が残されていないのは、当然のことだった。もしかしたら、互いに初恋の相手なのかもしれない。勝手な想像をして、サンジは一人苦しくなった。
 くいなも、こんな田舎を少しも嫌がったりはしなかった。そして快活で思慮深く、可愛くて、みんなから好かれていたと、老人は眉を下げ、少し困ったように笑った。もう、誰もアルバムをめくる気にはなれず、ばあさんはアルバムを閉じて棚に戻していく。サンジが灰皿に置いた吸いさしは、気づけば限界まで灰を伸ばし、勝手に燃え尽きていた。
「サンジちゃん、そろそろお風呂入る?」
「えっ、いや、おれ帰るよ」
「なーに言ってんだ、泊まってけ。それにおれ、酒飲んじまったから送ってやれねェぞ」
 帰り道分からないだろ? そう言われ、サンジは眉を下げた。また、人の好意に甘えてしまう。助けられてばかりのサンジに、ゾロを救うことなど、できるはずもなかった。





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