迎え火1



(海賊 くいなへ迎え火をするゾロ)



温めておいたオーブンにまだ未完成のサバランを入れ、鍋に火をかけてシロップ作りに取りかかった。グラニュー糖を水に溶かし、ラム酒とオレンジキュラソーで風味づけをする。甘い香りと僅かな酸味が心地よくキッチンに充満していく。そろそろ、おやつの匂いを嗅ぎつけてルフィが騒ぎ始める頃だろう。
コンロの火を止めると、ラム酒を調味料の棚に戻した。ここに置いておけば、あのバカ酒豪に飲まれることもない。ルフィが肉に敏感なのと同じように、酒の匂いに敏感なゾロも、さすがにキッチンの棚にある酒には手をつけない。
収穫したばかりのナミのみかんをふんだんに使ったソースも手早く作り、あとは生地の焼き上がりを待つだけだ。そこにシロップを十分に含ませ、ナミのみかんを贅沢に乗せれば今日のおやつは完成する。
サンジはシンクにもたれ、咥えていただけだった煙草に火を点けた。深く煙を吸い込み、それを吐き出せば、換気扇に白い靄は吸い込まれていく。
その白煙を何とはなしに目で追っていると、不躾にキッチンの扉が開かれた。ブーツの底で床板を踏みつける音がだんだんと近づいてくる。迷うことなくカウンターまでやってきたゾロをちらりと見遣り、サンジはすぐに換気扇へ視線を戻した。
「コック、きゅうりあるか」
「はァ? …うわちっ!」
ゾロから出た予想外の言葉に素っ頓狂な声を上げた。どうせまた、酒でもねだられるのだろうと思っていたのだ。驚きのあまり煙草を落としてしまい、運が悪く、火種の部分が手の甲に触れた。肩を跳ねさせ、熱さを誤魔化すように手を振る。空気に触れても皮膚はじんじんと痛みを伴うだけで、すぐに蛇口を捻り水を出した。
そんなサンジの様子を見て、ゾロは呆れたような顔をしている。確かにたいした火傷ではないが、少しぐらい心配してくれたっていいだろうとサンジは心の中で悪態をつく。しばらく悶々としてから、ただの八つ当たりだと自己嫌悪した。
水で火傷を冷やしたあと、落ちた灰をきれいに拭う。ゾロはきゅうりを要求する言葉だけを発し、それ以上サンジに声をかけることもせず、隣の部屋へ入っていった。
やはり、サンジの中ではゾロに対する苛立ちが募っていく。これは八つ当たりではなく真っ当な怒りだろうと、シンクに手をついてため息を吐いた。
すると、ゾロが救急箱を手にすぐにキッチンへ戻ってきた。サンジが眉を上げる間にゾロはカウンターを越え、サンジの前で足を止める。なにやら救急箱を乱暴に漁り始めるゾロの姿を、サンジはただ呆然と眺めていた。
「手、出せ」
「…おう」
言われるがままゾロの前に手を差し出すと、その手を握られて肩が強張った。無骨な指先で火傷した箇所にチョッパー特製の軟膏を塗られている間、サンジは落ち着きをなくす。
一体どういう風の吹き回しか、チョッパーを呼んできた方が早いだろうに、ゾロは自ら手当てしてくれるようだ。
サンジの頬にはじわじわと熱が集まり、それを隠すように必死で顔を背けた。ゾロはサンジの手の火傷に集中しているため、そんなことにも気がつかない。
一日もすれば治るような軽い火傷なのに、そう茶化そうとして寸でのところで口をつぐんだ。代わりに礼を言うが、恥ずかしさのあまり吐き捨てるような形になってしまった。後悔しても後の祭りだが、ゾロは気にかけた様子もない。なんとか取り繕うとサンジは必死で頭を巡らせる。
「…で、てめェはきゅうりが食いてェのか」
なんか作るか、新しい煙草に火を点けながら問えば、ゾロは小さく首を横に振った。
ゾロは小さな火傷に対し、大げさに包帯を巻いている。これでは料理もできないが、サンジは何も言わず、されるがままになっていた。
こうしてゾロに触れられることなど、普段では考えられない。少しぐらい、この感触を味わうのも許されるだろう。ゾロの手は、想像していたよりも体温が低い。
ゾロが気まずげに食いたいわけじゃねェと続けたことで、頭に浮かべていた数々のレシピをサンジは打ち消した。普段から出したものを残さず平らげるだけで、あれが食いたいなどと要求されたこともない。だから、目の前の男に甘くなるのも仕方ないのだと無理矢理自身を納得させる。それに、手当てしてくれた礼をしたいだけだ。ゾロに借りを作るのは癪だった。
「用途ぐらい教えてくれねェと渡せねェぞ。貴重な食料だ」
「……分かってる」
珍しく口ごもったゾロは、思案するように目を伏せたかと思うと、馬を作るんだと言った。なんだそりゃ、と流石に呆れて、サンジは顔をしかめる。ルフィやウソップにでも頼まれたのだろうか。それにしたって、きゅうりで馬を作るとはどういうことだ。フランキーに余った木材でももらえば済む話だろう。
「アホか。遊びにゃ使わせねェ」
「遊びじゃねェ! おれァただ…!」
声を荒げたゾロは、罰が悪そうに途中で口をつぐんだ。すぐに何かを言いあぐねるよう俯いてしまい、サンジもただならぬゾロの様子に驚きを隠せない。
キッチンには、どこか重苦しい沈黙が訪れていた。ゾロの説明では、どう好意的に考えても遊びにしか聞こえない。先程までまるで耳に届かなかったオーブンと換気扇の回る音が、妙に耳に残った。遠くでルフィたちの騒ぐ声が聞こえてくる。
ふと、煙草の灰が伸びていることに気づき、サンジは慌ててカウンターに置いてある灰皿に手を伸ばした。
「じゃあ、マッチくれねェか」
ゾロはがしがしと乱暴に頭を掻き、サンジの顔を見ることもなく視線をさまよわせたあと、ため息まじりに告げた。そんなゾロを訝しく感じながらも、サンジは素直にマッチを渡す。マッチぐらいなら、くれてやっても支障はない。
ゾロは一言礼を言うと、逃げるようにしてサンジの元を去っていった。らしくないゾロの言動に、サンジはただ呆然とする。なんなんだよ、知らず疑問が口をついた。
他人に弱さを見せることを嫌う男だと、そう認識している。何かと対立してばかりのサンジには、余計見せたくないもののはずだった。
長い間航海を共にしているが、あんなに自信なげなゾロの姿は初めて見た。ゾロはいつだって、痛いぐらい相手の目をまっすぐに見て話す。その視線はとても強く、サンジは何度もその目にぶち抜かれそうだと思ったほどだ。
オーブンの中を確認すると、乱暴に髪を掻き回してキッチンを出る。扉の前の手すりから芝生甲板を見下ろせば、仲間たちがそれぞれの時間を思うように過ごしていた。ゾロの姿は見えないが、いつも通りの光景に何も違和感は覚えない。
こんなとき、ゾロの異変にいち早く気づく相手といえば、やはりルフィなのだろう。無意識にルフィのことを目で追っていたら、顔を上げたルフィと視線が絡み合った。

「サンジー、おやつか? おれもう腹減ってよお」
「お前な、昼飯食って二時間と経ってねェぞ」
「もう待てねェ〜!」
「お、珍しいなサンジ。いつもはおやつ出来るまでキッチンにこもってんのに」
ウソップの言葉に苦笑することしかできず、サンジは肩をすくめた。普段は何があっても、調理中はオーブンの傍を離れない。その日の材料によっても、マニュアルどおりの焼き時間では美味しく仕上がらないことがあるからだ。サンジはいつも、自分の目で確かめて調整している。先程オーブンを覗いたが、ちょうどいい頃合いまでそう時間もない。
しかし、それ以上にゾロの様子が気になって仕方なかった。きっと、ルフィなら何か気がついている。
思考を巡らせながら、腹が減ったと騒ぐルフィを尻目に息をついた。なんとなく、ルフィに聞くことはできなかった。無駄なプライドか、よく分からない嫉妬からか。サンジは考えることを放棄する。
船首甲板にゾロの姿は見えなかった。船尾か展望室、はたまた男部屋か。決めあぐねつつも、サンジは一度芝生甲板へ下りることにする。自身の手を覆う包帯を見遣り、先程のゾロを思い浮かべた。チョッパーに見つかったら面倒だと、ポケットにその手を隠す。
「あっ、おいサンジ! なんかゾロのやつおかしくねェか?」
階段を下りてすぐの場所に腰を下ろし、コーラを呷っていたフランキーは、サンジの姿を認めるや否や、慌てたように声を上げた。サングラスを額まで押し上げて上目遣いでサンジを見遣る。その横で、ブルックが紅茶を啜りながら静かに笑う気配がした。
怪訝そうな顔をしたサンジに、フランキーは自分に向けられたものだと勘違いしたのか、キッチンからあいつが出てくるのが見えたからよ、と口早に続ける。
「それで、マリモがなんだって」
「あァ、あいつがよ、いきなりオガラくれっつうんだ」
「オガラ…?」
「オガラはねェって言ったら余った木片とか木屑でもいいってよ」
わけ分かんねェよなァ、フランキーはコーラ片手に大袈裟に肩をすくめた。ゾロは、何に使うんだというフランキーの問いかけにも、やはり答えなかったらしい。
何か知っている風なブルックを一瞥し、サンジは顎に手をかける。すっかり短くなった煙草を海に投げ捨て、顎髭を撫でた。
きゅうり、マッチ、オガラ。
いくら考えてもこの三つから共通点は見つからず、わけの分からないゾロの行動に舌打ちをする。あんな様子のゾロを前に、放っておけるはずがない。フランキーも、やはり心配そうにしていた。
「ゾロさんなら船尾の方に」
ブルックはカタカタと顎の骨を鳴らして笑うと、どこか楽しげに船尾を指差した。やはりブルックは、ゾロの行動の意味を知っているようだ。そう簡単に口を割るようには思えなかった。それに、居場所が分かったのなら本人に直接聞けばいいと、サンジは下りたばかりの階段を上る。
人間の魂は、一体どこへ浄化するのでしょう。背を向けたサンジに、ブルックがぽつりと問いかけた。唐突なその問いの意味が理解できず、サンジは一度振り返っただけで、何も答えなかった。
ブルックの言ったとおり、ゾロは船尾にいた。手すりのすぐ前の甲板に座り込み、ただ海を眺めているようだ。しゃんと伸びている背筋は、いつもと変わりない。
サンジは、ゾロの姿を見つけた場所からなかなか動くことができず、ただその背中を眺めていた。
強く照り付ける太陽のせいでうっすらと汗が滲む。ネクタイを緩め、二の足を踏む己を叱咤するよう深く息を吸った。
そのとき、サンジの背を押すような追い風が吹き、ゾロの芝生のような髪が前へ揺れる。まっすぐ進むサニー号にとっては進行を邪魔する向かい風だ。
あの髪は、どんな感触がするのだろうと想像した。満弁なく筋肉のついたゾロの腕は、袖の下からでもその逞しさが分かる。左腕に縛られた手ぬぐいも、はたはたと風に吹かれている。サンジは気合を入れるため、曲がっていた背筋を伸ばし、足を踏み出した。





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