初恋3 この村の夜は、日中に比べ、大分気温が下がる。窓を開けてしまえば、充分涼しくなった。それどころか、少し肌寒く感じるほどだ。いつの間にやら、脱衣所に置かれていた着替えを素直に借りる。ゾロのものなのか、それは少しぶかぶかで、嗅ぎ慣れない柔軟剤の匂いがした。 サンジが風呂から上がると、縁側の窓を開け、外を眺めながら、酒を飲んでいるゾロの姿があった。昨日もかなりの量を飲んでいたはずだが、ゾロは本当に酒が好きらしい。そんなゾロの膝の上では、チョッパーが丸まって眠っていた。なんとなく声をかけることは憚られ、サンジはキッチンへ冷えたビールを取りに行く。持ってきたビールをゾロに手渡すと、人一人分の距離を開けて、ゾロの隣へ腰を下ろした。 懐かしい、鈴虫の澄んだ鳴き声が聞こえてくる。ビールを掴み、プルタブに指を引っかけた。プシュ、と空気の抜ける音がして、一口だけそれを含む。酔えば、サンジ一人だけが感じているこの気まずさも、どこかへ行ってくれるかもしれない。そう思ったはいいが、酔ってゾロに何かしてしまうのではないかという、恐ろしい考えが浮かんできた。まさかと笑い飛ばせるほど、今のサンジに余裕はない。 「チョッパー、前は家には入って来なかったよな」 「ああ、なんかくいなが死んでからよ、たまにこうして来るようになった」 聞かなければ良かったと、サンジは後悔した。曖昧な相槌を打ち、胡座を掻いた足元へ視線を移す。くいなが死んだ理由が、気にならないわけではなかった。ゾロの閉じられた左目だってそうだ。だが、簡単に尋ねていいものではないだろうし、そんな勇気もサンジにはない。十年経って、臆病さだけが成長したような気分だ。おれは、ゾロの気持ちを汲み取ってやることも、自然と気遣うこともできない。ただただ情けないと、サンジは思った。 「お前いつまでここにいるんだ」 「じいさんの、遺品整理が終わるまで」 「じゃあ、それまでうちにいりゃァいい」 ゾロに顔を覗き込まれて、サンジはたまらず身を引いた。破裂しそうなほど心臓が高ぶるのは、昔と変わらない。だが、明らかに悪化している。 ゾロがかっこいいという意識は、昔からあった。きりっとした眉に切れ長な眸、通った鼻筋、薄い唇。端正なその顔立ちは、老若男女誰が見ても、整っているという意見を述べるだろう。それに加え、きれいに筋肉のついた身体。男から見ても憧れてしまう。だが、かっこいいどころか、再会したゾロのことを可愛く思ってしまうのだ。自分より年上でがたいのいい、それも男相手に。それが一層、サンジに恋心を意識させる。 「い、いい! んな世話になるつもりはねェ」 「おれが寂しいんだよ」 びくりと肩を跳ねさせて、言葉にならない声を上げた。叶わないと分かっていても、これでは期待してしまいそうになる。寂しいって、アホか、サンジは頭の中で何度もその言葉を噛み締めた。 それにおめェの飯も食えるしな、いたずらに口端を上げたゾロに対し、ますます胸を高鳴らせる。慌てるサンジを尻目に、ゾロはビールを傾けながら、喉を鳴らしていた。 「おっさんのくせに寂しいとか気色悪ィこと言ってんじゃねェ! それはレディだけが使っていい言葉だっ、クソオヤジ!」 「ははっ、違いねェ」 思っていることを素直に口にするわけにもいかず、ついそんなことを口走ってしまった。やっちまったと頭を抱えたくなるサンジだが、ゾロは笑うだけだ。 初恋は実らない。世間では、周知の事実かのように、そんな言葉が語られている。そもそも、ゾロ相手では障害が大きすぎる。それでも、どうしようもなく好きだった。煙草を取り出すと、口に咥える。ゾロの周囲に散乱している空き缶の一つを手に取り、引き寄せた。十年の間に、想いはどうしようもなく膨らむばかりだった。これ以上好きになることは不可能だと思っていたのに、こうしてゾロと一緒にいればいるほど、気持ちが大きく膨らんでいく。降参だ。両手を高々と上げたいほどに、サンジはもう、負けを認めることにした。 じいさんがいなくなってしまった今、もうこの村に来る理由はなくなる。頻繁に来ることもできないため、墓もサンジの住む街の墓地へ、移してしまう予定だった。今度こそ、ゾロと過ごすのは最後になる。それなら、思いきりこの時間を楽しんでしまえばいい。最後の、思い出作りだ。 「しょうがねェから、しばらくてめェの世話してやる」 「かわいくねェなァ、お前」 ゾロの膝の上にいるチョッパーは、未だすやすやと幸せそうに眠っている。そんなチョッパーの背中を撫でているゾロに向かって、サンジはフンと鼻を鳴らす。あの手で頭を撫でられるたび、ガキだという現実を突きつけられているようで、嫌で仕方なかった。だが、今はゾロに触れてもらえるのなら、なんだっていい。ぐしゃぐしゃに髪を掻き回されて、おれもゾロの髪に触れて、唇を寄せ合う。そんなことができたなら、幸せすぎて、どうにかなってしまいそうだ。大きすぎるこの想いも、行き着くところまで行ってしまえば、振り切れるのではないかと思えてくる。短くなった煙草を空き缶に押しつけて消し、中へ吸殻を落とした。 「なァ、一つ……聞いてもいいか」 新しい煙草に火をつけて、サンジは目を伏せた。やっぱり、我慢できなかった。何も言わないゾロの様子を窺おうと、おそるおそる視線を向ける。左目の痛々しい傷をぼうっと眺めていたら、ふいにゾロが、サンジへ顔を向けた。なんだよ、早く言えよと、ぞんざいに言い放たれて、サンジはぱっと視線を外す。 「ゾロ、その目……」 「あ?」 「やっぱいい! 悪ィ、なんでもない」 ゾロは何度かまばたきをして、それからやっと思い至ったのか、これか? と左目を指差した。サンジはそれには答えず、不自然にゾロから顔を逸らす。ゾロのまっすぐなその眸も、好きなもののひとつだった。サンジの色素の薄い青い目とは違い、ゾロのそれは、澄んだ黒色をしていた。目を合わせるたび、吸い込まれそうになる。 別にたいしたことじゃねェぞと、ゾロは飄々と告げた。サンジは顔を上げて、ゾロの表情を確かめるが、特に変化は見られない。 「轢かれたんだよ。そんときのだ」 「……は、」 「くいなと町に行ってよ、そんときトラックが突っ込んできた」 ゾロは、本当になんでもないことのように、そう言った。突然、左胸の上部を指差したかと思えば、そこから右の脇腹辺りまでを袈裟懸けになぞる。ここからここまで、でっけェ傷もあるぞと、ゾロは抑揚もなく続けた。サンジは唖然として、言葉を失う。ぎくしゃくとした動きで足を立てて、膝を抱えた。たいしたこと、ないわけがない。きっと、くいなさんはそのときに。ぐっと唇を噛み締め、顔を膝へうずめた。涙なんて、とっくに枯れ果ててしまっている。 風呂から上がったゾロは、上半身裸の出で立ちだった。そのときのことを思い起こそうとも、ゾロの言う傷は、記憶の中に残ってはいない。そもそもサンジは、裸のゾロを直視できずにいた。 「……てめェは、迎えに来ねェしよ」 ゾロの言葉に、サンジは勢いよく顔を上げた。ただ、まっすぐに外を眺めるゾロの顔からは、露も感慨など浮かんではいない。普段と違い、ひどく、冷たい表情に息を呑む。ごくりと唾を飲み込んで、サンジは喉元を、震える指先で撫でつけた。嚥下する音が、妙に響く。緩慢とした動きでサンジに顔を向けたゾロは、なんてな、と歯を見せて笑った。震えるサンジの唇は、声を発することもできやしない。呆然とゾロを見据え、やがて、視線を逸らした。 迎えにくるから、サンジはあのとき、確かにそう言った。ごちゃごちゃと、色々なことを考えて、それらを振り払うようにして強引に首を振る。ゾロが、おれのことを待っていたかもしれないなんて、とんだ思い違いだ。 「んなマジな顔すんな。本当に、たいしたことじゃねェ」 よほどひどい顔をしていたのか、ゾロはサンジの頭を掻き回すと、ちょっと冗談が過ぎたな、と口端を上げた。頭のてっぺんから爪先まで、一息に熱を持つ。それと同時、頭にも血が上り詰め、業を煮やした。ゾロの手を払い落とすと、いつの間にか火の消えていた煙草を放り投げる。胸倉を掴んだ瞬間、驚いたチョッパーが跳ね起きて、そのまま庭へ飛び出していってしまった。 ゾロに、笑顔を作らせている自分のことも、平気そうに笑うゾロのことも、許せなかった。 「っんで、たいしたことじゃねェとか言えんだよ! 平気なわけねェだろうが!!」 「泣き喚きゃ、どうにかなんのか」 サンジとは対照的な声音で、そんなことを告げたゾロを、ぐっと睨みつけた。そういうことじゃねェと、必死で声を絞り出す。はたしてゾロは、くいなさんを失ったとき、泣いたりしたのだろうか。この様子じゃ、泣くことも喚くこともしなかったのだろう。そんなの、あまりにも悲しすぎる。この仮面を剥ぎ取ってやりたいと、サンジは強く思った。おれが、ゾロの隙間に入り込めたらいいのに、そんな驕りにも似た考えすら、浮かぶ始末だ。 掴んだ胸倉を勢いのまま押せば、ゾロは床の上に倒れ込んだ。周囲の空き缶が縁側を転がり、いくつかは、軽快な音を立てて庭へと落ちていく。たまらず目を閉じたゾロへ覆い被さると、涙が一滴、ゾロの頬に落ちた。まだ泣けるのかと、サンジは正直、自分でも呆れ返った。 「そんなの……くいなさんが、かわいそうだ」 全身を震わせながら、だからそんなひでェこと言うなよと、サンジは次から次へと流れる涙を止める手立てもなく、ぼろぼろと目から溢れさせた。すると、ゾロの手が伸びてきて、乱暴に掌で頬を拭われる。こんなときにでも、どうしようもなく胸は高鳴ってしまう。好きだと、今にも口をついてしまいそうになる。 「てめェが、くいなのために泣くのかよ」 ゾロは一瞬、苦しげに顔を歪めた。ゾロに触れられている箇所が、燃えてしまいそうなほど熱い。だが、冷たい指輪の感触だけは、はっきりと分かった。ゾロの手首を掴むと、頬から引き剥がす。そのまま、勢いに任せて顔を寄せた。 掴んだゾロの手が、ぴくりと震える。ごつごつで、硬くて、太い。男の手だった。十年前と、まるで変わらない感想を抱く。それなのに、触れた唇はマシュマロどころの話ではなく、溶けてしまいそうなほど柔らかい。夢中になって、何度もその唇に吸いついた。ゾロにキスをしているのだと思うと、どうしようもなく高ぶってしまう。ふ、と苦しげな息を漏らしたゾロに気づき、サンジは唇を離した。ゾロは目を丸くして、戸惑ったような視線を、サンジにぶつけてくる。その瞬間、サンジの中で後悔より、興奮が勝った。 「てめェなにや、ちょっ……んんっ」 口を開いたゾロの口内へ、舌を滑り込ませた。拒絶の言葉を聞きたくないという理由もあったが、単に欲に負けてしまった。逃げるゾロの舌を追いかけて、その合間に歯列をなぞり、口蓋に舌を這わせる。ゾロの両手首を掴むと、床に押しつけた。今まで感じたことのない、征服感にも似たものが、サンジの胸の内にせり上がってくる。 ゾロが腕の拘束を解こうと躍起になっている間に、舌を捕らえた。ゾロの口内は、酒の味がする。そのアルコールが移ったかのように、サンジの頭はぼうっとした。ゾロは、必死で抵抗しようと首を横に振り、そのたびに、ピアスが触れ合って音を立てている。舌を絡め合い、唾液が立てる水音と、互いの息遣いだけがサンジの鼓膜を打つ。たまに混じる、存外可愛らしいリップ音が、ひどく浮いていた。 そのとき、じたばたと抵抗を強めたゾロが、ビールの空き缶を蹴った。その音に肩を跳ねさせて、サンジはふたたび唇を離した。唾液の糸が引き、荒い呼吸を繰り返すと、それはぷつりと切れて、ゾロの頬を濡らす。 「……チビ、ナス」 肩で息をしながら、ゾロは咎めるような視線をサンジに向けた。チビナス、その一言で、すっと頭が冷えていく。とんでもないことをしてしまったと、ゾロの腕を解放した。殴られるだろうと身構えたサンジだったが、ゾロは濡れた唇を、腕で拭うだけだ。ゾロの上から退くと、ゆるく勃ってしまっているそこを気取られないよう、身を屈めた。散乱した空き缶を拾い上げながら、上体を起こしたゾロへ意識を向ける。罪悪感はある。それでも、謝る気など、これっぽっちもなかった。 「おれはもう、ガキじゃねェ」 サンジは、搾り出すようにして、その言葉を告げた。ゾロには、精々手のかかるガキだとしか、思われていないのだ。手の中の缶がべこりと音を立て、簡単に潰れてしまう。 ゾロは物言わず、じっとサンジのことを見据えていた。あのまっすぐな目を見ることなど、できるはずもない。庭で月明かりを反射させている空き缶を、サンジは意味もなく睨みつけた。まだ、立ち上がれそうになかった。そもそも、ゾロの上に乗っかっていたのだ。勃起していることなど、とっくにバレているはずだった。何も言及せず、責めることすらしないのは、ゾロの優しさか、それとも、単に興味がないだけか。どちらも正解であるように、サンジには思えた。 「おれやっぱ帰る、から……」 サンジがそう言うと、ゾロが突然、勢いよく立ち上がった。苛立ちを隠しもせず、大きな音を立てて床を進むと、サンジの腕を掴む。バカ力で引っ張り上げられて、よろめきながら、サンジは立ち上がった。 「てめェ、おれを怒らせんな。さっさと寝るぞ!」 強引に腕を引かれ、廊下を進むと、むりやり洗面所へ押し込まれた。されるがまま呆然としていたサンジは、新しい歯ブラシを渡されて、やっと我に返る。これは一体どういう状況なのだと、混乱を隠せない。ぐるぐると目を回しながら、二人で互いの唾液で濡れた口許を拭った。並んで歯を磨きながら、サンジは横目で、ゾロを盗み見る。むりやりキスをされたことなど、すっかり忘れてしまっているかのように、ゾロは危機感もなく欠伸をしていた。傍から見れば、まるで恋人同士のような光景だが、サンジには浮かれていられる余裕など、微塵もない。これなら、責め立てられる方が気が楽だった。 キスをしたことよりも、サンジが帰ろうとしたことに腹を立てたゾロの、心の内が全く掴めない。知らず、息苦しさに鳩尾をさする。心は重くなるばかりだった。だが、無理にでもじいさんの家へ戻ることはできるはずなのに、サンジはそうしなかった。このままゾロと過ごしても辛いだけだということは、嫌というほど理解している。それでも、どうしても拒否することができなかったのだ。その理由は、考えなくとも分かりきっている。 ぴたりと寄せられた隣の布団にゾロがいるというのに、眠れるはずがない。布団に潜って数秒もしない内に寝息を立て始めた男に呆れて、深々とため息を吐いた。強引に唇を奪い、挙句股間までおっ勃てていた男を前に、眠れる神経が分からない。それほど、男として意識されていないのだろう。 規則正しいゾロの寝息が、頭の中を支配する。それはキスをしたときの、ゾロの息遣いを思い起こさせた。息継ぎのたびに漏れる、くぐもったその声は、想像よりもずっと甘かった。柔らかい唇の感触も、アルコールの味も、鮮明に蘇る。途端、熱が集まりかけた下半身の存在に、サンジは慌てて布団を被った。 |