鳴かぬ蛍が身を焦がす



(海賊)



苛々とブーツの底を鳴らしながら広い船の中、どこへ向かおうかしばし思案する。そのときふと、鼻先を掠めた甘い香りに顔を上げた。
どうやらそれは、キッチンの上にある甲板から匂ってくるものらしい。みかんの木とはまた違ったそれに、一体なんだろうと首を傾げる。どこかで嗅いだことのある匂いだった。
しかし、甲板へ出るには一度キッチンに行かなければならないのだということに気づき、浮かんだコックの顔に眉を寄せる。どうしてもコックと顔をつき合わせる気にはなれず、面倒だとそのまま甲板に跳び移れば、顔を出した太陽から一身に日差しを浴びた。
今サニー号がいるこの場所は、夏島の海域を抜ける寸前らしく、ここ最近は大分過ごしやすい気候になっている。それでも、まだ十分強い日差しに目を眇めながら、みかんの木の下へ潜り込んだ。
先程感じた甘い香りが一層強くなり、一度鼻を鳴らせば、時折ロビンがいじっている小さな花壇が目に入る。そこには色とりどりの花が植えられており、どうやらこれは花の匂いなのだと納得した。
そういえば、ロビンからも同じような匂いがすると、刀を隣の木の幹へ立てかける。
ロビンが泥まみれになって花壇をいじる姿を見かけるたび、不思議な光景だと常々感じていた。似合わない姿だとは思うが、悪くねェ。ロビンが聞いたら失礼ね、と眉をしかめること必至なことを考えてから、煙突から立ちのぼる白い煙を見上げた。
よく手入れされたみかんの葉の隙間から空を見遣れば、雲一つない青々とした景色が広がっている。その光景にだんだんとおれの気分も晴れてきた頃、大きく欠伸をした。
そのとき、花壇の脇から突如現れた一本の細い手を見とめ、肩を跳ねさせる。まじまじとその手を凝視していると、その脇にもう一本手が生えて、両手を合わせた。
驚かせてごめんなさいね、ロビンの声が聞こえてくるようで、知らず苦虫を噛み潰したような顔になる。
じょうろを手に、花壇へ水をやり出したロビンから視線を逸らし、みかんの木に背を預ける。いっそ眠ってしまおうと、無理に瞼をおろした。

「ナミすわん、ロビンちゅわん! 二人のために特製カクテル入れたんだよ〜!」
嫌でも耳に入るコックの猫なで声に舌打ちをして、また始まったかと忌々しく瞼を持ち上げた。
女二人に可愛いだの、好きだのと、毎日のように賛辞の言葉を贈る男の姿を思い出し、フンと鼻を鳴らす。
忘れかけていた苛々を次第に取り戻していった。どうしてかあれが気に食わない。あんなの、あの男が船に乗ってきたときから続く、この船が変わりねェという平和の象徴だ。
この感情をぶつける先が、いつも分からないでいた。こんなのは、今に始まったことではない。今更なにがそんなに気になるのだと、自分でも戸惑っていた。
睡魔など全くもってやっては来なかったが、目を閉じてしまえば、どうせすぐに眠れるだろう。腕を組み、もう一度瞼を閉じる。難しいことを考えるのは苦手だ。面倒くせェことこの上ない。
おれが身じろげばみかんの木が揺れ、落ちた葉が鼻先に乗った。わずらわしさに眉を寄せるが、甲板に出てきたコックの気配にぴたりと動きをとめる。
徐々に近づいてくる足音に意識を向けながら、寝たふりを決め込んだ。特にそうする理由もなかったが、なんとなくそれが一番楽だと確信していた。
「珍しいとこにいんのな、お前」
頭上から降ってきた男の声に、返事をすることも目を開けることもせず、ただじっとしていた。すると、鼻先に乗ったままになっていた葉を摘ままれて、その感触に眉が跳ねる。
花の香りは煙草の匂いにかき消されてしまった。おれの狸寝入りに気がついたのか、コックが薄っすらと笑う気配に舌打ちをする。
態度も、この匂いも、何もかも、全て気に食わない。それでも頑なに狸寝入りを続けていると、目の前にしゃがみ込んだコックに鼻を摘ままれ、うっとうしさにたまらず目を眇めた。片方だけ開いたその目できつくコックを睨みつける。触るな、吐き捨ててから、その手を叩き落した。
「なァ、なんで機嫌悪いわけ」
「うるせェ。あっち行け」
「いやだね」
コックは唇を尖らせて、駄々をこねるガキのような声を出した。無理矢理距離を詰められたが、逃げようにも木が邪魔をして動けない。殴るなりなんなりして男を振り払うのは簡単だが、ここで暴れては、ナミに叱られるだろうことは容易に想像がつく。あの女がキレたときが一番面倒だった。それだけは避けたいと、目の前のコックを両目できつく睨みつける。
それで簡単に身を引くような男であるはずもなく、ますます逃げ場を塞がれていく。力任せに木の幹へ背中を押しつけられ、ぐいと鼻先が触れ合う距離まで顔を近づけられたとき、つい視線を逸らした。
「てめェとおれァ、お付き合いしてるんじゃなかったか」
それともおれの勘違いかよ、クソマリモ、凄んできた男をおれも負けじと睨み返す。
まだ、メリー号に乗っていたときのことだ。今よりも幾分狭いキッチンで、すぐにでも消えてしまいそうなカンテラが、男の表情を淡く照らし出していた。
空島を出てすぐだったか、それともウォーターセブンにつく直前か、詳しいことは覚えていない。それでも確かに、目の前の男に好きだと言われた。そのときはただ、驚きしかなかった。喧嘩ばかりで、コックはそんな態度など、微塵も見せたことがなかったからだ。それでも、嫌悪感を覚えなかった時点で、おれもどこかおかしかったのだろう。
ことあるごとに唇を寄せ合うようになり、幾度となく身体を重ねた。ただ、それきりだった。その言葉を聞いたのは、あれ以来一度もない。
一体何が気に食わねェ、そう言ってますます迫ってくるコックに対し、不快感をあらわに舌を打つ。

「…そうは言うがてめェ、本当は女がいいんじゃねェのか」
「んだと?」
「ナミやロビンには毎日好きだの愛してるだの言うくせに、おれには何も言わねェじゃねェか」
それともてめェのお付き合いとやらは、やることだけか。もしそうなら叩っ斬ってやると、コックの肩を押し返す。
ますます苛立ちが募った。拍子抜けするほど簡単に離れていったコックは、否定も肯定もせず、小刻みに震えながらただ俯いている。それが答えだろう。眉間のしわが深くなっていくのを自ら感じ取ると、苛立ちの中に得体の知れない感情が入り混じっていった。
その感情に名前をつけることもできず、ただ切迫感が大きくなっていく。体のいい性欲処理の相手にされていたとは、とんだ侮辱だった。本当に真っ二つに斬ってやろうかと刀に手をかける。
「ほんとなんなんだよ…おめェはよ…」
困り果てたような、それでいてどこか甘味を含んだ男の声音に、怪訝な視線を送る。
頑なに顔を上げようとしないコックの顔を覗き込もうとしたとき、とんとんと肩を叩かれ、みかんの木から生えているロビンの手にぎょっと目を見開いた。ロビンの存在をすっかり忘れていたと、知らず視線を泳がせる。掌に唇が現れたのを視界の端に捉え、いつ見ても慣れる光景じゃねェなと苦笑した。
「お取り込み中悪いのだけど、ルフィがおやつを盗み食いしてるけどいいの? ってナミちゃんが」
ロビンの言葉と同時に勢いよく立ち上がったコックは、あんのクソゴム! と船中響き渡りそうなほどの大声で怒鳴り散らした。怒りのためか、見上げた男の顔は火を噴きそうなほど真っ赤になっている。
別にいつものことじゃねェか。不思議に思っていると、コックは大げさに足を広げて、ぎくしゃくとぎこちない足取りで梯子へ向かっていった。その腕も足も、関節が全く曲がっていない。かなり憤りを感じている割には、随分緩慢な動きだった。まるでぜんまいじかけのおもちゃのようだ。
そんな中、珍しくロビンへの礼も賛辞も、忘れている男を訝る。キッチンへ降りる直前、振り向いたコックになぜかきつく睨みつけられて、呆気に取られ、忘れかけていた怒りを取り戻した。
「すぐ戻ってくるから絶対そこ動くんじゃねェぞ! いいな、クソマリモ!」
寝るなよ! 顔を真っ赤に染めたまま指を差され、苛立ちに顔をしかめる。なんなんだあいつと、おれが素直に疑問を口にしてから、手を生やしたままのロビンへいつまでそうしてるつもりだと唇を尖らせた。
今更、あんな失態を見られてしまったことへの羞恥に駆られはじめる。できれば、このことについて言及されるのは避けたかった。
「鳴く蝉よりも、鳴かぬ蛍が身を焦がす」
「あァ?」
「ってことわざ、知ってるかしら? ゾロ」
どういう意味だとロビンに聞き返す前に、その手は消えてしまい、答えは煙に巻かれてしまった。あとは自分で考えろと言われているようで、憮然として腕を組む。
図書室はすぐそこだ。探したことはないが多分、辞書も置いてあるのだろう。言葉の意味はすぐに調べられるが、知らないほうがいいような気がした。
からかわれているようだと眉を寄せたのち、とりあえずはコックが戻ってくるのを待てばいいと、もう一度みかんの木に背中を預ける。瞼を閉じた瞬間、真っ赤になった男の顔を思い出し、それにしてもあの動きは傑作だったと堪えきれず喉を鳴らした。


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