フューネラルマーチ (海賊 ルゾロ←サンジ) 目の前に広がる異様な光景に視界が酩酊した。鼻孔をくすぐる死の匂いにサンジの心臓は早鐘を打つ。血の海へ一歩足を踏み入れれば、粘ついた感覚が足元を掬った。 吐き気がする。靄がかかったように、脳は思考を停止させた。指一本触れただけで倒れてしまいそうな男の肩を掴むが、まるで歪んだようにぐにゃりとしていて感覚が掴めない。まるで、掌が肉球にでもなってしまったかのようだ。 「おい、てめェ、歩けるか」 深く息を吸った途端、すっかり忘れていた身体中の痛みが蘇ってきた。どうせなら忘れたままでいたかったと嘲るよう口端を上げる。 しかし、男の肩を掴む手に感覚が戻ることはなかった。男を担いで歩けるほどの体力は残されていない。 サンジの言葉に小さく頷いた男を確認し、ホッと息をつく。簡単に死ぬような男じゃない。大丈夫だ。現にこうして、生きて立っている。サンジはそう自分に言い聞かせながら、ふらつく男に肩を貸した。瞬間、脇腹が一層痛み、上手く呼吸ができない。一歩足を踏み出せば男の身体が大きく傾ぎ、そのまま崩れ落ちてしまいそうになるのをなけなしの気力で留めた。 ますます全身が鞭を打たれたように痛み、小さく呻き声を上げる。男の肩を抱え直すと、その身体が倒れ込んでしまわないよう腰に手を回した。ずっと、触れてみたいと渇望していた相手だ。今それが叶ったところで、諸手を上げて喜べるほど落ちぶれてはいない。 「……行くぞ、クソ剣士」 耳元で男の息が震えたのが分かった。それを返事と取り、今度はゆっくりと足を踏み出す。すると、引きずられるようにして男も動いた。 本当に少しずつ、二人は歩みを進めていく。早くチョッパーに看せなければと、サンジの焦りは募る一方だ。 まるで死の淵へ誘うように男の血液が足に絡みつく。振り払おうと地面に靴底を擦りつけるが、密着した身体は冷えていくばかりで気休めにもならない。 何があった。なんでおれは、何もできない。腸が煮えくり返る思いだった。 仲間たちの姿が見えてくると同時に、サンジは必死で声を張り上げる。頭の芯は不思議なほど冷えきっていたが、チョッパーを呼ぶサンジの声には余裕など微塵もなかった。からからに渇いた喉が痛み、上手く声が出せない。 そんなサンジの様子に、仲間たちが何事かと駆け寄ってきた。皆一様に、ゾロの姿を認めた瞬間、顔を青くさせる。サンジにもルフィが必死で何か発していることは分かったが、脳はその意味を理解することを拒否した。隣の男はきっと、サンジの存在よりも、一心にルフィを感じている。 そのときルフィがどんな顔をしていたのか、よく覚えていない。多分サンジは、その顔を一瞥たりともしなかった。 チョッパーに男を引き渡すと、気が抜けたのかそのまま倒れ込んでしまう。視界がぼやけ、やがてサンジは意識を手放した。 ばたばたと走り回る無数の足音に目を覚ました。硬く冷たいコンクリートが、徐々に意識を覚醒させていく。サンジの視界の先には、今にも涙を溢れさせてしまいそうなチョッパーの姿が見えた。横たわる男も同時に捉え、勢いよく身体を起こす。すると、全身を貫くような痛みに襲われて堪らず悪態をつく。こんなの、あの男に比べたら、かすり傷の内にも入らない。それでもやはり、一番痛むのは男に殴られた脇腹だった。 チョッパーのすぐ脇には真っ赤に染まったコットンの山ができている。サンジが気を失っていたのは、ほんの数分にも満たないようだった。 瓦礫に背を預け座り込むと、その光景をしかと目に焼きつける。別の海賊船の船医たちも男を囲み、仲間たちも自らの身体に鞭を打って男のために走り回っていた。全く迷惑な話だと、顔を歪めて煙草を取り出す。 掌にこびりついた男の血液はすっかり固まってしまっていた。何度か手を開閉させれば、赤い固体がぽろぽろと身を剥がす。サンジは茫洋にその様を眺めていた。 そのとき、チョッパーが男の名を必死に呼ぶ声が聞こえ、たまらず身を乗り出した。未だ血が止まらないのか、コットンの山は崩れて地面に散乱している。 頭痛がした。命なんてとうに捨ててる、男がそう言ったのはいつだったか。バラティエで、鷹の目と闘う直前だった。 背後から近づくルフィの気配に、サンジは乗り出していた身を元に戻す。何事もなかったかのような態度を取り繕い、ルフィがやってくるのを待った。 曲がっている煙草を指でまっすぐに整え、そこに火をつける。折れた箇所からも上がる煙がわずらわしいが、目を眇めるだけで、消すことはしなかった。 「あいつの名前、お前が呼んでやった方がいいんじゃねェの」 ひどい皮肉だと、言ったあとで顔をしかめる。自分で自分の言葉に傷ついてちゃ世話ねェなァ、と声には出さず鼻で笑った。 ルフィに至っては、男が死ぬかもしれないだなんて、微塵も思っていないのだろう。いつだってそうだった。バカみたいにまっすぐ、男が死ぬはずはないと、疑っていない。 ルフィは海賊王になる男だ。一切の迷いがない男の言葉が頭を掠める。プライドのかけらもなく七武海に頭を下げる姿を思い出すが、本当に現実だったのか分からなくなるほど、サンジの中でどこかおぼろげな記憶だった。 そのときサンジは、ただ、そんな男の背中を眺めることしかできずにいた。やはり一生、この男には届かないのだと、はっきりと思い知らされる。 わずらわしい煙草の煙がひとつになったとき、視界の端に、震えるルフィの手の甲を捉えた。その拳はきつく握られていて、骨も血管も浮いて見える。にわかには信じられないその光景にサンジは目を見張り、そのとき初めて、立ち尽くすルフィの顔を見上げた。その瞬間、息を呑み、見なければよかったと心底後悔した。こんなルフィの顔を見たのは初めてだった。いや、ウソップが船を下りると言い、決闘をしたあの日以来か。だがそれとはまた、別の感情が漲っている。 「ゾロが死んだら、おれも死ぬぞ」 サンジは煙草を取り落とし、ルフィの言葉を理解すると同時に、ひどく頭に血が上るのが分かった。先程とはまた違った怒りだ。全身の痛みなんか忘れて、勢いのままルフィに掴みかかる。性急に立ち上がったせいか、脳が霞んだ。震える腕でルフィの胸倉を掴む様は、まるで縋りついているようにも見える。ルフィは動じず、無表情で麦わら帽子を深く被り直した。 「てめェが! んなこと言っていいと思ってんのか…! クソ野郎ッ!!」 ふざけんじゃねェと、力任せにルフィを怒鳴りつける。周囲の視線が一斉にこちらに向けられるのが分かったが、そんなことに構っていられる余裕はサンジにはなかった。 ルフィが一言、ゾロは大丈夫だ、死なねェと、そう言えば済む話だ。その一言でどれだけの者が安心できるか。おれもその中の一人なのだと、認めざるを得なかった。 今まで不可能を可能にしてきた男だ。ルフィが大丈夫だと言えば、本当になんとかなるのだと、この船のやつらは心のどこかでそう思っている。 「ちょっと二人とも! 喧嘩してる場合じゃないでしょ…!」 普段、サンジと男の喧嘩を止めるのとはまるで違う、ナミの悲痛な叫びに胸が痛んだ。仲間同士の喧嘩を一等嫌うチョッパーでさえ、こちらに意識を向ける暇もないようで、しっかりしろゾロ! と男の名前を絶えず呼び続けている。そのとき、男が今、どんな状態にあるのか。サンジは知るのが恐ろしくなった。 「約束!」 「あァ!?」 「したんだ……ゾロと」 にしし、と笑いながら顔を上げたルフィの表情に、サンジは言葉を失った。掴み上げていた胸倉を離し、クソッと髪を掻き乱す。 男が途中で野望を断念するようなことがあれば、腹を切って詫びろと、仲間になるときに言われたのらしい。どうせあのバカはそんな約束忘れてるぞ、サンジは元の位置に座り直して、落ちた煙草を拾った。 そもそも、ルフィが思っているような意味で男がその発言をしたわけではないのだろう。死んだらそこまで。そういう考えの男なのだ。未だ燻る煙草の火種を消し、サンジは深々とため息を吐く。疲労感が一気に身体を襲う。 これじゃあおちおち、死ぬこともできねェなァ。ぴくりともしない男を眺め、鼻で笑ってやった。 ルフィにあんな顔をさせられるのはきっと、あの男しかいないのだろう。それは逆だろうと同じはずだった。 サンジが男の腕を掴み損ね、無様に倒れ込んだとき、男は一体どんな顔をしていたのだろう。薄れゆく意識の中で、サンジがそれを確認することは叶わなかった。少しぐらい、ルフィへ向ける視線と同じものを、向けられていたらいい。 「ほらよ、腹減ってんだろ」 「うっひょ〜! ありがとうサンジ!」 崩れ落ちたモリアの城の跡地で、夜が更けるまで宴をした。ナミやロビンはさすがに船へ戻ったようだが、男共は高鼾を掻きながら床に転がっている。 そんな中、サンジの鼓膜を地響きのような轟音が打った。数瞬考えたのち、腹の音だと気づく。こんな音を鳴らす男を、サンジは一人しか知らない。遅れて音の先へ目を向ければ、腹が減ったと騒ぎもせず、椅子に座り込むルフィの姿を捉えた。ルフィの顔の先には、男が静かに眠っている。 まだ目を覚まさないのかと、眉をしかめてから一度船に戻った。サンジの立てる物音に気づいていないわけではないだろうが、ルフィは振り返らない。 簡単に飯を作り、それをルフィに出してやれば、いつもと変わりない太陽のような笑みを向けられる。もう一脚椅子を手繰り寄せ、サンジもルフィの隣に腰をかけた。 そのとき、一度どこかで見た光景だと、既視感を覚える。煙草に火を灯した瞬間、ココヤシ村での光景が蘇った。そうして、あのときからおれたちの関係は何一つ変わっていないのだと、サンジは無性にこみ上がる笑いを噛み殺した。 「ゾロは相変わらず寝ぼすけだなあ」 腹が膨れたら今度は眠くなったのか、ルフィは欠伸混じりに言った。本当に、本能のままに生きるやつだ。いや、今は眠っているこの男だってそうだろう。 サンジは足元に落ちていた麦わら帽子を拾うと、少し力を込めてルフィの頭に被せてやった。サンジの掌に押され、前のめりになったルフィは、何すんだよと不満げに唇を尖らせる。麦わら帽子に手をやるルフィは、それでも笑顔を見せた。 男はもう、丸二日眠っていた。全身包帯で覆われた男の身体は、月明かりに青白く照らされている。 紫煙をなるべく空高く吐き出して、このまま煙が雲となり月を覆ってしまえたらいいのにと、あまりにもバカバカしいことをサンジは大真面目に考えていた。 「魚人島には珍しい酒も肉もたくさんあるんだろーな」 楽しみだなァ、よだれを垂らすルフィに呆れ、サンジは視線を正面へ向ける。 そもそも、深海に肉はねェんじゃねェか。肩をすくめれば、ルフィはまるでこの世の終わりのような顔をして、がっくりとうなだれた。肉だけじゃなく、酒も勘定に入ってるんだな。サンジは伸びた煙草の灰を落とす。 しかし、肉はなくとも珍しい魚介類はたんまりあるのだろう。コックとして腕が鳴ると、まだ見ぬ魚人島へ思いを馳せる。それに、魚介類に含まれるビタミンは貧血によく効く。 目の前でぴくりとも動かない男を眺め、欠伸を噛み殺した。 「しっかしよう、やっぱり魚人島と言やあマーメイドだろ!」 「あっはっは! サンジらしーな!」 「アホ、人魚にときめかねェ男がいるか! ったく、てめェは本当に健康優良男児かよ」 「だってよお、ゾロの方が100倍いいに決まってるだろ」 幻のマーメイドを想い、胸をときめかせていたが、ルフィの一言にサンジの肩は跳ねた。無理に口端を上げてごまかすような笑みを浮かべる。へいへい、相変わらずお熱いこって、そう茶化すような声を上げ、降参だと両手を上げた。 愛おしげに男の髪を撫でるルフィの姿を見ないよう、サンジは足元へ視線を落とす。あのとき靴底を縛りつけた男の血液は、きれいに洗い流した。 そうして、普段いかにも硬そうに見える男の髪は、ルフィが触れているときだけは、不思議と柔らかそうに見えた。ふかふかと、まるでサニー号の芝生を連想させる。どっちにしろ、確かめようもない。 もし、ルフィより先にサンジが男と出会っていれば、何か変わっていたのだろうか。俯いたまま手を組むと、男の髪の感触を一心に想像した。 そのとき突然、隣に座っていたルフィが地面に倒れ込んだ。サンジは弾けるように顔を上げて、目を白黒させながら慌ててルフィの顔を覗き込む。ばくばくと鼓動が高鳴り、不安の波に襲われる。 すると、ルフィが気持ち良さそうに鼾をかきはじめた。ご丁寧に涎まで垂らす始末だ。サンジはしばらくその様子を眺め、ただ睡魔の限界がきただけかと安堵する。 七武海が何かからくりでも仕掛けていったのではないかと、ひどく混乱した。だが、ありえない話ではない。こうしてルフィが生きているのは男の成果でもあり、奇跡でもあるのだ。男のようにバカ正直に約束を貫き通す者ばかりの世界ではない。ルフィの受けたダメージを、男が全て請け負ったのだと、あとになって聞いた。ゴムの身体だからこそ、ルフィには耐えられていた傷でさえ、だ。男がこうして生きていることこそ奇跡に近い。 血の海が、サンジの脳裏に鮮明に蘇る。まるで魚を捌くときのような生臭さが鼻を掠めたような気さえした。 浮かせていた腰を下ろして一人悪態をつくと、吸い殻を靴底で踏み付ける。粘ついた血液の感触が、足の裏には顕著に残っており、震える手で新しい煙草を取り出した。意味もなく靴底を地面に擦りつけ、男に向かって紫煙を吐き出す。 起きて、いつものようにケムいんだよクソコック、そう文句を言えばいい。起きるどころか噎せやしねェ。サンジは自嘲するように喉を鳴らした。 屋根のない城に風が吹き込んで、男の髪が風に揺れる。引き寄せられるようにそこへ手を伸ばすが、サンジはすぐに腕を引っ込めた。ルフィは未だ、足元で豪快に眠っている。 今、男の髪の感触を知ったところで、何も変わりはしない。肌寒さに身をすくめると、一つくしゃみをして鼻をすすった。 |