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エントランスでの邂逅の後、私は1人だけ別室に通され腕の治療を受けた。ジャージを脱ぐと、二の腕に出来た小さな裂傷がピリピリと痛んだが、痛み止めと適切な治療のおかげで、だいぶ気にならなくなった。
「上着はともかく、シャツは着替えた方がいいね」
治療を終えた医療スタッフが、赤く染まったシャツを部屋に置かれた編み籠の中に放り込む。無事だったリボンだけを返されて途方に暮れていると、器具を手早く片付けたスタッフが不思議そうに首を傾げた。
「もう行っていいよ。局長が呼んでるから、外の局員に案内してもらってくれ」
「服は……」
「ああ、とりあえずそこの検査着使って。局長のとこに行く前に部屋に行けばいい、検査着はいつものランドリーボックスに入れちゃってくれたら、勝手にこっちに戻ってくるから」
一気に言われて頭が混乱してきた。
「へ、部屋……?」
「君の部屋だよ。荷物はちゃんとそのままだからね、安心して」
ああ、やっぱりそうか。
納得しながらも驚きでジャージとリボンを取り落としてしまった。それを拾い上げながら考える。
私はこの地下施設にいたのだ。そしてそれを正しいと理解できる自分もいる。この妙な感覚のことを言うべきか逡巡して――飲み込んだ。言ってはいけない、そう思ったからだ。
(どうせならもっといっぺんに思い出せたらいいのに)
頭の中がぐちゃぐちゃになりそうだ。まるでデジャヴのバーゲンセール……、とオヤジくさいことを思って自分に自分で自己嫌悪した。我ながら緊張感がなさすぎる。
「ありがとうございました」
お礼を言ってから医務室を出ると、黒コートが2人立っていた。
「局長がお呼びだ、司令室へ」
「ええと、その前に着替えても……いいですか」
2人は顔を見合わせたが、少しだけならと頷いた。
局員たちは私を挟むように歩く。前の人が先導するようにずんずん進んでくれるおかげで、自分の部屋はどこかと尋ねる心配は杞憂に終わった。
ジプスの施設は無機質さとレトロフューチャーが合わさったおかしな造りをしている。どこからか歯車の回る音が響き、医務室から見た窓は純度が低く濁っていた。
鉄骨や木材、柵の古さから見ても、造られてから相当な時間が経っているはずだ。
(ジプス……、ジプス。一説では平安時代より興った霊的国防機関……)
思い出せる情報を、ゆっくり心のなかで整理する。私はここでどんな仕事をしていたのだろう。悪魔を、使って。
ある扉の前まで来ると、先導していた局員が振り返って見下ろしてくる。
「着替えは迅速に」
頷いてから扉を開けた。
一歩、踏み込んだ瞬間に感じる既視感。
(私の部屋だ……)
飾り気も何もない、小さな個室。はめ殺しの窓の向こうでは歯車がくるくると周り続け、ベッドと椅子と必要最小限のロッカー。
壁にくっつけて置かれた木製の簡易テーブルには、何かの資料と本が1冊乗っている。
ガランとした部屋に生活感はほとんどないけれど、それが当たり前のことだと受け入れた自分がいた。
ロッカーを開くと、数着ほどハンガーにかけられている。
目を引いたのは黄色の制服だった。黒コートたちの黄色版、といったデザインで、マコトと同じ白いブーツと、カーボンネクタイが一緒に収められていた。これも……ジプスの制服だ。
「早くしろよ」
「っ、はい!」
ドアの向こうからの声に感傷に浸っている暇も奪われ、私は制服を無視して新しいシャツを手にとった。
検査着は脱いでベッドに投げ、清潔な布の感触に目を細めながら袖を通す。制服のブレザーもあったがそれを着る気にはならず、まったく同じデザインのジャージを見つけたのでそれにした。何故2着あるんだろうという疑問はこの際置いておく。
敗れたジャージもベッドに投げて、ハンガーだけを戻そうとして気づいた。
同じジャージとシャツ、そしてスカートまでもが、奥にあったもう1本のパイプにずらりと並んでいるのを。
「……ウソ」
司令室では、マコトとヒビキ、そして銀髪の少年がいた。
私たちがいる場所は高所、6つの大時計が縦に連なる足場の最上階で、数十メートル下に広がる空間には何十、何百ものコンピューターと、それに向かい働いている局員たちがいる。彼らが着ているのはロッカーにあったものと同じ黄色の制服だ。
「来たか」
私に気がついた銀髪の少年が顔を上げると、背中を向けていたマコトとヒビキも振り返った。
「イリカさん!」
「……帰還しました、局長」
心配そうに名前を呼んでくれたヒビキには悪いけれど、私は銀髪の少年に向かって答えた。
彼の名は峰津院大和(ほうついん やまと)。若干17歳にして、この地下組織ジプスの頂点に君臨する峰津院家の嫡男――。
エントランスで姿を見たときに思い出した情報だ。彼を、私は何故か畏れている。
ヤマトは片眉を上げて言った。
「よく戻って来れたものだな、神崎イリカ」
厳しく突き刺すような声音に耐えられるよう、無意識に拳を握りしめた。
「ちょっと待ってください! 彼女は一体……、イリカさんは、ジプスの人間なんですか?」
割り込んだのはヒビキだった。無理もない。彼には何がなんだかわかっていないはずだ。私でも抜け落ちた部分が多すぎて混乱しているのだから、ヒビキが理解出来るはずもない。
けれどわかることがある。私はとても、まずい状況にあるのだということ。
「元、だ」
その言葉に目を見開いたのはヒビキだけじゃなかった。自分のことがわからないのに、反論できない自分がいる。
「じゃあ、イリカさんの記憶がないのは、ジプスで何かあったからなんですか」
「記憶がない?」
ヒビキの問いに、ヤマトは訝しげな顔をして私を見た。真偽を問われているのだと理解して、ゆっくりと頷く。
それを見てヤマトはむっつりと黙り込んだ。
「記憶が……ないのか? だが、私の名前を呼んだだろう」
不可解そうにマコトが言う。
「見たり聞いたりするとよく思い出せるみたいです。この施設にも見覚えはありますし……」
そしてこれまであったことを私は話した。ヤマトは黙ったまま、何かを考えている。
「局長……」
マコトが不安そうに声をかけると、ヤマトは腕を組んだ。
「迫」
「はい」
「久世響希を連れて行け」
「! イリカは……」
「神崎イリカは処置室だ」
それを聞いたマコトの顔が歪む。私の背中も冷や汗が伝った気がした。
ヒビキはどう受け取ったらいいのかわからないらしく、私たちの顔を見回している。
「どうした、命令は伝えたが」
「いえっ……、局長、尋問をするなら私も立ち会わせてください」
ヤマトはちらりとヒビキを見て少し考えていた風だった。ややあって溜め息をつくと、「いいだろう」とマコトに頷いた。
「久世響希、お前たちは明日、迫に送らせる。今日は部屋に戻り休むがいい」
「あのっ……」
「迫、その娘を連れて先に行け」
ヒビキの言葉を無視して命令すると、もう話すことはないとばかりに背を向けてしまった。司令台の前に立ち階下の局員たちに別の命令を下し始めてしまえば、誰も反論なんてできない。
私も怖い気持ちでいっぱいだ。どうしてこんなに怖いのか、元・ジプスというのはどういう意味なのか。これから起こる『尋問』ですべてがわかるのだろうか。
ヒビキは呼ばれた他の局員に連れ出され、マコトが私に近づく。
「では行こう。……私も真実が知りたい」
小さく呟いたマコトの表情は、どこか悲しげだった。
その表情を見て思い出せたのは、自分の部屋の簡易テーブルの上に置かれた小さなパソコン。画面にはメール画面。ウィンドウが閉じられ、暗い画面に映り込んだ自分の顔。
「っ、どうして……」
その顔は、恐ろしいほどの無表情だった。
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