出来事の上書き
世の中には知らなくていい事もあるんだなと嫌でも痛感してしまったのは2日前のことだった。


「(寄り道なんてしなきゃよかったな)」


それは講義が終わった後の事。
使いたい教材を求めて図書館へ足を運んだのだが、その帰り道に事件は起きていた。

私が通う大学は、図書館の他にいくつか施設が入っている建物が別館として建てられている。

しかし本館から多少の距離がある為、5限終わりのこんな時間帯に利用する学生は少ないのだが、さっさと帰ろうと階段を下っていると地下の方から女の子の声が聞こえたのだ。
単なる話し声ならば気にすることなどなかったのだが、悲鳴のような、何かを拒絶しているかのような苦しそうな声。

無視するのは何だが後ろ髪を引かれる思いもあり、地下1階の奥にある教室へ足を忍ばせて近づくと……


「?!」


初めて見る生々しさの光景に言葉を失った。
ここからだと女の子の顔ははっきりと見えて、男性の方は後ろ姿しか見えないがあの特徴のある髪型は。
いやいや彼に限ってそれだけはないと首を横に振るが、綺麗で長い黒髪の女の子が「悟空さっ」と声を上げるから私の中にある何かが崩れ落ちた。


そこからは頭が真っ白になりながら、無事に家へ辿り着けたのは奇跡に近かっただろう。


「随分と不細工ヅラしてんなぁ」

「あっ、ごめんなさい。いらっしゃいませ」

「どした?」


頭が真っ白になったはずなのに、私の脳内は悟空くんでいっぱいいっぱいだった。
どんなに忘れようとしても、どんなに否定しても、瞼に焼き付いてしまったアレは簡単に消せない。

置かれた缶コーヒーのバーコードを読み取り、万札を預かった後にお釣りを返す。
そんな私の一連の流れが不満だったのか、つまらなそうな声が私の目を覚ました。


「オレは番犬みたいに吠え掛かるナマエが好きなんだけど」

「ああ、何だカカロットか。これから仕事? 頑張ってね」

「マジでお前どうした」

自分の額に右手を当て、私の額にはカカロットの左手が当てられていた。
この際熱があった方が良かったと言うから、心配しているのか倒れ込んでほしいのかいまいちわからない。

「じゃあ前みたいにキスしたら、またお前は吠えるのか?」

「キス? あー、あったあった。すっかり忘れてたよ」

今更だがこのコンビニにはレジ担当の私と客のカカロット1人しかいないのでまぁ一応大丈夫である。因みにブロリーさんは休憩中。



「ナマエが嫌がることすら塗り替えられるイベントって何だよ! 吐き出すまで動かねえぞ!」

「ちょっ、わかってたけどやっぱり嫌がらせだったのね! 安心して、今でもちゃんとあなたの事は嫌いだから」

「今聞きてえのはそれじゃねえよ」


低い声と冷たい眼の合わせ技を克服しない限り、この人には一生勝てない気がした。
とは言え、逢いびき場面を目撃しましたとはもちろん言えるはずもなく、無言の抵抗で睨みつけると、

「今回は特別に許してやるよ」

フッとカカロットの顔が緩んだ後に、唇に触れる柔らかいものと、わざとらしさ全開のリップ音。


そして沸騰直前の私にとどめの一言。

「強いて言うなら、オレでいっぱいになってるナマエが好きだよ」


いつもならここで終わるはずだけど、多分、初めてやり返そうと思えた。
何だが悔しくて、カカロットの胸倉を掴んで顔を引き寄せる。
触れるか触れないかの距離感で、一か八かで言ってみた。

「この後、お店に行ってもいい?」

カカロットは一瞬驚いた顔を見せていたけれども、すぐに余裕の笑みを見せた後、優しく頭を撫でられて「待ってるよ」と嬉しそうに言われた。

ナンバー1がたかが1人の客を引っ掛けたにしちゃ少し……大袈裟とも言えるぐらい本当に嬉しそうで、これには私の良心が痛んだ。

これが演技だとしたら恐るべしである。


「じゃあ後でな」

元気よく手を振って去って行こうとするカカロットに向かって「お客さん忘れてますよー」と声を掛けた。
その言葉に何かを思い出したのか、私に近づくと額に落とさられた唇。
そして彼は満足そうに仕事へ向かうのだった。


(だからコーヒー忘れてますよ)
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