彼を好きになった貴女は……―― 上

彼女の話をしよう。
私が偶然通りがかった、彼女の失恋の話だ。



その晩、私がそのドラッグストアへ行ったのは、単なる偶然だった。
偶然バイトが遅くなり、スーパーまで遠出をする気が萎えた。偶然食材以外にも買わなければならない物があり、コンビニでは用が足りないと思われた。偶然下宿の近くにドラッグストアがあった。
だから、そこで彼女と会ったのも、偶然以外の何物でもなかった。


店内で見かけた彼女は、空のかごを足下に置いて、椿油のコンディショナーを吟味していた。講義中でも滅多にないほど真剣な表情だ。
その尋常ならざる様子に、声をかけようか、それとも気付かなかったことにして通り過ぎようか迷っていると、彼女の方が気付いて声をあげた。
「あれ?」
「……こんばんは」
「こんばんはー。買い物?偶然だねー」
いつも通り、のほほんとした表情で笑う彼女に「そうだね」と返しながら、目的のシャンプーを自分の持っているかごに入れる。ついでだからと、いつものコンディショナーを手に取ったところで、彼女が話しかけてきた。
「ねえ。これとこれ、どっちが良いと思う?」
彼女が持っているのは、どちらも洗い流さないタイプのコンディショナーだ。『傷んだ髪を集中補修』とか、『寝ている間にダメージケア』とか、よく耳にするあおり文句が入っているが、使ったことがないので違いがわからない。
それに――、
「……そういうの、必要?」
彼女の髪は、羨ましいくらい綺麗な黒髪だ。もちろん手入れは必要だろうが、少なくとも、彼女が今手にしているような『集中ダメージケア』は要らないだろう。
「うーん……」
納得がいかないのか、彼女は自身の髪の毛先を指で弾く。
「でも、枝毛もあるし……やっぱりこういうの、した方が良いのかなぁって思ったんだけど」
「そこまで傷んでるようには見えないけど。んー……気になるなら、これ使ってみたら?」
私は、以前友人に薦められたものを手に取った。普通の洗い流すタイプのものだが、使い勝手が良いらしい。その分、他の安物よりも少々値が張るが。
彼女が持っているものよりも妥当だろうと思って薦めたのだが、彼女は首を横に振った。
「そんなに、量は要らないんだ。時間も無いし」
意味がわからず、首を傾げると、彼女は「あぁ、」と言って補足を入れてくれる。
「来週、髪切ろうと思ってるの」
「……切るのに、枝毛を気にするの?」
ますます意味がわからない。私がそう思っていると、彼女ははにかむようにわらった。
「彼と、遊びにいくから」
「へぇ?」
話が、意外な方向へ飛んだ。
彼女に彼氏がいること自体は、まったく意外ではない。髪に限らず、外見は可愛らしいし、性格も優しい。文武両道とはいかないが、才色兼備ではある。外見を裏切らない運動神経も、女の子としては愛嬌の内だろう。そんな彼女に彼氏がいることは、何ら意外ではない。
だが、『男にモテる』というよりも『男女共に人気がある』イメージのある彼女が、特定の誰かに見せるために見た目に気を使うという、それが意外だった。
「でも、まぁ……彼氏とデートに行くなら、気にして当然か……」
意外ではあるが、理解はできる。そう思って納得しかけ、はたと気付いた。
「でも、それなら、デートの前に髪を切ったら良いんじゃあ……?」
今からトリートメントだ何だと騒ぐより、効率的なはずだ。
そう言うと、彼女は、悪戯が成功した子供のような、楽しげな笑みを浮かべた。
「その順番は、変えられないの」
「何で?」
私は、ただ首を傾げるしかない。

「来週、別れるから」

彼女の笑顔は心底楽しげで、口調は告げる内容と真逆だった。
「来週が最後なの。だから、彼と遊びに行った後、失恋のセオリーに則って、ばっさりいこうと思ってるんだ」


強がる風もなく、彼女は始終楽しげに『予定』を教えてくれた。
彼女たちは、お互いにどちらが言い出したともなく、別れることが決まったのだそうだ。どちらかが浮気をしたとか、喧嘩をしたとか、そういうことは一切ないらしい。それどころか、一緒にいて楽しくなくなったわけですらないと言う。
けれど、彼女たちは別れることにした。
「でも、別にお互い嫌いになったわけじゃないし、それならせっかくだから『最後の思い出』を作ろうかって話になってね」
別れる前に、もう一度だけ、恋人として会うことにした。
それが、次の日曜日なのだそうだ。
今日は月曜日だから、ちょうど一週間後になる。
「今から何着て行こうか迷ってるんだぁ。初デートだって、こんなに迷わなかったのに」
そう言って、彼女は堪え切れなかったように声をあげて笑った。
「今頃、彼も同じことを思ってるんじゃないかなぁ。今までどこに遊びに行くかなんて、行き当たりばったりで当日決めてたのに、来週は今からはりきってデートプラン練ってるみたい」
だから、と、彼女は続ける。

「だから、来週は、今までのどんな時よりも綺麗な私で行きたいの」

その言葉は、実に彼女らしいものだった。
知り合って二年にも満たない、ただ同じ学科の顔見知り程度の私が、らしいとからしくないとかを言うのはおこがましいのだろうけれど、そう思う。
最後とわかっている次の逢瀬を、何の悲壮感もなく、ただひたすらに楽しみにしているのは、とても彼女らしい。
「でも、買い物に来たは良いけど、普段買わないものだから、何が良いのかわからなくって……」
そういうところまで、非常に彼女らしいと思った。
「こういうのを使わずにその髪だなんて、なんて羨ましすぎることを。それ以上を望むなんて、贅沢者め」
だから、私は、精々悪態をつきながら、彼女の買い物に付き合うことにしたのだ。



次の月曜日、一時間目の講義に現れた彼女の髪は、肩口の辺りで切り揃えられていた。本人の言葉を借りるなら、それはもう、見事に、ばっさりといったものだ。
いつも彼女と一緒にいる友達は、一瞬言葉を失い、すぐに気を取り直して彼女を気遣う。
「ど、どうしたの!?」
「何で、もったいない!」
「何かあったの?」
口々にかけられる声に興味本位のものが混じらないのは、彼女の人徳だろう。彼女の周りに集まる友達は、皆、彼女の長かった髪を惜しみ、あるいは彼女を心配している。
私は、彼女を取り巻く輪から遠い教室の隅から、ぼんやりと成り行きを眺めていた。事情を知っているのは、この教室では私だけらしい。
髪を切った理由を訊かれ、彼女は少しだけ苦笑していた。
「何でもないよ。なんとなく、切ってみただけ」

そんな答えで皆が納得しないことは、彼女もわかっていたのだろう。


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