私だって、少し前まではちゃんとしてた。

ちゃんと恋をして、清らかな思いで彼を思って、ドキドキして、嬉しくって、好きになって、好きになられて、彼以外の人なんて考えられないって、そんなさくら色に染まった恋をしてた。
だから考えてもみなかったの、彼に愛されているはずのわたしが、こんな風になるなんて。だって、まさか、でしょう。

応答待ちの携帯の発信画面には名前は表示されなくて、でもわたしの発信履歴は日に日に空白で埋まっていく。埋まるのに、埋まらない、空っぽ。私の心だ。

「……ん、そう、あそこ。じゃあ、十時に」

そんな要件だけのそっけない電話は彼とだったらあり得なくて、これはそう、たぶん、恋していない故の合理性なのだ。私たち、恋なんてしていない。
このことだけは、勘違いしてほしくない。そして、勘違いしたくない。

それでも時折私たちはこうして身体を合わせる。黙って、静かに、まるで罪を赦しあうように。

「寝不足?」

私の目の下をなぞって、小さな声で問いかけた彼に驚いて、薄く目を開けて睨みつける。

「余計なこと言わないで」

あなただって、思い出しちゃうでしょう。彼は肩を竦めて、ごめん、は呑み込んで、黙って指を滑らせる。わたしはまた目を固く閉じて、彼を思い出そうとする。目の前にいる彼ではなく、わたしの大切な、憎らしいひと。

少し驚いたように私を見るあの顔と、口付けるたび私の顔を掠める細い髪。華奢な肩、細い指、その息遣い。

小さく息を飲み込んで、意識を手放そうとして、肩を掴んで、しがみついて、そして気付く。今私を抱いているこの人は、私のものじゃない。私は、この人のものじゃない。そして私たちは今日も互いを慰め合いながら痛めつけあう。もういつからこんな不毛な夜を繰り返しているんだろう。

こんなことやめた方がいいって、お互いよくわかっている。だけどどうしようもなく寂しい夜が来る。抱きしめて欲しい朝が来る。
道行く人誰でも構わないから口付けしてほしいようなそんな夕暮れに、私たちはどうやって立ち向かえばいいの?

私にはまだわからない。私たち二人はこうして抱きしめ合うことでしか、お互いを救えない。

「本好」

帰り際、サイドテーブルに置いた腕時計をはめ直している彼を寝転びながら見ていた。わたしはまだ下着さえつけていなくて、しっかりとシャツのボタンを閉めた本好に見つめられるとなんだかすごく駄目な人間になった気がした。先程までの行為を思えば尚更だ。

「あのさ「何」

返事をしない本好に痺れを切らして続けようとした私の言葉を、彼は静かに遮った。

「まさか、今更もうやめようとか言い出さないよね」

淡々とした口調からは怒りも悲しみも感じられず、ただ少しの侮蔑が滲んでいた。そしておそらく、ほんのほんのすこしの、それでも鮮烈な不安。

「違うよ。そんなこと……」

「言えるはずないよね」

この関係を始めたのは君だろ。
そう言われれば何も言えなくなって、さっきまで共犯者だった私たちは見つめ合う。

私を撫でる本好の指先に、柔らかい愛が滲んでいるのは知っていた。
時折見せる眼差しが、ひどく傷ついていることも。

「ごめん」

彼が欲しいのはそんな言葉じゃない。わかっていたけど、他にどうしていいかわからない。彼の望む言葉を、私の口が紡ぐことはきっと永遠にない。

「じゃ、また……」

今度。何の気なしに口からこぼれたありふれた挨拶を呑み込むように、らしくない乱暴なキスをされた。唇から痛々しいほどの感情が溢れてくるようで、耐えきれず目を閉じて彼の視線から逃れようとした。

ああ、会いたいよ、会いたい。
でもあなたはここにいないから。

私が裏切っている優しい彼のことを思い出しながら本好のキスに応えていた。私は、いつからこんな最低な女に成り下がってしまったのだろう?自分でもつくづく嫌になる。
でも、でも、でも。思考はとめどなく彼の元へ沈んでいく。会いたい時、抱きしめて欲しい時、その唇に触れたい時、どうしてあなたは私の隣にいてくれないの?

空港で彼を見送った時に言えなかった言葉が渦を巻いて塩からい涙になって、今私の頬を伝っている。本好の手に落ちる。それとも、泣けない彼の涙が唇から私へ伝染してきたのかな。どちらにしてもこれは私たち二人の痛み。麓介には渡せなかった汚い痛み。こんなものを共有させてしまってごめんね。思わず握った本好の手は麓介のより細長くて、小さく震えていた。

ねえ、なんのために恋人になるかって、世界中でお互いひとりぼっちのわたしたちのどうしようもないさみしさを慰め合うためじゃないの?

そんな馬鹿げた問いの答えも出せない私たちは二人して誰にも受け取ってもらえない思いを持て余しながら、今夜も慰めあって傷つけあって薄ら寒い春の夜更けをやり過ごしていた。


130414 ゆずこ
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