十話 | ナノ


10th game

お菓子が食べたい。トイレを終えた紫原は手を洗いながら思った。

陽泉高校を乗せたバスが体育館の駐車場に入ったのは午前10時頃のことだ。いつもの郊外練習ならバスから荷物を運び出した後、集合し監督である荒木の話を聞いて館内へ移動という形なのだが、今回は違った。
秋田から東京という長旅でかつ、トイレ休憩の暇さえない交通機関の乗り換えは紫原の生理的現象の限界を刺激した。実際のところは鉄道利用時、車内トイレがあったのだが、紫原は早朝起床の影響ですっかり夢の世界へ旅立っていたし、その時は尿意など微塵もなかったのだからしょうがないというのが紫原の言い分だ。

そのため、彼は到着して早々に問題を解決するために単独行動に出た。

元来、紫原は己の欲求に忠実だ。食べたいから食べる。ムカつくからヒネリつぶす。好き嫌いがはっきりしているのだ。そして、今もそう。トイレをしたいからトイレに行った。
我慢して集合の後に行かないといけなかっただろう、と紫原は思う。

我慢。
中学の頃の自分は意識すらしなかった言葉だ。意識し出したのは心から敗北を味わったあの冬。我慢せずに自身の感情の赴くままにプレイした結果積もり積もった疲労によって競り負けた。
冷静にいるためには我慢強さが必要だ。何かでそんな言葉を聞いて、自分に我慢強さがあれば負けなかったのだろうか。紫原は考えた。

そんな、生理的現象の我慢から人間の内面的な部分について分析するという凄まじい脱線をしながらトイレから出ると、甘く香ばしい匂いが紫原の鼻腔をくすぐった。

これは、クッキーだ。

お菓子に関してのみ嗅覚が発達している紫原がそう思って匂いの元へと視線を向ければ、そこには給水キーパーに水を足す小さな少年がいた。

「ねぇ、キミ」

「うわ!あ、はい!何でしょう!」

いきなり声をかけられたことに驚いて少年はこちらを向く。その様子を気にすることなく紫原は用件を口にした。

「キミさぁ、クッキー持ってる?」

「え……」

自分の質問に怪訝な顔ではなく、何で知っているんだという顔をした少年に、当たり、と心中呟いた。
しかし、そこからどのように言おうか困った紫原は、そのままクッキーが入っていると思われる少年のバッグを見つめる。
すると少年がバッグを指さして紫原に訊いた。

「あの、食べます……?」

今度は紫原が驚いた。まさか本当にクッキーにありつくことが出来るとは。
クッキーが目的で声をかけた癖に、予想外の少年のお人好しさに戸惑いつつも無言で頷く。
少年はガサガサとバッグを漁ると、シンプルにラッピングされたクッキーを取り出した。

「それ、人にあげるか貰ったかしたやつじゃん。いいの?」

「家に残りがありますし、必要な分は別でとってあるから良いですよ」

どうぞ、と少年は紫原を見上げてクッキーを差し出した。その視線の距離に少年が黒子よりも小さいことに今更気付いた。紫原が受け取ると、急いでいるんで失礼します、と少年は言い、いつの間にか満タンになった給水キーパーを持ってその場を後にした。

早速ラッピングをほどいて一枚手に取る。市販のクッキーみたいに綺麗な見た目だ。一口かじると、ほどよい甘味と小麦と卵の焼けた香ばしい匂いが広がった。

「……うまいし」

給水キーパーの重さに少しフラつきながら角に消えた少年の背中を思い出して、手伝ってあげればよかったと思った。

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130107

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