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あの日。
歌謡祭の自分の役目を無事果たした後、確かに藍の全ての機能は停止した。
それは、自分の核なる存在、アイネ――如月愛音との接続を無理矢理解除した事が原因により起こった現象。予め定められていた藍の運命だった。
それでも、藍には後悔は無かった。
自分の為だけに最愛の人が懸命に作ってくれた曲。それを最愛の人が見守ってくれている中、歌う。自分が歌うことで、愛する人の未来を切り開くことが出来たのなら、藍にとってはこれ以上の喜びは無かった。
いつの間にか春歌が掛け替えの無い存在になり、何時しか彼女を自分の曲でデビューさせることが、藍の夢になっていた。
夢を願う、祈るなんて行為、昔の自分からは想像できないモノだった。
夢なんて存在は、至極曖昧で、不確かで。最初はそんなものを否定さえしていた。
だけど、春歌に出会い、彼女を知り、人を理解していく中で、藍の中の何かが少しずつ変化していった。
ソングロボという存在だけの自分。始めは、ただ与えられた役割を演ずるだけで良かったはずなのに。そんな藍に、あらゆる色を分けてくれたのが、春歌だった。
悲しみ色。
苦しみ色。
喜び色。
幸せ色。
人の感情には様々な色があること。こんな自分にも似たような感情を抱けること。
そして、何より人を愛する想いを教えてくれた。
春歌が無色だった藍の世界に、鮮やかな色を与えてくれたのだ。
淡白い闇。
全機能が停止したはずの藍が見たのは、正にそんな世界だった。
少しも暗くはないのに、何故か、藍にはそれが闇のように感じた。
自分の中の機能は全て停止しているはずなのに。幾つかの感覚が、そして自己が、不思議とこの世界には確かに存在している。
藍はふと辺りを確認するように見回した。
目の前には水平線。海。そして、背後には砂浜。時折、藍の足元に向かって押し寄せる、白い波。けれど、潮騒だけが聞こえない。
音が無い世界、色を失った世界。
此処が世に言う、黄泉国という場所なのだろうか?死後の世界のことはよく分からないけれど、何と無く、ぴったりな気がした。
ということは、やはり、自分は死んでしまったのか。分かり切っていたことだけど。此処が現実世界ではないことを改めて認識したら、少しだけ哀しくなった。
暫くその場にしゃがみ込んで、これまであった出来事に思いを馳せる。
博士のこと。事務所の仲間のこと。手の掛かった後輩のこと。愛音のこと。それから、春歌のこと。
自らの防衛プログラムにより削除されていると思っていたあらゆる記憶は、自分の中にまだ鮮やかに色褪せることなく残っている。
不意に立ち上がり、思い立ったように、藍は歩き出した。
身体中を包み込む、弾力のある、不思議な靄のような物体。ふわふわとした感触に包まれて、足が地についているかどうかも、判然としない。それでも藍は踏みごたえのない地面を踏んで、歩を進める。歩くというよりは、水を掻き分けて泳いでいるような感じだ。藍には元々泳ぐ機能は設定されていない為、思うように身体を動かせず、なかなか進まない。
自分が演じた人魚の王子なら、上手く泳げるのだろうか――ふとそんなこと思った。
延々と続く淡白い世界。果てのない、地平線。どれくらい進んだんだろう。
一向に変わらぬ色彩に、軽い眩暈を覚え、とうとう藍は歩むことを止めてしまった。
「春歌…」
呟いて、藍はその場に蹲る。
変だ。
名前を呼んだところで、何が起こる訳でもない。もう彼女には会えないというのに。こんなの、変だ。こんなの、おかしい。
「春歌……」
音の無い世界に、自分が紡いだ愛しい者の名前だけが、クリアに響く。空虚感を乗せて、切なく響いた。
「…………?」
不意に何処からか。自分を呼ぶ声が、聞こえたような気がして。
「アイ……?」
藍はゆっくりと顔を上げる。
目の前には、自分によく似た人物が立っていた。
こうやって彼と会うのは、二度目だ。一度は、彼との接続を解除した時。この世界の海とよく似た場所だった。
「アイネ…ッ?」
思わず藍は、その場に立ち上がる。
正面から対峙した愛音は、鮮やかなアオを身に纏っていた。海のように深い青と、空のように透明な蒼色を。彼の立っている場所だけが、確かな色を持っている。そんな風に感じた。
「アイネ、どうして君がこの世界に?」
そう藍が尋ねたら、愛音は怪訝そうな表情を此方に向けてくる。
「だってココは、俗に言う、あの世、なんでしょ?君がココに居るのはおかしくない?」
黄泉国は死んだ者が行く場所だ。ラボの地下室で。自分との接続を解除した後も、愛音の心臓は脈打っていたし、呼吸もしていた。彼は確かに生きていたのだ。
なのに、どうして此処に?
すると、クスクスと、おかしそうに彼が笑った。
「違うよ、アイ。残念ながらここは、君が言うような死後の世界じゃないよ」
「え?」
ならば、此処は何処だというのだろうか?
「ここはね、僕の世界なんだ」
「アイネの…?」
藍の問いにこくり頷くと、愛音は、正確にはもう一つの、僕の精神世界なんだ、と言葉を付け加えた。
「でも、もしココがアイネのいう君の世界だとしたら、ボクはどうしてこの世界に来たんだろう?」
あの時、確かに彼との接続を解除した。自分と愛音を繋ぐ鎖は、自らの手で断ち切ったというのに。どうして…。
「それは僕にもよく分からないんだ。これまでの君との繋がりの力がもたらしたことなのか、それとも、他の理由が働いたのか。僕にも何とも言えないんだけど…」
「…そっか」
しばしの沈黙が訪れる。その後で、愛音が口を開いた。
「歌、聴いたよ」
「歌?」
「アイが僕との鎖を断ち切ってでも歌おうとしていた、あの歌のことだよ」
「…聴いてくれていたんだ」
愛音は藍の全身全霊を込めた、春歌と一緒に作り上げた歌を聴いていてくれたのだ。
「ありがとう」
「え?」
突然、目の前の人物に礼を言われ、何のことなのか分からず、藍は首を傾げる。
「アイのお陰で、暗い海の深淵から抜け出すことが出来たんだ。だから…」
「ボクは何もしてないよ?」
「うぅん、そんなことない。アイがずっと側に居てくれたから。僕にあの歌を聴かせてくれたから、僕は此処にいるんだ。直ぐに直ぐは、人を信じたりするのは無理かもしれない。あの世界に戻るのも、正直まだ怖い。でももう一度最初からやってみようと思う。少しずつだけどね。…ねぇ、応援してくれる?」
「勿論、そんなの当然でしょ」
藍はにこりと笑って、力強く頷いて見せた。
「ありがとう、アイ。じゃあ、今度は僕が、君を救う番だね。今から、君に帰る方法を教えてあげる」
「帰る方法?」
「うん」
僕は、貸しは作らない主義なんだ、そう言って愛音は軽くおどける。それから、そのまま言葉を続けた。
「これは僕のやり方だから、絶対に成功するとは言い切れないけど。でも、僕のことを理解してくれたアイなら、きっと大丈夫だから」
ふわり笑みを湛えると、一度しか言わないからよく聞いて、と念を押して、愛音は自分が唯一知り得る、戻れる方法を教えてくれた。
「もうここからは一人で平気だよね、アイ」
「うん」
勿論、不安が無いという訳じゃない。だけど、自分を信じて待っていてくれる人たちがいるから。
「…アイネ、また会える?」
「さあ、どうかな」
会えるかもしれないし、会えないかもしれない、と。愛音は業と言葉を濁してみせた。
「ボクは信じているよ、アイネ。また君に会えるって」
「さあ、そろそろ行きなよ、アイ。ここから離れたら、振り返ったらダメだよ。自分を信じて、仲間を信じて歩き続けるんだ、いいね?」
「…うん」
藍の両肩に手を掛けると、愛音はくるりと身体を反転させた。それから彼は、両方の腕で軽く背中を軽く押さてくる。
「僕は君の姿をここで見守っているよ。君が見えなくなるまでね。…じゃあね、アイ」
愛音の言葉に促されるように、藍は静かに歩き出した。
一歩、二歩と。少しずつ、少しずつ。愛音から離れていく。彼が遠ざかる。
後ろ髪を引かれる思いを僅かに残しながらも、藍は立ち止まらずに、振り向かずに。ゆっくりと、でも確かな足取りで歩を進めていった。
暫く歩くと光を帯びた、大きな扉が目に止まった。
「…これがアイネの言っていたドアかな」
真っ白で、でも光沢のある扉。表面には装飾的な彫刻が施されている。この感じだと、扉はかなりの厚みがある。ノブは白銀。所謂、プラチナと同じような色をしていた。
果たしてこの先に、彼の言っていた世界が広がっているのだろうか?
一抹の不安を抱きつつ、藍は静かにノブに手を掛ける。
しっかりとノブを掴むと、藍は意を決して、扉を押す。すると扉は、音もなく開いた。
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