君が怖いものを見なくてすむのなら
日の光を浴びて、目の前に広がる雪の絨毯が光り輝く。
「翔ちゃん…」
突然、白色のモノクロームの世界に置き去りにされたかのように、僕は自分の居る位置も分からず、立ち竦んでしまう。
さわさわと。風が冷たさを運んでくる。
「那月」
風の音に紛れて、僕を呼ぶ愛しい声が聞こえてきた。
「那月、俺は此処だ。ほら、此処に居る」
僕は声のした方へと、視線を滑らせる。
けれど、そこに彼の姿はなくて。
「那月」
さわさわさわ。
再び、風の音。目の前に広がるパウダースノーが、風に乗ってさらり流れていく。
さわさわさわ。
風の音が、彼の声を覆い隠してしまう。
「那月……那…月……那…」
段々と遠くなる声。消えていく声。
「翔…ちゃん…」
いつの間にか。
少し離れた場所に、微笑みを湛えた彼が立っていた。
背後に、気の遠くなる程の純白を引き連れて。
白。真っ白。多分、それは雪の色。
もう一度強い風が吹いて、彼の髪と、ジャケットと、そして雪が揺れた。
はらはらと揺れて、視界一面に広がる、白。
地面は勿論、空も。そして、彼自身までもが白色に紛れていくような、そんな錯覚を起こす。
「翔ちゃん」
僕は思わず手を伸ばした。彼に触れようとして。近付こうとして。
だって…。
白色に包まれて。涙が出るような、美しい純白に包まれて。
彼が…。
翔ちゃんが、消えようと、していたから。
「翔ちゃん……っ!」
消えないで。どうか、行かないで。
僕を独り、置いていかないで。
目の前の白が、徐々に霞んでくる。ぼやけていく。
雪の色ではなく、ただの白色に変わっていく。
さわさわさわ。
そこに残ったものは、白く霞んだ世界と、何時までも続く風の音だけ――。
目覚めて、最初に映ったのは、心配そうな彼の瞳だった。
「那月…?」
彼が僕を呼ぶ。いつもの、聞き慣れたその声で。
「翔…ちゃん」
幻、なんかじゃ、ないんだよね?
本当に此処に居るんだよね?
「翔ちゃん…っ」
僕は思わず彼に抱き着いた。
縋り付くように、強く強く。
「な、那月!?どうしたんだよ、いきなり」
彼の少々驚いた声が、耳を掠める。
伸ばされた腕にしがみついたまま、僕はゆっくりと口を開いた。
「夢をね、見たんだ」
「夢?」
「翔ちゃんが、消えて……何処にもいなくなってしまう、夢」
「………」
「凄くリアルな夢で……、色とか音とか、そういうもの全てが鮮明で…。だから」
何だか、怖くなってしまったんだ。
「バカ、んなことある訳ねぇだろ。お前一人残して、俺が消えるなんて、そんなこと…」
「…翔ちゃん」
不安を訴える僕の身体を受け止めて、そっと髪に触れてくる。
「那月…、大丈夫だから」
頭に、肌に、直に伝わってくる、彼の体温。確かな温もり。
「俺は此処に居る。お前の傍に居るだろ?」
幻…じゃ、ないんだよね。彼は確かに此処に居る。僕の目の前に。
「ほら、もう少し眠ろうゼ。起きるには、まだ早過ぎる時間だ」
僕は静かに頷いて、彼に促されるまま、再び横になる。
「…ねぇ、翔ちゃん」
「うん?」
「お願いがあるんだけど」
「何だよ、言ってみろよ」
「一緒に…。僕と一緒に寝てくれないかな?」
「はぁ?お前、何言って…っ」
「別に疚しいことはしないよ。翔ちゃんがちゃんと傍に居るんだ、って感じたいだけ。確かめて眠りたいだけ」
「………」
「ダメ…かな?」
「…ったく、しょうがねぇな。今日は特別だぞ」
渋々僕の願いを聞き入れると、彼はそっと布団の中へと入ってきた。
向かい合った状態で、宥めるように僕の髪を撫でて。それから、僕の背中に腕を回してくる。
「…次にお前が目を覚ますまで、俺がこうしててやっから。お前は安心して寝ろって」
「……ありがとう、翔ちゃん」
彼の柔らかな温もりと匂いに誘われるように、そっと瞳を閉じる。
翔ちゃん…――。
我が儘を言って、ごめんね。
困らせて、ごめんね。
だけど今は、翔ちゃんの温もりを感じさせて欲しかったんだ。
翔ちゃんが僕の傍に居るってこと、実感させて欲しかったんだ。
この時、この瞬間だけでいいから。
ほんの少しだけ、翔ちゃんを感じさせて。
もう僕が、怖い夢を見なくて済むように…。
君が怖いものを見なくてすむのなら、(俺は幾らだって嘘をつく)
for now END...
(20120304)
(彼が発作を起こして倒れるのは、それから数時間後のことだった――)
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