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これのつづき
崖から飛び降りた。死んだと思っていた。だけど即死できなかった体は今まで感じたことのない激痛と熱に襲われていた。痛い。熱い。苦しい。早く死なせてほしい。絶望に似た気持ちで死を待っていると、視界に一人の少年が映り込んだ。真っ白で、どこか浮世離れした小さな子供。ああ、もしかすると彼は死ぬ人間の前に現れるという天の使いだろうか。
彼は私の顔を覗きこみながら何かを言っているようだったけれど、耳が聞こえない。きっと崖から落ちるときにあちこちぶつけたせいだろう。それでもこの子に応えたくて、最後の力を振り絞り笑顔を作ろうとした。ちゃんと笑えているだろうか。意識が薄れていくなか、少しだけ目を丸くした少年の顔が見えた気がした。
死んだ、はずだった。目を覚ますと気を失う直前に見た少年がすぐ傍に座り込んでいる。どういうわけか、あれほど痛かった身体の痛みがない。体を起こして呆然としていると、彼の方が先に口を開いた。彼は、自身が"鬼"と呼ばれる存在であること、死にかけていた私を生かしたこと、そして私が彼の血を分け与えられたことで人間ではなくなっていることを口にした。俄かには信じがたい話だったけれど、あの状況で助かるなんて普通では考えられない。それを思うとこの話もあながち嘘だとは思えなかった。
「今ここで決めて。僕に殺されて死ぬか、僕の家族として生きるか」
累と生きるようになって間もなく、私は顔を変えた。元の顔の面影は一斉なく、累によく似た顔になった。どこから見ても以前の自分とは全くの別人である。どうせ一度は死んだようなものだし、顔を変えることに対して抵抗はなかった。人間だった頃の家族や自分自身が嫌いだったから、ある意味丁度良かったとさえ思う。
「また鏡を見てるの」
「わあ!」
気配なく背後から現れた累に驚き、手鏡を落としてしまった。
「驚くから後ろにいるときは声かけてねって言ってるのに」
「声ならかけたよ。名前姉さんが気づかなかっただけでしょ」
そんなことより疲れたから膝貸して。こちらの返答も聞かないうちに累は私の膝に頭を乗せて横になった。
ここでの私は"累の姉"ということになっている。理由は不明だが彼は"家族"を作りたいらしい。過去には他の兄や姉もいたらしいけれど、累の機嫌を損ねて殺されてしまったようだ。だから今、彼の家族は私一人だけである。
「ねえ、どうして鏡を見てたの」
真っ直ぐにこちらを見上げてくる累の頬を撫でながら「累に似てるこの顔が好きだからだよ」と答えると、抑揚のない声で「そう」とだけ返事が返ってきた。
太陽の下を歩くことはできなくなってしまったけれど、私は今の鬼の人生も好きだ。人でなくなったことを嘆く気持ちより、人間だった頃のしがらみから解放された喜びの方がずっと大きかった。まさかこれほど自由気ままに生きられる日が来るなんて、昔の私では想像もできなかったから。
「累とずっと一緒にいられたらいいのになぁ」
「おかしなことを言うね。僕たち家族はずっと一緒だよ」
「鬼は無理やりどこかに嫁がされたりしないの?」
「しないよ。そんなことさせない」
「そう。よかった」
人間ではなくなった今、私は嫁ぐ予定などまるでないけれど累はどうだろう。優しくていい子だから素敵な恋人を見つけて、いつか離れて行ってしまう日が来るかもしれない。
「……」
「名前姉さん? どうしたの」
「累が結婚していなくなっちゃう想像をしてたら寂しくなってきた……」
「勝手な妄想で傷つかないでくれるかな」
「……ごめん」
駄目だなぁ。姉の私がこんな弱気でどうするの。今は累と過ごせるこの時間を大切にすることだけ考えよう。うん、それがいい。
「心配性な姉を持つと苦労するよ」
言葉とは裏腹に、累の表情はいつになく穏やかだった。
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