「……、……名前」
誰かの声が聞こえる。優しくて、穏やかな声音。このままずっと聞いていたくなるような、不思議な声だ。
「名前」
「!」
声に引き上げられるように突然意識が浮上する。そういえば、お盆休みの間は実家に帰省していたのだっけ。家族の誰かが呼びにでも来たのだろうと目を開ければ、そこにいたのは家族ではなく、一人の男性だった。
あれ? ちょっと待って。この人、まさか、
「お、お館、様……?」
かろうじて喉から出せたのはこの言葉だけだった。私はこの人を知っている。知ってはいるけれど、それは漫画の中の登場人物としてであり、到底目の前に現れるような人物ではない。でも、目の前にいる彼は確かに生きている。
「報告の途中で眠ってしまったんだよ。覚えているかな?」
「……」
全く覚えがなく、小さく頭を左右に振った。申し訳ありませんと呟くと、彼は柔らかく微笑んで言葉を続けた。
「昔を思い出すね。君は初めて会ったときもこうして眠っていた」
「え、あの、」
「報告ありがとう。義勇と約束をしているのだろう? 彼ならもう来ているよ」
お館様の視線を辿ると、屋敷の向こうに義勇さんが立っているのが見えた。そういえば今日は蕎麦を食べにいく約束をしていたような記憶がある。けれど、それと同時にやはり彼も漫画の登場人物であるという認識もあって、何が何だかわからなくなってきた。
この場で固まっているわけにもいかず、ひとまずお館様に一礼して義勇さんの元へ向かった。状況を飲みこめないまま彼についていくと、本当に蕎麦屋に到着した。いや、約束していたのだから当然の目的地ではあるのだけれど。現状と頭の中にある現実がごちゃ混ぜになっていて頭がおかしくなりそうだ。実家で昼寝をしていただけの私が、なぜ当たり前のようにこの世界に存在してしまっているのだろう。
「……」
美味しいと評判らしい蕎麦の味は全くわからなかった。
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