夜になると彼がやってくる。どれだけ念入りに戸締りをしても、どこにいても。
薄暗い部屋の隅、そこが私の居場所だ。家族が寝静まっている時間帯だけ、私はここで落ち着いて息を吸うことができる。父は死に、病弱な母と妹と三人で生きてはいるが、日々の暮らしは苦しくなる一方だ。生きるだけで精一杯、余裕なんてどこにもない。体と心をすり減らしながら、かろうじて命を繋ぐ毎日だった。
心配をかけないように笑顔を作るのも、元気なふりをするのも息が詰まる。これからもずっとこんな日々が続いていくのだろうかと思うと、とても前向きな気持ちにはなれなかった。溢れだした涙を拭うこともなく静かにうずくまっていると、床がギシリと音を立てた。ああ、彼だ。
「可哀想に。また泣いているんだね」
男は名を童磨という。いつの頃からか、彼は私が夜に泣いていると姿を現すようになった。なんとかという宗教の教祖だという話だったけれど、暇なのだろうか。
「触らないで」
頬に触れられた手を払いのけると、彼は笑顔のまま手を引いた。
「名前ちゃん」
「……」
「そんな怖い顔しないで。ほら、笑ってごらん」
「帰って下さい。あなたの宗教には入信しません」
前に一度だけ、この男に連れられて見た光景を思い出す。案内された部屋の中には血塗れの信者達が横たわっていて、一人残らず息耐えていた。吐き気がして口を開くことができずにいると、童磨さんは「大丈夫だよ。彼等はこれからちゃんと救ってあげるから」となんでもないことのように言ってのけたのだ。あまりの気分の悪さにその救済方法を聞くこともできず、私は逃げるように部屋を飛び出した。だって、あんなの地獄だ。
「君さえ望めば、すぐにでも救ってあげられるのに」
「仏もあなたも信じてません。ほっといてください」
「そうみたいだね。残念だけど今日の勧誘は諦めるよ。無理強いしてもいけないからね」
「……今日は?」
「今日は。だって明日になったらまた気が変わるかもしれないだろ?」
救ってあげたいんだ、名前ちゃんを。耳障りのいい言葉を聞き流しながら、私はぼうっと彼の瞳を眺める。薄暗い闇の中にあっても彼のそれは宝石を閉じ込めたみたいにきらきら輝き、揺らめいている。
「俺はいつだって君の味方だよ」
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